第二章 魔法陣恐怖症
一 帰ってきた少女 前編
「君、どうしたんだい?」
幽霊のようにふらふら歩く子供に向かって師匠が声をかけた。しかし、背中の中程まである髪をだらりと背に流した女の子は目を上げることもなく、頭をぐらりぐらりと揺らしながら真夜中の大通りを歩いている。着ているのはごく普通の白っぽいワンピースだが、どことなく薄汚れているようにも見えた。
「なかなか器用だね。あの辺は凍ってるのに、あんなに揺れながら転ばずに歩ける」
師匠が少し微笑んだような声で呟いた。今はそれどころじゃないでしょうとロゥラエンが囁こうとすると、その前に肩を掴まれて彼の後ろに移動させられた。同時に冷たい手がさっと少年の右手を握る。
「……私から離れないように。何かの術の器にされている可能性がある」
少女の方をじっと見据えたまま、師匠がやわらかく言った。
「うつわって?」とロゥラエン。
「呪いを撒き散らす道具として使われているかもしれないということだよ」
「呪い」
その言葉に恐ろしくなって師匠の手を握りしめると、大きな手にぎゅっと握り返された。そんな些細なことに、なぜかひどく心が揺れる。恐怖が少し薄らいで、ロゥラエンは師匠の陰から少女をじっと見つめた。
大通りの端の店で売っている人形のような、綺麗な顔立ちをした女の子だ。着ている服も、よく見ると生地は上等なものに見える。赤くてつやつやした革の靴を履いていて、いかにもいいところのお嬢さんといった感じだった。
「君、私の声が聞こえるかい?」
師匠が声をかけながらゆっくりと少女に近づき、肩に手を掛けた。すると彼女はゆっくりと顔を上げて、ぼんやり遠くを見ているような目でロゥラエンを見つめ、のろのろと師匠に視線を移した。
「……ごきげんよう」
女の子が、消え入るような声で囁いた。師匠が「妙な気配はしないが……」と呟いて、考え込むように眉を寄せる。その表情に小さな手がスカートの裾をきゅっと握ったのを見て、ロゥラエンは師匠の手を離すと一歩前に出た。
「こんばんは、お嬢さん。夜のお散歩ですか?」
ロゥラエンが明るい声で尋ねると、師匠がパッと振り返って押し殺した声で「ロゥラエン!」と言った。けれど少年はそれを無視して、少女ににっこり笑いかける。
「お散歩……わたし、どうしてお散歩しているのかしら?」
「あなたのようなかわいらしいおかたが、こんな時間にひとりきりなんて危険です。安全なところまでお送りします。お嬢さん、お名前は?」
「……マレン」
少女がぽつりと言って、そしてロゥラエンの笑顔を先程よりも少しハッキリした顔で見つめ、ほんのり頬を赤くした。けれど額がひどく青褪めているので、すごく病的に見える。
「海の精霊みたいな、きれいな名前だ」
「あなたは、だあれ?」
「とおりすがりの吟遊詩人ですよ。ほら、楽器を背負ってるでしょう?」
「吟遊詩人さん……すてきなかたね。わたし、ひとりでお出かけしたことがないから、帰り道がわからないの。あんないしてくださる?」
「もちろんです」
一際大きくにっこりしてみせると、ロゥラエンは師匠を見上げて「とりあえず広場に戻って、騎士を呼びましょう。手を繋いであげてもいいですか?」と言った。
「ああ、うん。そう危険な感じはしないけれど……君、すごいね」
「すごいねじゃありませんよ。女の子はみんなお姫様なんですから、じっと睨んだりしちゃいけません。たとえ呪われていたって、優しくしてあげないと」
「……それ、誰に教わったんだい?」
「父さん」
「へえ……」
たじろいだ様子でロゥラエンとマレンを交互に見る師匠は、どうやら女の子の扱いなんて全然知らないようだった。ダメだなあと思いながら、ロゥラエンは「ほら、行きますよ師匠」と彼の袖を引っ張った。師匠はされるがままでゆらゆら揺れながら、急かす少年に首を振ってみせる。
「ああ、いや。行くより呼ぼう」
「呼ぶって、もしかして警笛ですか? 近所迷惑ですよ」
「君、本当にしっかりしてるね……」
苦笑いした師匠が、「ほら」と屈み込んでロゥラエンの前に手のひらを差し出した。握れと言われているのかと思って手を差し出そうとした時、その手のひらに光でスッと小さな円が描かれる。あっと思って見つめていると円の中はすぐに細かな紋様で一杯になって、師匠が「言葉の鳥よ」と唱えると同時に強く輝き、光でできた大きな鳥がそこに出現した。
「うわぁ!」
「いっ……」
隣の少女が短い悲鳴のような声を発して、ロゥラエンは反射的に振り返った。するとその瞬間、一体何だろうと考える暇もなく、マレンが目と口をいっぱいに開いて甲高い声で絶叫した。
「いやああアアァァッ──!」
「えっ!?」
ロゥラエンと師匠の驚く声が重なって、少年はさっと少女の手を取って握り、魔術師は腕にとまった光の鳥へ何事か話しかけると宙へ飛ばした。鳥はばさりと空中で大きく羽ばたいて高度を上げると、すうっと広場の方へ向かって滑空していった。
「マレン、マレン? どうしたの、しっかりして」
「いやっ、いやあ! 魔術、魔術、魔術!」
「魔術が嫌なの?」
「助けて!」
「──おい、どうした!」
師匠とは違う野太い男の人の声が響いて、ランタンの明かりで照らされる。光の方を振り返れば、通りの向こうから二人の騎士が走ってくるのが見えた。アルゾ達ではない、ロゥラエンの知らない騎士だ。二人は泣き叫ぶ少女の元へ全速力で走ってくると、警戒した様子で剣に手を掛けながら師匠を睨んだ。
「貴様、まさか誘拐犯か!」
「またそれかい?」
「待て。その子供、ハセル家の御令嬢ではないか?」
「マレンちゃんというらしいね」
「誘拐事件の、二人目の被害者だ。彼女を離せ。誘拐犯!」
「いや」
「──アルラダ様!」
二人分の足音とアルゾの声がして、騎士が四人に増えた。師匠を知っている彼らが月の塔の灰色がどうのという話をすると、騎士達はまたもや膝をついて何かぺこぺこと頭を下げ始める。目の前に、何かを怖がって泣いている女の子がいるのに。
「いや、いや、助けて……」
「マレン、大丈夫だよ。ここには守ってくれる大人がたくさんいるから、怖いことは何もない」
「助けて、お家へ帰して」
「マレン、落ち着いて。すぐ家に帰れるから」
ロゥラエンの声に、マレンが顔を覆っていた手を外して、そっと涙に濡れた目を上げた。
「……吟遊詩人さん」
「騎士さん達に、家まで送ってもらおう」
「わたし、こわい」
「大丈夫。僕がついてる」
手を握って声をかけてやっていると、何か馬鹿馬鹿しい挨拶をしていた大人達が少しずつ静かになって、彼らに目を向けた。ロゥラエンが「用は済みましたか」と言うと、彼らは少し反省したように「ああ、すまない」と頷いた。
「ロゥラエン……お前、結構やるな」
繋いだ手の方をちょっとにやけた感じで見ながらアルゾが言う。
「僕は皆さんと違って、何が一番大切かちゃんとわかってるんです」
眉を寄せてぴしゃりと言う。ここ最近は「一座」として愛想良く振る舞おうと努力していたが、彼らは客じゃないし、今は営業活動をするような場面でもない。本来のロゥラエンはかなりハッキリものを言う性格だった。
「その通りだ。まずは彼女がなぜこんなところを歩いていたのか、それを明らかにしないと。近くに犯人がいるのではないかい?」師匠が言う。
「違います。マレンを家に、家族のところに帰してあげてください!」
彼女が誘拐事件の被害者なら、彼女は母親に会いたいと、もう二度と家族に会えなかったらどうしようと、きっとそう考えて何度も泣いたはずだ。そして家族はどんなに、どんなに心配し、恐れていることか。家族を奪われるのは、自分が死ぬよりずっと辛いことだ。
その痛みを考えると涙が出そうになって、ロゥラエンはマレンの肩を大人達から守るように抱き寄せた。少女は自分より少し背の高い少年を恥ずかしそうに見上げ、そして人の体温に触れて安心したのか、青い目を涙で一杯にして小さく震えた。
「お母さま……」
囁くようなのに苦しみに満ちた啜り泣きを聞いて、騎士達が一斉に動き始めた。初めに走ってきた二人は少女を家まで送り届け、アルゾ達は付近を捜索するために応援を──
「あっ! ダメです!」
ロゥラエンが声を上げた時にはもう遅かった。騎士の一人が、懐から手のひらくらいの大きさをした金属の円盤を取り出す。その中央に指先を押し当てると光の紋様が浮かび上がって、白く輝く大きなミミズクが出現した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。