第3話 伯爵の正体

 その夜。

 いつものように子爵の屋敷の地下で、血の宴が始まっていた。

「ひっ、ひいっ」

 男はすでに片足の骨を折られ、逃げるに逃げられない状態だった。

 たまたま、酒を飲みすぎて路上で寝ていただけだ。それなのに、いつの間にか簀巻きにされ、そして今、不条理に殺されようとしている。

 一体何がどうなっているんだ。

「もっと逃げろ」

 しかも、こんな狂った仕打ちをしてくるのが、ここを治める子爵様だなんて。

「っつ」

 逃げろと言われても、もう恐怖で身体が動かない。

 どうしてこうなったと必死に考える。

「おや。お前、浮浪者にしては身なりがいいな。まあ、いいか。誰であっても、死んでしまえば終わりだ」

「うっ」

 子爵の言葉に、男は最近、浮浪者が不自然に行方不明になるという話を思い出した。

 まさか、この子爵がこうやって殺し回っていたのか。

 いくらその土地に住み着いたならず者とはいえ、なんたる仕打ちだ。

 男は貴族の仮面を被った悪魔が目の前にいるのだと悟った。

「ひっ」

「怯えるばかりで面白くないな。さて、そろそろ、こいつの威力を試してみるか」

 子爵はそう言うと、テーブルから何かを取り上げる。それは銀製のリンゴ、あるいは洋梨のように見えたが、どこか禍々しかった。

「いっ、一体」

「これは海の向こう、ドルチェット帝国で実際に使われていたという拷問道具の一つでね。魔女を見極めるために作られたものだ」

 子爵がそう言いながらリンゴを捻ると、それは複雑な形に変形する。

「こいつをね」

 そんな変形した銀製の何かを持ったまま、子爵が震える男の股間を蹴り上げる。

「ぎゃああっ」

「ここに装着するそうだよ。すると、内臓を抉り出してくれるというわけだ」

「っつ」

 股間を蹴られた痛みと、今告げられた内容で、男は凍り付いてしまった。

 ただ殺されるだけではない。とんでもない痛みを負わせてから殺すつもりだ。

 ここで気を失えた方が幸せかもしれない。

 しかし、痛みが逆に気を失うことを阻止してくる。

「さあて。試してみるか」

 子爵の手が、男のズボンに伸びた時――


「なかなかいいご趣味ですねえ」

 その場にそぐわない、のんびりとした声がした。

「ひっ」

「なっ」

 当然、驚いたのは殺されそうな男だけではない。決して外部に漏らしてはならない秘密の楽しみだ。子爵も一体誰がと驚く。

「ご機嫌よう。ベルヴェット子爵」

 蝋燭の火しかない地下室に、黒い影がぬっと伸びる。そして現われたのは、やはりこの場にそぐわない優雅な服を身に纏う貴族だ。

 その煌びやかな金髪と緑色の目に、子爵ははっとなる。

「あ、あなたは、メフィスト伯爵」

 どうしてここにという驚きと、下手な対応をしてはならないという危機感に、子爵は持っていた拷問道具を落としてしまう。からんっと音を立てたそれを拾ったのは、伯爵に仕える執事だ。

「面白い品でございますね」

 執事はそう言ってにやりと笑うが、かつて社交場で見た笑顔とはまるで違った。

 何と言うか、禍々しい。

 それは優雅さを全身から感じさせる伯爵も同じだった。

 優雅の中に滲む黒い霧。それはまるで毒を持つバラのようだ。

「人間の所業にはいつも驚かされますが、悪魔に取り憑かれないままにここまで悪魔らしいことをするとは、実に興味深いです」

 そんな毒バラのような伯爵がにやりと笑う。

 そこで子爵は、この伯爵に付き纏う噂を思い出した。

「悪しき魂を喰らう力」

 震える唇でそう呟くと、伯爵はにやりと微笑む。そして次に、否定するように人差し指を振った。

「それは正確ではありません。私の糧になる贄の魂を喰らっているだけです」

「そ、それは」

「だって、私も悪魔ですから」

 そこで伯爵はパチリと指を鳴らす。すると、伯爵の背中に大きな黒い翼が現われた。

「ま、まさか」

「我が名はメフィストフェレス。と言えば解りますか」

 にやりと笑う伯爵の耳は、いつしか尖ったものに変わっていた。唇から覗く犬歯も異様に長い。

「め、メフィストフェレスだと。ひ、光りを愛さない者」

 子爵の呻きに、その通りとメフィストは頷いた。そして優雅に子爵に近づく。

「いずれ、悪魔のトップに立つ予定なんですが、どうにも力が足りないんですよ。あの、サタンを倒すのにね」

 メフィストは楽しそうにそんなことを語る。子爵は自分が殺される側になったことを悟り、がたがたとみっともなく震えるしかない。

「とはいえ、なかなか集まらないんですけどね」

 そこでちらりとメフィストは殺されかけていた男を見た。男はメフィストに対し、神に祈る姿勢をもって相対している。

「お、お救いください」

「そう。こういうことがあるんで、神に取られちゃうんですよね。私を悪魔でなくそうと、聖の気をくれるから困ったものですよ。でもまあ、悪魔に染まった魂以外は食べると腹痛の原因ですから、結果として救っちゃうんですけどね」

 にやりと笑う伯爵の顔が近づいてくる。子爵の記憶があったのはそこまでだった。

「さて、サルガタナス。彼を家まで送ってやってくれ」

 子爵の魂を喰らい終えた伯爵は、未だ祈るポーズを続ける男を指差し、執事に化ける、自らに仕える悪魔に命じたのだった。

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