六 エテン
「初めは指先がいい。この魔石を右手の人差し指の先で触れて、魔力を込めてごらん」
師匠がそう言って、親指の爪くらいの小さな水晶の原石のようなものをロゥラエンに手渡した。尖った結晶ではなくて、透明な石ころの形をしたやつだ。
「これが魔石?」
「そう、魔獣の」
「魔獣……あの黒い鹿みたいなやつですよね?」
「これは兎型のものだけれど、魔獣を見たことがあるのかい?」
「ええ、一度馬車を襲われたことがあります。でもその時は魔獣が出るらしいっていう噂を聞いていたから、魔獣狩りの人を雇っていて、その人達が退治してくれたから大丈夫でした」
「それは良かった」
話しながら小さな魔石に魔力を流すと、石はすぐに透き通った影の色になった。師匠が「そう、上手だね」と少し驚いたように言う。
「ではそのまま、魔力を流しながら伝令鳥の魔法陣を描いてごらん」
「はい」
目の前の空中にすうっと丸を描くと、賢者様が「ほう」と声を上げた。目を向けると、彼はぼそっと「円が上手い」と言う。
「衣装の刺繍の下絵とか……描くことあったので」
「そうか」
ロゥラエンは嬉しさに少しそわそわしながら、丁寧に続きの魔法陣を描いていった。初めて描いた時は結構間違えてしまったが、あれからちゃんとしたものを見せてもらったので、今度は大丈夫だと思う。空中に黒い線が浮かんでいるのがとても魔術師っぽくて、興奮で走り出したくなる。
「どうですか」
「ここ、星の棘が一つ足りないね」
「あっ……」
「訂正する時は、指先で魔力を吸い取るようにするんだ」
吸い取るというのはたぶん、遺石に流した魔力を引っ込めた時と同じ感じだろう。指先で拭き取るように触れると、その部分の線が綺麗に消えた。もう一度描き直す。
「このくらいの精度でも発現はするけれど、できるだけ正円に近づける練習をしてごらん。より効率が良くなる。精度の高い陣が描けるようになったら、今度は指でなぞらなくても描けるようになる訓練だね」
「はい!」
「では、この中央の星形紋から更に強い魔力を流し込む。全体に満遍なく行き渡るように」
「はい?」
首を傾げたが、言われるがまま真ん中の星に手を当てて、ぎゅっと魔力を押し込むようにしてみた。すると薄っすら灰色くらいだった線の色がぐっと暗くなって、そして何かじわりと陣が熱を持つような、不思議な感覚がした。
「師匠、なんかじわってした」
「それでいい。じゃあ、呪文を唱えながらその熱をこう、ぐるっと回すように動かしてごらん。慣れてくると呪文も省略できるけれど、最初はあった方がやりやすい」
「言葉の鳥よ!」
少し格好つけて大きな声で唱え、魔力を回すように、回す……回す?
「全然、びくともしませんけど」
「そんなはずないよ。ほら、この星を中心にして……右回転でも左回転でもいい、動かしやすい方向に。初めの一押しさえすれば、後は魔法陣が勝手にやってくれるから」
「どっちにも、全然動きません」
「……どうしてだろうね」
師匠が腕を組んでじっと魔法陣を覗き込み、肩越しに後ろを振り返った。すると賢者様が銀髪を揺らしながら隣までやってきて、魔法陣の真ん中に当てられている手の上に骨張った大きな手を重ねると、一言「こうだ」と言って──
黒い影がぶわっと吹き出すようにして、次の瞬間には魔法陣の中心から小さめのミミズクが飛び出していた。ふわりと飛んで肩にとまったそれをじっと見て、そして大人達の方を見る。
「わかったかい?」
「全然」
「もう一度やってみようか。今度は違う魔法陣で」
「……はい」
賢者様がさっと手を振ると、ミミズクがホーと鳴いて消える。それを見ている間に師匠が万年筆で紙の上にさらさらと小さな魔法陣を描いて、「じゃあ、ここに魔力を込めてみて」と言った。
「わかりました」
真ん中の星を触って、そこから魔力を流し込む。じわっと熱くなる。
「回してみて。呪文は『光を』」
「
さっきより力を込めて回す。けれど、何かがつっかえているように魔力は動かない。
「……できない」
呟いた少年の声に、師匠が首を捻る。
「うーん、どうしてここで詰まるんだろう。一番簡単なところだと思うんだけれどね」
「でも、できないもん」
「魔力は流せるのにな……何か別な原因があるのかもしれない。アトラ様、どう思います?」
「この段階では何とも言えぬ」
「何回もやったのに、できない」
「まあ、コツコツ練習すればそのうち……ロゥラエン?」
「できない……できな、いっ……できなああぁぁぁいっ!」
「うわ、泣いちゃった!」
突然何もかも悲しくて仕方なくなって、ロゥラエンは溢れる感情のままに泣き叫んだ。師匠が慌てふためいて持ち上げた両手を彷徨わせ、賢者様が真顔のまま硬直する。
「なんで、なんで、なんでえぇっ!」
「落ち着いてロゥラエン。初めてなんだから、できなくていいんだ」
「でも、でも一番簡単なとこって! 僕、才能ないんだ!」
ソファに倒れ込んで足をばたつかせると、師匠が「どうしましょう」と賢者様に言うのが聞こえた。困らせていることに更に悲しくなって、声が大きくなってしまう。自分でも止められない。
「いや……私に、問われても」
「あなた、賢者様でしょう」
「いや……賢者とて、決して万能では」
「やだ、やだぁ! できないとかやだ! 師匠に捨てられる」
「はあ? 捨てないよ。そんなこと心配してたのかい?」
「絶対捨てられる! 面白くないから! 才能がないからあああぁぁぁ……うわああぁぁん!」
「──ロゥラエン!」
突然師匠がものすごく大きな声を出したので、本格的に号泣し始めていたロゥラエンはびっくりして息を止めた。
「ししょ、う」
「いつまでも赤ちゃんみたいに泣かない。ここに座りなさい」
ポンポンと手で叩いて示されたのが師匠の膝の上だったので困惑したが、怒った顔が怖かったので言われた通りにした。師匠は片手でロゥラエンのお腹のあたりを抱え、もう片方の手で頭をくしゃくしゃに撫でた。深呼吸、と言われて息を吸って、吐く。顔は歪んだままだったが、とりあえず叫びたい気持ちは落ち着いた。
「……私の養子になるかい、ロゥラエン?」
「え?」
鼻をすすりながら振り返ると、師匠が困った顔で笑いながら言った。灰色の袖で涙と鼻水を拭われる。
「私の息子になったら、君は安心するかい? 私はそうしてもいいよ」
「……ならない」
首を振ると、師匠は「えっ」と言って少し傷ついた顔になった。けれど賢者様はロゥラエンの気持ちがわかっているのか「ふむ」と頷きかけてくれる。
「師匠は、僕の父さんじゃないもの」
「いや、そうだけれど……そうなれる方法があるというか。家族って、血の繋がりじゃないし」
「僕は、師匠に弟子入りしたんだもの」
「うん。だから弟子でもありながら家族にも──」
「僕を何もできない子供扱いしなかったから、僕は師匠の弟子になりたかったんだもの」
鼻声で格好悪いなと思いながらもまっすぐ師匠の目を見ると、彼は少し拍子抜けした顔で「……そっか」と言った。
「才能は、ないかもしれないけど……でも一生懸命っ、れ、練習します。いつか師匠の助手とか、ライバルになれるような魔術師っ、に、きっとなります。だから、まだ見捨てないでください」
また泣き出しそうになるのを我慢しながら言うと、師匠は「見捨てないさ」と静かに言った。
◇
力一杯泣き喚いたせいで声がすっかり枯れてしまい、結局賢者様に演奏を披露することはできなかった。この枯れた声に合う曲を何曲も知っているとロゥラエンは主張したが、大人二人が揃って首を振ったのだ。
「無理に喉を痛めずとも、君の歌ならば聞いたことがある。三年前にもこの国へ来ていたろう」
そして賢者様がそんなことを言うので、目を丸くしてぽかんとなってしまった。
「聞いたことあるの? 僕と……家族の歌」
「ああ。帽子へ金貨を投げ入れるのは危険だと君の父君に説教された」
「あなたもですか……」
少し遠い目になって言うと、師匠が「意外と常識ないんですね」と自分のことを棚に上げて言う。すると賢者様は気を悪くする様子もなく頷いて、呆れている少年に言った。
「賢者というのは学問の知識はあるが、常識はない。覚えておきたまえ」
「えっ……」
「弟子はおそらく史上最年少で私の跡を継ぐだろうが、彼にも常識などない」
「そうなんだ……」
「財布に金貨は入れぬよう教えておくが」
賢者様って……と思ったが、口は閉ざしておいた。もう数日はこの国に滞在するという賢者様に師匠が「明日の夜、サロンに聞きに来てください」と言って、そしてすぐに伝令鳥を出すと「今夜は部屋で夕食をいただくよ。サロンは明日で」と吹き込んで飛ばした。結局サロンとは何なのかよくわからなかったが、おそらくその辺の吟遊詩人が酒場で演奏しているのと似たようなものだ。宿の食堂で演奏できるということだろうとロゥラエンはあたりをつけて、少し期待に胸を弾ませる。こんな豪華な宿屋で興行ができるなんて、なんて素敵なんだろう。それに家族がとっくの昔に、それもロゥラエンと一緒に賢者様の前で歌を披露していたのだと知ってどうしようもなく嬉しい。
そして賢者様を見送ると、外で昼食を食べがてら美術館と博物館を見て回って、夜にはまた少し魔術の練習をした。やっぱり鳥も光も出なかったし、ランタンをつけることすらできなくて落ち込んだが、魔法陣を覚えるのは特別才能があると褒められた。
「記憶力が高いというのは、ある種の魔法使いと言っていいかもしれない。魔法というのは大きく二種類に分けられて、体の外側に現象を生み出すものと、体の内側に作用する、つまり自分の能力を高めるものとがあるんだ。どちらが得意になるかは体質だけれど、君は賢いし、魔力を体外に出すところまでは上手くできている。どちらの可能性もあるからね、同時に訓練していこう」
「……はい」
一生懸命ロゥラエンに自信をつけさせようとしてくれているのがわかって、少し居た堪れない。どうにか自然に微笑み返していると、師匠が「それで……これを君に」とローブのポケットから何かを取り出した。
「……これ、金貨?」
「『星の銀貨』と呼ばれているけれど、これは金で作ったから金貨だね」
「くれるんですか?」
「ああ。そのために、君に隠れて少しずつ夜中に作っていたんだよ。驚いたかい? 君が金貨をお守りにしてくれていたから、銀ではなくて金にしてみたんだ。月の塔の魔術師の弟子に、証として与えられるものだよ」
「弟子の証……」
そうっと受け取って、手のひらの中で何度もひっくり返す。細い金の指輪の中に八芒星形の金貨が嵌まっているようなものだった。それにやわらかな灰色の革紐が結ばれていて、首に掛けられるようになっている。
「……何か書いてある」
「『エテン』と彫ってある。神典から取ったからアルレア語だよ。語源は『平穏』を表す『エテス』──君の魔法名だ。私が名付けた」
「魔法名」
「魔術師としての君の名前だ。私の本名はイレだけれど、『アルラダ』と呼ばれているだろう?」
「……エテン」
「うん。波乱万丈だった君の心に、平穏が訪れるように。或いは君が自分の力で、穏やかな幸福を掴み取れるように」
楽しげな様子で流暢に喋っていた師匠は、そこで一泊置いて少し真面目な顔になった。
「──私の弟子になりなさい、エテン」
驚いたわけでもないのに、ただ口をぱくぱくした。返事をしようと思ったが、厳かな声に気圧されて言葉が出てこない。
「君なら、息子になってもいいと思った。けれど君がそれよりも私の弟子になることを望むなら、私は君を弟子として守り育てよう。魔術師にとって命より大切な知識を全て、惜しみなく与えよう」
「……なんで」
「気に入ったんだ、君を。……素敵な歌を歌うからとか、賢くていい子だからとか、色々考えたけれどしっくりこない。けれど強いて言語化するなら……そう、傷つきながらも真っ直ぐに生きて、好奇心と他者への優しさを無くさない君を、尊敬しているんだ」
雪明かりのような青色の瞳が、じっとロゥラエンのハシバミ色の目を見つめた。
「本当は、君を正式に弟子にするのに塔の長老の許可が必要なんだけれどね。でも上がどういう決定を下そうと、君は私の弟子のエテンだ。正式に承認されるまでは、その誓いだと思ってそれを持っていなさい──きっと君はすぐに成長して私の手なんて必要なくなるだろうけれど、僅かな間でも私の下で学んでゆくといい。教えられることは全て教えてあげよう」
「でも……でも僕は、簡単な魔術も使えないのに」
はい、と言うつもりだった。けれど口から出てきたのはそんな言葉で、ロゥラエンは情けなさでぎゅっと、手のひらに爪の痕がつくくらい拳を握りしめた。
どんなに綺麗に歌えたって、大人達はロゥラエンのことを吟遊詩人だと認めてくれなかった。世界がそういうものならば、あんなに丁寧に教えられても簡単な魔術ひとつ使えない自分が弟子として認められるなんて、あってはならない──どうしてもそんな風に思えてきてしまう。
けれど怒るか失望するかと思っていた師匠は、ちょっと眉を寄せ気味に笑うと、軽い調子でこう言った。
「そうか。それほど気になるなら、魔術の発現以外のことでも有用性を証明してごらん」
「え?」
「私は魔術師であると同時に、魔法陣の研究者でもある。叡智の愛し子たる君の頭脳でもって新しい魔法陣の一つでも編み出してくれれば、私の研究はすごく捗るね。それから……そうだ、手始めに例の誘拐事件を解決してみてごらんよ」
「へ?」
「君はなかなか、探偵役に向いていると思うけれどね。その年で証拠という概念も理解していたし、私が挙げた犯人の条件を覚えて賢者様に当て嵌めたりしていたし」
「……探偵?」
反芻して呟くと、師匠は畳みかけるように挑戦的な笑顔で言った。
「師たる私の疑いを、弟子の君が晴らしてくれるかい? このままもし、容疑者として捕らえられてしまったら流石に困るんだ。それが怖ければ、別のことでもいい。優秀な魔術師というのはね、持って生まれた才能なんかに頼らず、自分で自分に価値を作るものだよ」
「……やります。魔術も、魔法陣も、探偵も、全部」
「そうか。期待しているよ、エテン」
「はい、師匠!」
ふらふらしていた目標にカチリと焦点が合って、エテンはようやく、本当にこの魔術師の弟子になっても良いのだと腑に落ちた。その途端にとてつもない安心感がなだれ込んできて、ふらりと床にへたり込んでしまう。
「大丈夫かい?」
「……僕、たくさん泣いちゃった」
少しずつ恥ずかしさが込み上げてきて、視線だけ上に向けて言う。すると師匠はそんな弟子に何の気遣いもなく「そうだね」と笑った。
「赤ちゃんみたいでした?」
「うん、かなり」
「……もう泣きません。絶対、一生」
「それは流石に無理だろう」
師匠が追い討ちをかけるように「一緒に寝てもいいんだよ?」なんて言うので、少年は真っ赤になって「寝ません!」と言うとバタバタと自分の寝室に駆け込んで鍵をかけた。扉の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。やっぱりあの人は僕の気持ちなんて何もわかっていないんだとエテンは確信して、不貞腐れたまま寝台に飛び込み、胸に下げた星の金貨をぎゅっと握って眠りについた。
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