三 通路の先 後編
「……魔術師さん、お名前は?」
「アルラダ」
師匠が言う。彼の名前は「イレ」じゃなかったっけとロゥラエンは思ったが、後で訊けばいいと黙って様子を見ることにした。
「アルラダ……って月の塔の?」
「うん」
「それがどうして──あっ、これ……気になっちゃうかしら? 恥ずかしいわ」
何か言いかけた女性が急にもじもじと脚を動かし始め、俯くとスカートの切れ込みを引っ張って閉じようとした。組んでいる脚を戻せばいいのになとロゥラエンは思ったが、たぶん彼女はちょっと間抜けなのだろう。
仕方がないなあとマントを脱いで、「どうぞ」と差し出してあげた。すると彼女は花が咲くように嬉しそうな顔になって「まあ……紳士的なのね」とやたら目をパチパチさせながら言った。
「ころんで、破れてしまったんですよね。ちっとも恥ずかしいことないです。僕も走っていると時々転んで、ズボンをダメにしますから。だれでもする失敗ですよ」
「え?」
「僕達、隣の宿に泊まっているんです。馬車に裁縫道具を置いていますから、取ってきてあげましょうか?」
「……いらないわ。これは元々こういうスカートなのよ」
「本当に? 変わってますね」
でもお姉さんは綺麗な人ですから、ちょっと変な服を着てても素敵です。そうロゥラエンが言うと、女性は嬉しいのか悲しいのかわからないような複雑な顔をしてから、もう一度師匠に目を向けた。師匠はそれににっこり微笑み返してから「じゃあ、弟子のマントを返してもらっていいかな? この子が風邪を引くと困る」と言った。それを聞いた女性がぽかんと口を開けて、そして小刻みに震え始める。
「……なんでよ。男の子でしょ、恥ずかしがりなさいよ」
「えっ?」
くしゃっと乱暴に握ったマントを押し付けながら文句を言われてロゥラエンが困っていると、師匠がさっと間に入ってくれた。
「ちょっと怖い人みたいだね。向こうに行こうか」
「はあっ? ちょっと何なのよ……あなた、脚には興味ないタイプの人なの?」
「脚にというか、君に興味がないね」
「どういうことなの、こんなに可愛いのに……男が好きとか?」
「妻一筋だから」
「それと私に見惚れちゃうのは別でしょ?」
「見惚れるほど美しいとは思わないかな。造形的な問題なら、僕の同僚の方がまだ──」
「師匠!」
見かねて声を上げると、師匠は「ん?」と言って振り返った。
「女の人に、そんな失礼なこと言っちゃダメですよ。それに、見たことないくらい綺麗な人じゃないですか」
そう言うと、女性がパッと頬を赤らめて「あら、わかってるじゃない」と囁く。けれど師匠はそんな彼女を嫌そうに一瞥すると、ロゥラエンに向き直って首を振った。
「男だろうが女だろうが、通りすがりにスカートの中を見せてくるような人間に払う敬意は持ち合わせていない。たとえ女神のように美しかったとしても、変質者は変質者だ。さあ、危ないから行くよ、ロゥラエン」
女性は「え、女神みたいだなんて……」と言ってうっとり自分の両肩を抱いていたが、灰色の魔術師はそれを見もせず、さっと弟子の手を取って「魔術 入門」と書かれている本棚の方へ引っ張って歩き出した。
「師匠」
「見ちゃいけないよ」
とそこに、引き止める声が追いかけてくる。
「えっ……ちょっと、嘘でしょ? えっ、ほんとに行っちゃうの? ねえ!」
「師匠……」
「無視しなさい」
「ねえ、私有名人なのよ! 紫の魔女レーイエよ! 光栄じゃないの?」
「師匠、名前言ってますよ。かわいそうですよ」
ロゥラエンが立ち止まって握られた手を引っ張ると、師匠は小さくため息をついて振り返った。
「……どれだけ有名でも、変質者は変質者だ。話したければもう少しまっとうな服を着てきなさい。図書館にも失礼だ」
「失礼な人ね! これ流行ってるんだから!」
「そのスリット入りのドレスは確かに流行しているが、中に総レースのスカートを穿くためのものだろう」
「……そうなの?」
レーイエというらしい人はしばらくぽかんとした顔をしていたが、次の瞬間にはみるみる顔を真っ赤にして、スカートの裂け目をパッと両手で掴んで閉じるとぶつぶつと小さな声で何か言った。するとドレスの表面にさあっと模様が──少し遠くて見えにくいがたぶん魔法陣が描かれて、裂け目がぴたっと閉じてしまう。ロゥラエンが「すごい」と言ってそれをまじまじと見ると、彼女は「み、見ないで」と言って身を翻し、本棚の向こうに駆けて行ってしまった。
「行っちゃった……師匠が意地悪するからですよ」
「レーイエと名乗っていたね。彼女は魔術排斥派、いわゆる神典原理主義者と戦っている組織の代表だよ。あんなに変な人だとは思わなかったな」
「師匠、女の人には優しくしてあげないとだめなんですよ」
「紫の魔女と言っていたけれどね、あれは自称で、巷では『図書館の魔女』と呼ばれているんだ。住んでいるみたいにいつもこの図書館にいるから。調べ物だけじゃなくて、ここでないと捗らないとか言って論文まで書くらしい」
「ねえ、聞いてます?」
「聞いてない。ほら、魔術書を見に行こう」
「師匠……」
ロゥラエンの手を掴んだまま師匠が歩き出す。試しにぎゅっと力を込めてみると、やっぱりぎゅっと握り返された。もう大人と手を繋いで歩くような歳ではなかったが、それでも子供扱いされる羞恥心より、涙が出るようなあたたかさが少しだけ上回る。
「師匠……僕、もう八歳ですよ。手を繋ぐのはちょっと」
それでもそう言ってみた少年に、師匠は言った。
「うちでは十五歳までは繋ぐのが当たり前ということになっているんだ」
「……十五歳?」
「君もそういうことにしておきなさい。特に娘の前では」
「流石に成人までは無理だと思いますけど」
「いいから」
必死な様子の師匠にロゥラエンは少し笑って、「娘さんが嫌がるようになっても、僕が繋いであげますよ」と小さな声で言った。すると師匠は「娘と息子じゃ違うんだよなあ」と言って、悲しげに首を振った。息子、という言葉にちょっとだけ、視界の端の方が湿ってぼやける。ロゥラエンの父はこの先もずっとクォルェン一人だけで、師匠のことを父さんと呼びたい気持ちは少しもない。だのになぜ、こんな風に心が揺れてしまうのだろう。
色々と考えているうちに、目的の本棚の前に来ていた。試しに魔術の入門書だという本を手に取ってパラパラと捲ってみる。ほとんどはこの国の言葉で書かれているが、共通語の本やロゥラエンには読めない言語の本もかなりの数があった。けれどどの本も共通して、呪文の部分だけはエルート語で書かれているようだ。
「エルート語が読めない人は、呪文を覚えるのが大変そうですね」
そう言うと、師匠は頷いて言った。
「まさにその理由で、この国ではエルート語が公用語になっているんだよ。元々この言葉は古代の術者が使っていた魔法言語で、よその国にとってはそれこそ呪文としてしか使われていない難解な古語だ。それを公用語として復元し母語として使わせることで、このリオーテ=ヴァラは世界一魔術文化が発展した国になった」
「ふうん」
相槌を打ちながら背表紙の言語を端から確かめ、あっと思って梯子に登ると棚の一番上にあったオーリェン語の一冊を取り出した。けれど他の本に比べてかなり薄っぺらく、内容も薄い感じがする。解説の良し悪しがわかるほど魔術のことは知らないが、ところどころに描かれている魔法陣がスカスカというか、円の内側の紋様が少なくて単純なものばかりなのだ。
「オーリェン語のやつってこれだけですか?」
「南の方は呪術文化が強いからね、まともな魔術書は期待しない方がいいと思うよ。翻訳もあまりされていないんじゃないかな」
「呪術って」
「閉め切った暗い部屋で香を焚いて、呪文を唱えながら踊ったりするやつ」
「そんな人、向こうで見たことありませんけど……」
「それはほら、閉め切った部屋でやっているからじゃないかな」
「……確かに」
故郷の文化がそんな感じだと知って、ロゥラエンはちょっと嫌だなあと思った。特に踊るところがかっこ悪い。師匠みたいに真っ直ぐ立ったままさらっとやる方が絶対いいのに。
顔をしかめて梯子を下りると、エルート語の区画に戻る。喋る方は共通語の方が慣れているが、読み書きはこちらの言葉の方がちょっとだけ得意だ。ロゥラエンが生まれたのがこの国だからという愛着もあるし、エルート語は文字がかっこいいので趣味で勉強していたのだ。
「じゃあ、これにします」
一番挿絵が綺麗だった本を差し出すと、師匠は「へえ、シタン君の本か」と言って中を確かめ、「これが好きなら……」と棚からもう何冊か取った。
「師匠、それ……文章じゃなくて挿絵で選んだんですけど」
「えっ、そうなのかい? それならこれじゃない方がいいな」
師匠はそう言って抱えた本のうちの二冊を棚に戻し、「絵が上手いのは……」と言ってにやりとした。
「タナエスの本を入れておこう。文体はちょっと気難しいけれど、そこは私が教えればいいし」
「タナエス?」
「あの彫刻のモデルになった魔術師」
手渡された本の真ん中あたりを開くと、神経質そうな文字がびっしり細かく並んでいる。挿絵のページを探すと、確かに絵はものすごく上手かった。何かの道具の絵が描いてあるだけなのに、鉛筆を寝かせた感じのタッチで、影まで綺麗に入れてある。
「師匠」
「上手いだろう? それのためにわざわざ魔導写本に対応した特殊な鉛筆を買ってきて描いたらしいよ」
「ええ。でも僕、この文字読めません。何語ですか?」
「ヴェルトルート語。そうか、その問題もあった」
師匠はそう言って少し目を見開いたが、彫刻の人が書いた本を棚に戻すことはせず、そのまま他と合わせて十冊近い本を抱えて「次は絵本の区画に行こう」と言った。
「絵本?」
もう文字ばっかりの本だって読めるのにとロゥラエンが眉を寄せると、師匠は首を振って「ヴェルトルート語の絵本だよ。向こうへ行く前に語学も少しやっておこう」と言った。
「妖精物語とか、勇者伝説とか……古い国だからね、君の作詞の参考になりそうなものもたくさんあるよ」
「はい、それなら」
師匠の後に続いて一階まで戻り、色鮮やかな表紙が並ぶ絵本の区画で伝承を扱ったものをどっさり選んだ。二人が腕いっぱいに本を抱えて「貸出受付」と書かれた机に来た頃には日がすっかり傾いていて、師匠曰く閉館時間も間近だそうだ。
「雪の時期は閉館が早くなるからね、気をつけないと」
そう教えてくれる師匠に「飲食店以外はちょっと早く閉まるところが多いですよね」と言うと、彼は「そうそう」と頷いて持っていた本をどさりと机に置いた。すると奥の棚の前で何か書類を読んでいた人物が顔を上げて、こちらへやってくる。
「──おや、ア、ア、アルラダ様。い、いらっしゃいませ」
「ああ。今日はこれの貸し出しを頼むよ、この子の名前で。初めてだから貸し出し証も」
「か、かしこまりました……こちらの、お、お方は?」
「私の弟子だ」
「お、お弟子さん」
まだ十代くらいの司書の青年が不思議そうにこちらを見たので、ロゥラエンはにっこりして愛想良く名乗りを上げた。
「はじめまして、ロゥラエンともうします」
「これは、ご、ご丁寧に……そ、そちらの本も、ご、ご、ご一緒で?」
「あ、はい」
ロゥラエンが机に抱えた絵本を乗せると青年が机の紙にさらさらと何か数字を書き留めて「に、二十六冊ですね」と優しく言った。つっかえつっかえ喋るのは緊張しているのかと思ったが、どうやら元々こういう話し方らしい。
「では、こ、こちらにサインを。貸し出し証を、は、発行します」
「はい」
灰色の鳥の羽に銀のペン先を取り付けたかっこいいペンを渡されて、ロゥラエンは師匠の万年筆で練習しておいて良かったと思いながら、羊皮紙の一番下に自分の名前を書いた。青年はそれを受け取ってひっくり返し「おや、お、オーリェン語」と呟いてから、少し引きつった人見知りっぽい笑顔で少年を見下ろした。
「う、承りました。少々お待ちください」
「はい」
ロゥラエンが頷くと青年が机の後ろにある扉を開けて、奥の部屋へ入っていった。師匠がその後ろ姿を見送ってから「彼がシタン君だよ」と言う。
「シタンさん?」
「君が最初に選んだ本の著者。彼はここで司書として働いているけれど、腕のいい魔術師で書架魔術の研究者でもあるんだ」
「まだ十代くらいなのに?」
「かなり飛び級して大学を出たらしい」
「とびきゅう」
「学校で、君は頭がいいからもっと難しいことを勉強しなさいって、年上の人のクラスに編入して勉強すること」
「それって凄いんですか?」
学校に通っていないロゥラエンはいまいちわからなくて首を傾げたが、師匠の方も「私も月の塔育ちだから」と肩を竦めた。そうすると少し会話が途切れて静かになったので、少し疲れていたロゥラエンは肩の力を抜いて、だらりと机に寄りかかる。
耳をすますと扉の奥から、何かを加工しているようなカンカンという小さな金属音が聞こえてきた。
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