四 遺石
貸し出し証と言われて羊皮紙の巻き物のようなものをロゥラエンは想像していたが、奥の部屋から戻ってきた司書に渡されたのは革紐にぶら下げられた真鍮製の小さな硬貨のようなものだった。表側に図書館の外観を描いた綺麗なレリーフがあって、裏面に数字の羅列が刻印してある。
「いち、ゼロ、ゼロ、ゼロ……」
「い、一千万と、ひ、百四十一です。おめでとうございます、そ、素数ですね」
「……一千万?」
途方もない数字にきょとんとすると、師匠が「この国の人口が三百万くらいだね」と言った。
「え?」
「よ、四百年の歴史が、あ、ありますからね。世界中から、が、学徒が集まることを考えれば、す、少ないくらいです」
「へえ……」
「紐は、な、長めにしてありますから、首に掛けたり、財布に結んでおいたり、な、無くさないように管理してください」
「はい、ありがとうございます」
ロゥラエンは丁寧に礼を言って、とりあえず紐の端を簡単に結ぶと貸し出し証を首からぶら下げた。後でもう少し綺麗な色の紐とガラスのビーズを編んで、図書館へ行く日の首飾りになるように作り直そうと思案する。
降りてきた時と同じように本の山を半分ずつに分けて抱えると、また地下への扉を潜って宿へ戻った。部屋へ着くと丁度夕食の時間だったらしい。カートを押した給仕と鉢合わせたのでそのまま受け取って、すぐに食事の時間になった。
「……ん!」
大きな牛肉の塊をクリームで煮込んだような料理を口に入れたロゥラエンが声を上げると、師匠が「気に入ったかい?」と言う。
「これ、すごく美味しい」
「肉はいいものだけど、味付けとしてはこの辺りの家庭料理風だね」
「お肉もやわらかい」
「長時間煮込むんだ。ヴェルトルートのシチューにも似た味付けのものがあるけれど、もう少し香辛料が強めでスープがさらっとしているかな」
「ふぉぇ」
口いっぱいに肉を詰め込んだまま返事をすると、師匠がおかしそうに目を細めて「とりあえずお食べ」と言う。そこで初めて行儀が悪かったことに気づいたロゥラエンはさっと背筋を伸ばし、次の一口は小さく掬って口に入れた。サラダは新鮮だし、パンもまだ温かくて小麦のいい香りがする。バターがたっぷり用意されていて、贅沢に厚塗りしても怒られない。
お腹が一杯になると眠くなってきて、食後はソファに移動して少しうとうとしていた。師匠が「お風呂にお湯を張ってくる」と洗面所の方へ行くのを見送ったところでふと図書館での会話を思い出し、ロゥラエンは重たい瞼をごしごしこすると首に掛けた革袋を外して膝の上に置いた。袋の口を開けて、師匠にもらった金貨と、小さな布の包みを取り出す。
師匠はすぐに戻ってきた。「君の着替えは籠に入っていたよ」と言いながらソファの隣にやってきて、ロゥラエンの手元を不思議そうに覗く。
「おや、金貨だ」
「師匠がくれたやつです。嬉しかったから、お守りにしたの」
指先でつまんで袖の端で曇りを拭いながら言うと、師匠は何度か金色の睫毛をパチパチさせてから無言でロゥラエンの頭を撫で回した。
「……美味しいものでも食べに行けば良かったのに」
「嫌です。これは絶対、一生使いません。それに師匠と一緒に食べないと、味がしないもん」
「味が……」
師匠が急に真面目な調子で囁くように言って、ロゥラエンの頭を片手で引き寄せると、頭の上に自分のほっぺたをこてんと乗せた。ちょっと重い。
「夕食は、美味しかったんだね?」
顔を乗せたまま喋るので、頭の上がもそもそしてくすぐったい。
「はい、とても。毎日あれでもいいです」
「昼間のペタは?」
「あれも美味しかったけど、屋台のは作りたてじゃなかったからシチューの方が好きです」
「……ならいい」
ほう、と息を吐いた師匠が「お風呂、一緒に入るかい?」とか言い出したので、「それはちょっと恥ずかしいです」と言った。「ふふ、そうか」と微笑む師匠がなんだか元気をなくしてしまったような気がして、ロゥラエンは握っていた包みを持ち上げて見せた。
「師匠、約束してた遺石、見せてあげます」
「え? ああ、そういえば」
弟子の頭を枕にしていた魔術師がきちんと体を起こすのを待って、白くて透けるように薄い布をそっと開いた。少年の小指の爪の先くらいの小さな石──水晶のように透明でほんの少し春先の森の霞のようなやさしい色に白く濁った石が三つ、中から現れた。
「この少し四角っぽいのが父さん、一番丸いのが母さん、少し小さいのが兄さんです」
そう紹介して見上げると、師匠は何も言わずにそっと頷いた。
「ほら、師匠だよ」
小さく言ってから、失敗したと思った。
こんな石ころは抜けた歯みたいなもので、そこに家族がいるのでもなんでもないことは頭のどこかで知っていた。それでも話しかけてしまうのをやめられない。けれど、今はやるべきではなかった。絶対にかわいそうだと思われるから。
「……なんて、その、冗談です」
「君の家族……かなり魔力が多いね」
「え?」
振り返れば師匠は、哀れな孤児の心境なんかに目もくれずに遺石をじっと見つめていた。
「お父上の石が一番大きいのは体の大きさじゃない。遺石は死の瞬間に体内の魔力が結晶したものだ。普通の人間の遺石がゴマ粒より小さいくらいだと言えば、どれだけ立派で美しい宝石になっているかわかるかな。十分魔術師になれる大きさだよ」
「僕の家族に、魔力があった……」
「どういうことかわかるかい」
尋ねられて、頷く。
「僕にも、あるかもしれない」
「その通りだ。遺石を手に取って。絹は伝導率が高い方だけど、それでも布越しでは魔力が伝わりにくい」
「これ、絹なんですか?」
「そう。シフォン織り、別名オーヴァスの慈悲。神殿で火葬した時に包んでもらったんだろう?」
「はい」
「死者は火によって苦しみから守られ、水によって浄め癒され、体は地に還り、心は風に乗って天へ昇る。だから家族へ声を届けたいなら、大気の神に祈ってからにするといい。天まで運んでくれるから」
「……はい」
震え出しそうになるのを我慢していると、師匠が「ほら、早く遺石を手に取って」と言った。しんみりとは程遠い声を聞いて、少し笑ってしまう。
水の神の慈悲と呼ばれた布からそっと三粒の石を摘み上げ、左の手のひらに乗せた。「利き手は?」と訊かれて右と答えると、「なら右手に乗せなさい」と言われる。
「これでいいですか?」
「うん。じゃあその遺石を、あたためてみて。手を開いたまま」
「あたためる?」
「体温を、愛を分け与えるように。君の内側にある光を移すように」
何を言っているんだろうと思ったが、いざ石に向き直ってみると、ランタンの持ち手を握った時と違ってそれは驚くくらい簡単なことだった。何か自分の奥の方にある──何と言い表せばいいか、透き通った綺麗な流れのようなものが、じわりと滲み出して、それで──
「うわ!」
手のひらの上の家族だったものが一瞬でズンと黒っぽい色に染まるのが見えて、ロゥラエンは慌ててその流れのようなものを自分の中に引き戻した。すぐに透明に戻った石がどこも割れたり欠けたりしていないのを見て一安心する。
「今なんか、黒くなりましたよね」
「君は風持ちみたいだね」
「風持ち……賢者様みたいな?」
「そう。これだけでは魔力の量はわからないけれど、ムラなく綺麗な黒い色をしていただろう? かなり純度も高い。愛し子と呼んでもいいくらいかもしれない。なるほど、君の記憶力や語学力が優れているのも納得だ。それに音楽も、風の領域にある才能だね」
「愛し子って?」
「特別神様に気に入られて、その神様の魔力を強く与えられている人のこと。例えば火の愛し子なら赤がより鮮やかになるし、気の愛し子はより暗い色になる。魔法使いよりももっと貴重な存在だよ」
「魔法使いより……」
「国に一人いたら驚かれるくらいだ。見つかれば、次代の候補として賢者様と面会させられる。丁度良かったね、明日はアトラ様とお茶会だ」
「賢者、候補……」
話についていけずにぽかんとしていると、師匠は「嬉しくないのかい?」とロゥラエンの顔を覗き込んだ。
「……賢者様の弟子にならなくちゃいけないの?」
「いや、別に嫌なら断れるよ。彼には既に一人弟子がいるし、その弟子は見聞きしたもの全部覚えて絶対忘れない凄まじい記憶力の持ち主だから、超えるのはなかなか難しいと思うしね」
「それ、すごく大変なことじゃありませんか?」
つまり、どんなに辛いことがあってもずっと忘れられないということではないのだろうか。そんなの……そんなの、ロゥラエンには絶対耐えられない。
「そうかもしれないね。だからあんなに気難しいのかな」
「……とにかく、僕は師匠から離れませんから」
決意を口にすると、師匠は楽しそうに笑ってまたもやロゥラエンの頭をくしゃくしゃに撫で回し、そして「わかった、わかった。それより喜びなさい」と言った。
「喜ぶ?」
「君、きっとすごい魔術師になれるよ。愛し子なんて、月の塔の最高位『白ローブ』にだって滅多にいない」
そう言われて初めて、少年の心にざぶんと実感の波が打ち寄せた。ロゥラエンが頬を薔薇色にして「師匠、魔術を教えて!」と言うと、師匠は「もちろんだとも。けれど、今日はもうお風呂に入って寝なさい。目の下が青くなっているよ」と言う。
せっかくお城みたいな宿の、魔術でお湯を張る自分専用の豪華な浴室なんてものを使えたのに、その晩のロゥラエンは興奮しすぎて全くその贅沢さを味わえなかった。寝台に入っても絶対眠れないと思っていたが、しかし昼間に色々あったからか、横になるとストンと目蓋が降りてきて気絶するように眠りに落ちた。
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