三章 恋人役のレッスン
第18話 嫌われマニュアル
清掃の仕事が休みの日に、ヴェサリス執事を訪ねた。テーブルの上に封筒を置く。
「恋人役の仕事を辞めます。申し訳ありません。お金をお返しします。全額でなくて申し訳ないのですが……。残りも必ずお返しします」
「なにがあったのですか?」
ヴェサリスの
それでもわたしは、本音を口にだせずにいる。
本当はもう、一人で抱え込むことに疲れていた。打ち明けたい。頼りたい。そう思っていても口を閉ざしているのは、やさしく親切な人たちに迷惑はかけられない。その一心だった。
「なにもありません。ただ、恋人役の契約を解消したいんです」
「ですが、アルオニア様は恋人役の解消を認めないとおっしゃっています」
「ですがこれ以上は、無理なんです。わたしは、アルオニア様の隣にいていい人間ではないんです」
「ご自分の価値を、見誤らないでください。失敗したり、ドジを踏んだりして落ち込んでいるのでしたら、気にしないでください。それがかえって、アルオニア様を癒しているのですから。あの方は常に毅然とした態度をとるよう求められ、物事を完璧にこなしています。緊張を解く暇がないのです。アルオニア様にとってリルエさんは、くつろげる存在なのです」
ヴェサリスはこうやっていつも、わたしを励ましてくれる。自信を持たせようとしてくれる。
それでもわたしは、首を横に振った。
頑なな態度に、ヴェサリスは説得するのを諦めたように深い吐息をついた。それから、窓辺に立って外を眺めた。
「わかりました。ですが、わたくしはアルオニア様にお仕えする身。主人の願いを叶えるのが仕事です。アルオニア様は恋人契約の続行を望んでいる。それなのに、契約解消を勧めるわけにはいきません。ですが裏から手を回して、契約を解消する手助けをすることはできます」
「本当ですか⁉︎」
「はい。要は、アルオニア様に嫌われればいいのです」
振り返ったヴェサリスの顔には、午後の日差しが当たって陰影ができている。
「嫌われる……」
「はい。恋愛マニュアルの反対をいきましょう。嫌われマニュアルを作ります。リルエさんは、それに従って動いてください。アルオニア様に嫌われる行動をとれば、契約解消できるでしょう」
胸がチクリと痛んだ。けれどそれに気づかないふりをして、「よろしくお願いします」と頭を下げたのだった。
エントランスでマッコンエルに出会った。なにも知らないマッコンエルは、陽気な笑顔で片手を上げた。
「今日は勉強の日だろう? 今から、ジュニーちゃんとトビンを迎えにいくところなんだ。リルエちゃんは屋敷に残って、みんなと夕食を食べるよね?」
「わたしは帰ります」
「え? どうして?」
頼りがいのある兄のような存在のマッコンエルに、張り詰めていた気持ちが緩み、耐えていた感情が一気に噴きだす。
「わたし、あの……どうしよう……」
「わー、リルエちゃん!! どうしたっ⁉︎」
突然泣きだしたわたしに、マッコンエルが慌てふためく。
「なにかあったの⁉︎」
「わたし……」
泣き顔を見られたくなくて、両手で顔を覆う。
胸がなぜチクリと痛んだのか、本当はわかっている。
——王子に、嫌われたくないのだ。
母のことを打ち明けられないのも、迷惑をかけたくないと思うのも、すべては、嫌われたくないから。嫌われるのが怖いから、嫌われる前に、恋人役の解消をして離れようとしている。
それなのに、契約解消のために嫌われないといけないなんて、滑稽だ。
マッコンエルは、泣き止まないわたしをしばしの間抱きしめてくれた。背中をポンポンと叩かれる。
「なにがあったかわからないけどさ、困ったことがあるなら、アル王子に話してごらんよ。相談に乗ってくれるから。俺が聞いてもいいけど、嫉妬されるとまずいからさ」
「大丈夫です。ごめんなさい」
「あっ!!」
マッコンエルはびくりと体を震わせると、感電したかのように乱暴に身を引いた。
「ヤバいっ!!」
「え?」
「見られてはいけない人に、見られてしまったぁーー!!」
振り返ってエントランスの奥に目をこらしたが、そこには誰の姿もなかった。けれど、足早に去っていく靴音が響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます