五 雪の朝
朝食の前にテラスへ出て軽く何曲かつま弾いていると、まだ寝巻きのままの師匠がのろのろと出てきて向かいの椅子に座った。
「おはようございます、師匠」
「……おはよう」
師匠は肩からずり落ちそうな寝巻きの首元をいい加減に直すと、眠たそうなだらっとした姿勢で「何か……爽やかに目覚めそうな感じの曲を」と注文をつけた。
「じゃあ古典音楽で、ガーロッドの『雪の朝』を」
「いいね」
雪の情景を描いた曲といえば静かでしっとりしたものが多いが、これは朝日に照らされた雪景色が真っ白にキラキラ光る感じを表している。華やかだけれどちょっぴりひんやりした前奏を奏で始めたところで、しかし部屋の方でノックの音が聞こえた。
「朝食にはまだ早いはずだ。無視していい」
「だめです」
ロゥラエンがきっぱり言って立ち上がると、師匠は「私が出るよ」と言って面倒臭そうに中へ戻っていった。戸を開けるといつも食事を持ってきてくれる給仕とは違う従業員で、深刻そうな声でこそこそと師匠に何か話している。
「──ええ、ですから未成年の方の外出には必ず保護者が付き添うようにと」
「わかった、ありがとう」
「いえ、それで……」
部屋へ戻ると、大人達の会話が耳に届いた。小声なので彼らは聞かれていると思っていないだろうが、ロゥラエンは耳がいいのだ。けれど素知らぬふりをして、楽器をソファに立てかける。朝の練習は一通りやったので片付けてもいいのだが、まだ師匠に『雪の朝』を弾いてあげていない。
「それで、何だい?」
「ご気分を害すると承知の上で申し上げますが……神殿より、アルラダ様のご動向に注意するよう申しつかりました。ですので」
「ああ、好きに見張ってくれて構わないよ。あまり気にする方ではないからね。けれど、行動の制限は受け入れない」
また、師匠が疑われているということだろうか? 何やら深刻なことになっているのではとロゥラエンは気が気でなかったが、しかし申し訳なさそうに胸に手を当てる従業員に、師匠は「君も聴いていくかい? 弟子の演奏」と笑顔で声をかけている。憔悴した顔をしていた男がホッとしたように微笑んで「大変に魅力的ではございますが、今は他のお客様にもこの件をお伝えせねばなりませんので。ぜひ近いうちにサロンで演奏していただけましたら」と言った。師匠が「それ、いいね」と上機嫌に返す。
自由気ままに生きているように見える師匠だが、こんな風に自分が疑われていてもにこにこして人に優しい言葉をかけられるのは、その辺の「ちゃんとした」大人よりよほどかっこいいかもしれないと少年は少し誇らしく思った。だって、当人でないロゥラエンはもうすっかり彼の知らせを聞いて不機嫌になってしまっていたから。
「聞こえていたかい?」
ソファに戻ってきた師匠がそう尋ねるので、ロゥラエンは「『未成年の外出は』ってところから。師匠を見張れだなんて……」と膨れっ面で言った。それに師匠が「怒らない、怒らない」と苦笑する。
「だって」
「また二人、行方がわからなくなったそうだ。六歳の男の子と、十一歳の女の子」
「えっ」
ぞっと全身が総毛立つような感覚がして、ロゥラエンは膝の上で手を握った。自分が攫われるかもしれないという不安ではなく、攫われた子への同情でもなく、すぐそばに怖いものがうろついているかもしれないという、暗くて姿の見えない恐怖だ。
「それで当分の間、子供は保護者なしで出歩けなくなった。外出する時は私に声をかけるように。宿の中でもだ」
「はい」
壊れた人形のような顔でふらふら歩いていたマレンを思い出す。
「……犯人も、風持ちなんですよね」
「その可能性が高そうだね」
「賢者様は、大丈夫なんですか?」
「賢者様? もしかして、犯人かもしれないっことかい?」
予想外だったのか師匠が目を丸くして、すぐに考え込むように視線を下げた。
「だって……凄い力を持っている人で、風持ちで、学会が終わったらすぐに国に帰るんでしょう?」
「確かに、そんなこと言ったね……」
苦笑した師匠が腕を組んだ。
「ただ、あの人は基本的に本と本棚と図書館のことしか考えてないからなあ……」
「本と、本棚?」
「『書架の賢者様』だからね。ヴェルトルート王家の生まれで……つまり元王子様だから公の場では比較的しっかりしているけど、私的な場になるともっと魔術師寄りの、かなり変な人だよ」
「かなり……」
師匠にそんな風に言われてしまうなんて一体どれだけ変人なんだろうと思ったが、口には出さないでおいた。まあ、賢者様が怪しいかどうかは会って確かめてみればいい。子供を誘拐して魔術で悪いことをするような人間なら絶対おかしな目をしているだろう。
そう思ってひとり難しい顔で頷いているとまた扉がノックされて、朝食が運ばれてきた。部屋の前にいたのは先程の男性ではなく、見慣れたいつもの給仕だ。師匠がカートを受け取りながら大人しそうな茶髪の青年に声をかける。
「今夜の夕食はサロンでいただくよ。支配人にあの子の演奏を依頼されてね」
「かしこまりました」
青年が丁寧に礼をする。サロンってなんだろうと思ったが、給仕を見送った師匠が「食べて少ししたら賢者様に連絡してみようか」と言ったので、ロゥラエンはすぐに緊張で頭がいっぱいになり、片手で心臓の上を押さえながら深呼吸を繰り返した。
「……賢者様にお聞かせする曲、行く前に聞いてもらえますか? ちゃんと弾けてるか」
「もちろん。『雪の朝』も弾いてくれるなら」
「はい」
ロゥラエンとしてはさっと食べてすぐに聞いて欲しかったのだが、師匠はそんな弟子の焦りを特に気にかけてくれず、食後にゆったりお湯を沸かし始めてしまった。今はお茶なんて飲んでいる気分ではなかったが、しかしいざ砂糖がたくさん入った甘いミルクティーを口にすると、少し心が静まる。
綺麗に手を洗ってからルェイダを手にして、もう一度深呼吸する。楽器を構えると、小さな手の震えはすぐに治まった。白く染まった地面に朝日が当たり、キラキラと雪の結晶が輝くような前奏を奏で始める。師匠がほうと小さなため息をついた。
夢から覚めた冷たい朝
窓からそそぐ白銀の光
曇りを拭って外を覗く
ああ 輝かしい雪の朝よ
元々はハープで弾くための曲なので、指使いが少し難しい。けれどそんな曲をルェイダの少し暗くてひび割れた音で奏でるのがまた、大人っぽくてかっこいいのだ。
「素晴らしいね……いいな、ルェイダで聴くガーロッド」
「でしょう」
そして得意になって笑ったロゥラエンが次の曲を始めようとした時のことだ。控えめな調子で扉が叩かれて、師匠が「何だろう」と立ち上がって向かう。
「はいはい──あれ、アトラ様」
「えっ!」
勢い良く振り返ると、扉の向こうにとても背の高い、真っ黒なローブを着た男の人が立っている。その人はなんだかやる気のない感じの無表情で何度かゆっくり瞬きすると、まだ寝巻きのままの師匠を見ながら低い声で「……早すぎたかね?」と尋ねた。
「えっ……ほんとに賢者様?」
ロゥラエンがそう呟いたのは独り言だったが、師匠より一回り年上かなという感じの人は少年の方に目を遣って、ぼそっと返事をした。
「いかにも」
「あっ、えっ……失礼しました!」
慌てるロゥラエンに賢者様は何か言いかけたようだったが、その前に師匠が腰に手を当ててため息をついた。
「アトラ様……来ちゃったんですか。青の零時だって言ったでしょう」
「聞いていなかった。問題があったかね」
「いえ、別に。弟子を紹介します」
「ラゥガ一座のロゥラエンだな。なぜ彼を弟子に?」
「えっ?」
名前を呼ばれてロゥラエンが目を丸くしていると、師匠が言った。
「孤児院へ連れて行かれそうになっているところに居合わせて、面白い子だったから拾ったんです」
「ふむ」
「ロゥラエン、書架の賢者アトラスタル様だよ」
「あ、はい……お見知りおきくださったようで、大変こうえいにございます。ロゥラエンともうします」
ぴょんとソファから立ち上がって、くるっと手のひらを回しながら胸に手を当てる、吟遊詩人式の華やかな礼をした。
「うむ」
「お茶を淹れますから、アトラ様はソファでロゥラエンとお喋りしててください」
「手伝おう」
「いいえ! 私がやりますから」
師匠がものすごくきっぱり断って、ポットのある方へ向かった。賢者様はなぜかロゥラエンの向かいではなく隣に座って、小さく「弟子と同じことを言う」と呟く。近づくと、紙とインクとハーブを混ぜたような落ち着く感じの匂いがした。師匠も薬草っぽい匂いがするけれど、魔術を使う人はみんなこうなのだろうか。
「お弟子さん?」
「ああ。私の淹れる茶は不味いらしい」
「……そうなんですか」
反応に困る。というか、お茶の準備を手伝わせないなんて師匠も賢者様のことはちゃんとお客様扱いするんだなと思っていたが、違ったらしい。長い銀髪をじっと見ていると、彼は「珍しいかね? 南方は色素の薄い人間が少ない」と一房持ち上げてみせた。
「世界中旅をしてましたから、金髪は見慣れていますけど……銀色の髪は初めて見ました。染めてるんですか?」
「金より色素が少なく、体表の魔力経路が緻密で、気の魔力を持っているとこうなる。伝導率の高い植物繊維と同様で多少は魔力が通うが故に、肉や血管の赤色と接していない毛髪は魔力の色が透ける」
「へえ! じゃあたとえば、火の魔力を持っていたら髪が少し赤く見えたりするんですか?」
「いかにも。ただ頭部の魔力経路が緻密な体質は珍しいため、あまり見ることはない」
「魔力経路って?」
「魔力の通る血管のようなものだ。臓器としての実体はないが」
「風の通り道みたいな感じ?」
「おおよそは」
楽しくなって身を乗り出したロゥラエンの、顔ではなく頭の右側のあたりを賢者様がじっと見ている。もしやと思ってその部分を押さえると、有り得ないくらい髪が跳ねていた。
「あっ」
やらかしたと思ったが、まあこの人ならいいかと気にしないことにした。ちょっと顔を赤くして座り直していると、師匠が戻ってきてカップとポットの乗った盆をテーブルに置き、ロゥラエンの寝癖を「うん。跳ねてる、跳ねてる」と言いながらツンツンと軽く引っ張った。
「やめてください」
「撫で回された後の猫みたいで可愛いんだよ」
「猫って」
少年は続けて不満を訴えようとしたが、師匠は手を振って軽く流すと賢者様へお茶のカップを差し出した。
「さっき紅茶は飲んだので香草茶ですけど、いいですか?」
「うむ」
「あとビスケット」
「ああ」
賢者様が頷いてお茶を一口飲んだので、ロゥラエンも喉は乾いていなかったもののとりあえずカップに口をつけた。が、とても変な味がして顔をしかめる。
「うえっ、何ですかこのお茶」
「ラベンダー」
「ラベンダー? なんでそんなのお茶にしたんです? 枕の下に入れたりするやつでしょう」
「わりと一般的だと思うけれどね」
そんなはずないと思って賢者様の方を見ると、彼はビスケットの方へ手を伸ばしながら「香りはともかく、味は紅茶と大差ないように思うが」と言った。
「……ほんとに?」
試しにもう一口飲んで再び顔をしかめ、大急ぎで口直しにビスケットを齧った。こちらはバターの味がして美味しい。
「……して、弟子を自慢したいとのことだったが」
ビスケットを飲み込んだ賢者様が言った。師匠がそれに「うん。可愛いでしょう、けばけばの猫みたいで」と応える。
「ふむ、猫というよりは獅子のようだが」
「……それ、もしかして髪の毛見て言ってます?」
流石にそこまでぼさぼさじゃないだろうと思って口を挟むと、師匠が「確かに、顔もちょっと獅子の子供っぽいなあ。毛の色も濃い金色だし」と言った。
「毛って言わないでください」
「ふふ、冗談だよ──元々は彼の音楽を聴かせて差し上げようと思っていただけだったのですが、この子が風持ちだと昨夜判明しましてね。よろしければ軽く彼の魔力とか、才能とか、確かめてもらえればと」
「えっ」
ロゥラエンがもう何度目がわからない驚きの声を上げると、賢者様が淡々とした声で「ふむ……では何か、得意な魔術をひとつ使ってみたまえ」と言った。
そうしてロゥラエンは、二人の魔術師に教わりながら初めての魔術を使ってみることになった。けれどその後に起きたことはロゥラエンにとって、できれば二度と思い出したくない出来事になったのだった。
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