第10話 ベルフェゴール
この日、メフィストはいつもいるカントリーハウスから、フォグランドの首都、フォグリーにあるタウンハウスへとやって来ていた。
貴族は基本、こうやって二つの城館を持ち、行き来するものなのだ。ちなみにカントリーハウスは領地にある城館、タウンハウスは首都にある別邸のようなものだ。
「いやはや、いつ来てもフォグリーは混雑しているね」
馬車から降りてようやくタウンハウスの中に入ったメフィストは、やれやれと溜め息を吐く。
「旦那様は見目麗しいから大変よね。老若男女の視線を集めて」
そんなメフィストが手に持っていた杖を受け取ったリリスは、楽しそうに笑う。
「それを言うならば、君もだろう。誰も君がここで女中頭をやっているなんて思わないだろうね」
メフィストはリリスを見てくすりと笑う。実際、リリスが今纏っているのは、フォグランドで流行しているドレスだ。誰もがこの屋敷の夫人だと思ったことだろう。
「あら、許可したのは旦那様よ」
「そうだね。サルガ、早速で悪いが紅茶を淹れてくれ」
「畏まりました」
ここまでの会話を黙って聞いていた執事は、恭しく頭を下げる。そんな彼と別れて、メフィストはリリスとともにリビングへと入った。
「それでリリス。わざわざお洒落をして我々に付いて来た理由は?」
普段は気ままにこのフォグリーにやって来ている彼女が、わざわざメフィストに同行する理由はなく、現地で会えば良かっただけだ。それなのにやって来た理由は何なのか。
「そうそう。ここ最近、困ったちゃんがいるのよ。それで伯爵様に懲らしめてもらおうと思って」
リリスはくすりと笑うと、メフィストの横に座る。
「困ったちゃん? というと、君の狩り場を荒らしているのかな」
メフィストはそんなリリスの肩を、あくまでマナーとして抱き寄せると、事情を話せと促した。
「狩り場だなんて、無粋よ。それにこの国にいる男たちを落とすのは楽しいわ」
リリスはメフィストに垂れかかるとくすりと笑う。と、そこにサルガがやって来たが、もちろん注意することはない。
リリスという悪魔は気ままな存在だ。それを上手く使っているメフィストに感心こそすれ、それ以上の感情はない。サルガは無表情のまま二人の前に紅茶を置く。
「それで、どういう奴にお困りなんだ?」
メフィストはリリスを抱き寄せたまま器用に紅茶を飲むと、改めて訊ねた。
「それがねえ、ここ最近話題のプリマドンナなのよ」
「おや」
プリマドンナとは意外だなと、メフィストは肩を竦める。オペラ歌手は派手だし、パトロンを繋ぎ止めるためにそれなりのことをしているだろうが、自由に遊びほうけていていいわけではない。
「普通はね。でもその女、どうやらベルフェゴールと契約を結んでいるようなの。おかげでまあ、放蕩にやっても、男側が被害を受けるだけで、彼女には何の影響もないってわけ」
「ほう」
なるほど。困っているのはそのプリマドンナそのものではなく、契約を交したベルフェゴールの方か。メフィストは顎を擦った。
ベルフェゴールはかなり強力な悪魔だ。出来れば対立したくない相手でもある。それも七つの大罪の怠惰を受け持つ悪魔となれば、下手に手出し出来ない。
「どうしたいんだい?」
「別に。でも、挨拶もなしに勝手に何やっているのか、気になるでしょ」
昔から、この国に居憑く悪魔はメフィストだ。そこにやって来たからには挨拶くらいすべき。リリスはくすりと悪い笑みを浮かべる。
「というより、一介のオペラ歌手がどうやってそんな上位の悪魔と契約できたのかが気になるね」
しかし、メフィストは簡単にリリスの唆しを交すと、どう思うと、黙って聞いていたサルガを見た。
「そうですね。あの方は人間嫌いで有名な御方。惑わすのも基本は手下にやらせているはずです。それが自ら出てきているとなると、それなりの代償が支払われたことになります」
サルガは楽観視できない事態でしょうと苦い顔をする。確かにそちらが問題だ。堕落した魂を狩っているメフィストとしては、そんな代償を払ったことこそ問題にすべきである。
「ううむ。面倒そうだが、アガリに詳しく調べるように言っておいてくれ」
「畏まりました。それと、この点に関してルシファー様にお伺いする許可を頂きたいのですが」
「ああ、頼んだ。あの御方の機嫌は、最後の審判まで損ねたくないね」
メフィストはにやりと笑う。ここで言う最後の審判は、もちろん人間に下されるものではない。メフィストが覇権を狙う瞬間のことだ。
「承知いたしました」
「ワインと肉を持って行くのを忘れないようにね」
「もちろんでございます」
サルガはそこで下がっていった。
やれやれ。タウンハウスであれこれ仕事をこなさなければならないのに、厄介事が出てきた。メフィストはちらっとリリスを見ると
「社交界でもいい噂が拾えるといいですわね」
総てを見通した上でそう蠱惑的に笑ってくれるのだった。
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