第16話 夢に溺れたい
生まれて初めて、劇場に足を踏み入れた。
世界一美しいと言われている、サイリス国立劇場。そこはまさに、豪華絢爛な夢のような世界だった。
天井の高いロビーを飾っているのは、クリスタルガラスでできたシャンデリア。豪奢なシャンデリアが放つ黄金のきらめきから目が離せないでいると、隣にいるアルオニア王子がクスクスと笑った。
「リルエ。口が開いている」
「あ、すみませんっ!」
慌てて口を閉じる。
大理石でできた床に、シャンデリアの輝く光が反射している。幻想的な光陰の世界にいるのは、わたしの生活圏内では決してお目にかかれない着飾った客たちと、丁寧な物腰の劇場係員。
彼らは、落ち着いた態度で囁くように話している。
わたしの住む喧騒に満ちた雑多な世界とはなにもかもが大違いで、自分がひどく場違いな人間に思える。
——わたしは、ここにいていい人間じゃない。夢の世界に溺れないようにしよう。そうしないと、現実の世界に帰ってきたときに悲しくなってしまいそう……。
王子の手がわたしの腰にふれた。
「特別席を用意してある。案内するよ」
「は、はいっ!」
王子にエスコートされて、毛足の長い真紅色の絨毯が敷いてある階段を上る。
二階に設けられたバルコニー席には、ビロード仕立ての赤い椅子が置いてあり、舞台と一般席にいる人々を見下ろすことができた。
贅を尽くした至高の芸術世界に、心を奪われる。
天才画家が描いた大輪の花が織りなす天井画と、各柱に灯っている黄金色の照明。舞台上部は優雅な曲線で縁取られていて、舞台の芸術性を極限まで引き上げている。
細部まで計算された完璧な美しさに、もはやため息しか出てこない。
わたしはすっかり呑まれてしまって、ここにいてもいいのかという不安がさらに強くなってしまった。
落ち着かないでいると、王子は勘違いしたらしく、二階の右手側に化粧室があると教えてくれた。
気分を変えるために、わたしは席を立った。
十分後。化粧室から戻ってきたわたしは興奮状態のままに、捲し立てた。
「アルオニア様、すごいです!! こんなに素晴らしい化粧室が世の中にあることに、驚きました! とにかく広いんです。大きな窓から太陽の光が差し込んでいて明るいし、大きな鏡が六つもあるし、至るところに緑があって植物園みたいなんです! おまけにとても清潔で、ここの清掃員は優秀です。わたしも清掃の仕事をもっと頑張ろうって思いました。はぁ、なんて高級感あるトイレなんだろう。ここに住めたら、幸せ」
「ぷっ! トイレに住むの?」
王子は吹きだすと、長い前髪をかき上げた。
「帰ってこないから迷子になったかと思って、マッコンエルに探しに行かせたんだ。まさか、ずっと化粧室にいたの?」
「はい。だってすごく落ち着くし、とにかく清潔なんです。わたし思わず、洗面台の回りやパウダールームを観察してしまいました。髪の毛一本、落ちていないんです! びっくりでしょう!」
「まぁ、うん……」
「あ、そうだっ! 他の場所も見ていいですか? ここの清掃員の働きぶりを勉強したいです!」
「リルエ⁉︎」
椅子から立ちあがろうとするわたしの腕を、王子が慌てて掴んだ。
「待って! 今日は掃除の勉強をしに来たんじゃない。デートで来たんじゃないの?」
「あ……」
わたしは座り直すと、気まずさから視線を泳がせた。
「そ、そうですよね。どうかしていました。一つのことで頭がいっぱいになると、他のことが見えなくなるのって、わたしの悪い癖ですね。気をつけます」
王子は目元を和らげると、わたしの頬をぎゅっとつまんだ。
「僕は、その悪い癖に振り回されてばかりいる。人に振り回されるのが嫌いなのに……リルエが相手だと、嫌じゃないのが不思議だ」
王子の手が離れる。つままれた左の頬が熱い。まるで風邪でも引いてしまったかのように、一気に体温が上がる。
羞恥心に襲われてもじもじしていると、王子はわたしの顔を覗き込んで屈託なく笑った。
「はしゃいでいるリルエって、可愛い。その理由が、化粧室が広くて綺麗だったというのが、おかしいけれど。いつもそんなふうに明るく笑ってくれたら、いいのに……」
その言葉を、そのまま返したい。アルオニア王子だっていつもと違う。普段は、冷ややかな顔をしているくせに……。
見せない屈託のない笑顔が眩しすぎて、ドキドキが止まらない。
わたしたちは芝居が始まる直前まで、公演内容についておしゃべりをした。
ボールを投げ合うようにポンポンと弾む会話。王子もわたしも自然と頬が緩んでいる。
笑いすぎてしまったようで、顔の筋肉が痛い。それだけ普段の生活では、表情筋を動かしていなかった証拠だ。
声をあげて笑うなんて、どれくらいぶりだろう。楽しいと心から思えるのは、いつ以来だろう。
このまま、夢の世界に溺れていたい。王子のいるこの世界に、相応しい女性になりたい。そう、思った。
願っても叶うわけないと、わかっているのに——。
芝居が始まると、わたしはすぐに夢中になった。登場人物たちに感情移入し、ハラハラしたり、悲しんだり、ときめいたりと、情緒が忙しなく動く。
劇のストーリーは、遺産をもらうために偽造結婚をした男女が愛を育んでいくというもの。
最初は偽物だった愛。周囲の人々の目を欺くために、仲の良い夫婦を演じていただけの二人。
愛など愚か者のすることだと冷めていた男は、女の明るさに惹かれていく。
女もまた、不器用ながらも優しさを垣間見せる男に惹かれていく。
舞台が終わったとき、わたしの頭にあったのは芝居の登場人物ではなく、アルオニア王子のことだった。
もしかしたら王子とわたしの間にも、仕事じゃなくて、役じゃなくて、演技じゃなくて、人々の目を欺くためじゃなくて——本当の恋が始まるとしたら……。
そんなバカな考えが頭にこびりついて、しばらく離れなかった。
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