第17話 恋人契約の解消

 劇が終わり、わたしたちはバルコニー席を出て、ゆっくりと階段を下りていく。

 王子が、「肩肘の張らない、自然体でいられる関係っていいな……」と、ぽつりとこぼした。

 一瞬、自分たちのことを言ったのかと錯覚してしまった。わたしも同じことを思っていたから——。

 けれどすぐに、王子は芝居の感想を述べているだけだと思い直す。


「わたしもそう思います」

「リルエも?」

「はい。いいお芝居でした。前半は喧嘩ばかりでハラハラしましたが、互いにそのままの自分でいられるって、素敵な関係ですね。役者さんのお芝居が上手で、のめり込んでしまいました」


 王子は妙な間を開けてから、「芝居の話ではなく……」と呟いた。劇を見終えた人々でロビーはごった返していて、王子の声はかき消されてしまった。

 劇場を出たところで、ふと、左前方を見た。その瞬間、頭から冷や水を浴びせられたような恐怖が全身を駆け巡る。


 ——母の恋人であるアーロンが、いる。


 楽しかった気分が一瞬で弾ける。

 考えてみれば、ここにアーロンがいてもなんら不思議ではない。彼は売れない舞台俳優。今日の舞台に出ていなかったけれど、もしかしたら舞台裏で働いていたのかもしれないし、または客として劇を見に来ていたのかもしれない。

 観劇デートに浮かれていて、アーロンの存在を忘れていたわたしが浅はかだった。

 

 アーロンの顔には、悪い男の見本のような笑みが張りついている。アーロンの視線がわたしから、隣にいる王子に移った。


「早く行きましょう!!」


 王子の返事も待たずに、わたしは駆け足で馬車乗り場に向かった。

 エスコートしようとする王子の手を取ることなく、急いで馬車に乗り込む。


「どうしたの?」


 突然態度がおかしくなったことを王子は訝しんだが、わたしはなんでもないと言って、口を閉ざした。

 張り詰めた静かさが、馬車の中に充満する。

 王子の眼差しから、わたしが話すのを待っているのを感じる。けれどわたしは、アーロンのことも母のことも話したくない。


 アーロンは人の顔と名前を覚えるのが得意だし、芸能通だ。わたしの隣にいたのが、エルニシア国のアルオニア王子だとわかったはず。

 劇場前は、芝居を見終えた客たちであふれていた。アルオニア王子が、わたしの隣にたまたまいただけだと、そう思ってくれたらいいのだけれど……。

 母にアルオニア王子のことを話し、お金をたかるように仕向けたら最悪だ。

 アーロンはずる賢いし、口がうまい。母はアーロンに言いくるめられて、親戚中を回ってお金を借りたことがある。

 親戚に借りたそのお金は母一人では返すことができなくて、結局わたしが学校を辞めて働くことになった。


 わたしは柔らかな座席に背中をもたせて、視点の定まらない目で風景を眺めた。

 王子は「困ったことがあれば言ってほしい。頼ってほしい」そう言ってくれた。

 けれど、どう頼ればいいというのだろう。

 母を恋人から引き離してほしい? アーロンの言いなりになっている母を叱ってほしい? 母がアルオニア王子の屋敷に行ってお金をせびっても、貸さないでほしい? 親戚から借りたお金をまだ全額返せていなくて、どうしたらいいでしょう?


 王子の反応が怖くて、言えない。なにより、母のことで迷惑をかけたくない。

 わたしは覚悟を決めると、重い口を開いた。


「恋人役の契約を、解消しませんか……」

「なぜ?」

「デートをして、わかったんです。わたしは、きらびやかな世界にいていい人間ではありません。居心地が、悪いんです。頑張ったけれど、楽しめませんでした。わたしには無理です」

「なにかあった?」

「劇場という華やかな場所に行って、住む世界が違うことを痛感したんです」

「それは、君の本心? 本当は別なことが心にあるんじゃないの?」


 込み上げる涙を押し留めるために、笑おうとした。けれど頬が引き攣って、うまくいかない。劇場では、顔の筋肉が痛くなるくらいたくさん笑えたのに……。

 

「契約期間はまだ残っている。どんな仕事でも精一杯頑張るんじゃなかったの?」

「ごめんなさい」

「謝罪を聞きたい訳ではない。俺といるのは、つまらない?」


 黙っていると、王子はまた「俺といるのは、つまらない?」と繰り返した。


「そういうわけでは……。でもこれ以上は無理なんです。ごめんなさい」


 馬車が屋敷に着いた。わたしは馬車から降りると、頭だけ下げた。涙があふれてきて、別れの挨拶を述べることができなかった。

 一目散に、屋敷の外に向かって走った。


「痛っ!!」


 慣れないハイヒールを履いているため、思いっきり転んでしまった。ドレスが土で汚れ、擦った膝頭に血が滲む。

 人の往来のある道で号泣するわけにはいかず、ジクジク痛む足を引きずって、川辺まで歩いた。

 王子と一緒に落ちた川に、否応にも思い出してしまう。あのときの王子は、素っ気ない態度と、冷ややかな目をしていた。

 今日のデートの王子と全然違う。目尻の下がった、やさしい笑顔を向けてくれるようになったというのに……。

 屈託のない笑顔をもう見られないかと思うと、胸が張り裂けそうなほどに痛くて、胸元を押さえてうずくまった。嗚咽がこぼれる。

 

 アーロンが一流の俳優になることを、夢見ている母。わたしも王子といることで、お姫様になった夢を見ていた。

 母のようになりたくないと思っていたのに、結局、同じことをしていた。

 もう、夢を見るのはやめよう。目を逸らすことなく、現実を見よう。

 契約に基づいた役柄も、恋の魔法も、いつか解けるときがくる。

 どんなに優しくされても、楽しい時間を過ごしても、それは恋人役という演技にすぎない。わたしと王子の間に本物の恋は存在しない。


 わたしは、日が暮れるまで川辺にいた。そうして疲れ果てた身体と心を引きずって、ジュニーとトビンの待つ家へと帰った。

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