二 帰ってきた少女 後編
咄嗟にマレンの目を覆おうとしたが、間に合わなかった。ワンピースの胸元を掴んで金切声を上げた少女に、師匠が素早く歩み寄る。
「魔術はダメです!」
彼が手のひらに鳥を出すのとは違った模様の魔法陣を描いたのを見てロゥラエンは慌てたが、師匠は少年に少し微笑みかけると、その手でそっと叫ぶマレンの額に触れた。
「眠りが降りてくるように」
静かな声がそう言うと、魔法陣がちかりと光って、マレンはふっと意識をなくしてその場に倒れ込んだ。それをわかっていたらしい師匠がさっと少女を抱きとめ、騎士に向かって「このまま連れて行こう」と言う。
「助かりました、灰のお方」
「うん。早めに医者に診せた方がいいだろうね」
「そうですな」
騎士が眠る少女を抱き上げ、ロゥラエン達は彼女の家であるハセル家へと向かうことになった。先に騎士団へ行って事情聴取を受けるように言われたのだが、師匠が「そうしたら、誰がこの子の目を覚まさせるんだい?」と言うと、騎士達は顔を見合わせて師匠へついて来てくれと頭を下げたのだった。
「ああして眠らせると、ずっと眠ったままになるんですか?」
歩きながらロゥラエンが尋ねると、師匠は首を振った。
「いいや。でも、よほど耐性が高くない限り朝まで眠り続けるだろうね。あの子は、意識のある状態で再会したいだろうと思って」
君の態度を見習ったんだ、と言う師匠に昼までのロゥラエンなら「光栄です」とにっこりしただろうが、彼はただ頬を赤くして指先をもじもじさせながら黙り込んだ。なんだかこの師匠は……とても変わった人だが、愛想とか礼儀とかそういった表面的なものが一切通用しないというか、そういうものを全部無視して相手の心の奥の方を覗き込んでいる感じがしていた。それがなんだか、ロゥラエンの家族とは全く違った気質なのに、なぜかすごくほっとするのだ。
「……ひとりでも、見つかって良かったですね」
照れ隠しも兼ねてそう言うと、師匠は「そうだね」と頷く。一行は大通りから少し離れて坂を上り、街の喧騒から離れた閑静な住宅街の方へやってきていた。とはいっても道幅は馬車が余裕を持って行き違えるくらいに広く、石畳はこまめに敷き替えられているのか
「ええと……」
マレンを抱えている騎士がきょろきょろし、もう一人の方が「あれだ、あの明かりのついている」と一軒の家を指さした。雪で少し萎れた薔薇のアーチがある家は、真夜中なのにいくつもの部屋に明かりが灯っていた。あの鳥のやつかはわからないが、どこかから連絡がいったのだろう。
近づいてゆくと、門の前に黒い傘を差してランタンを持っている人影が見えた。こちらの足音に勢い良く振り返って明かりをかざし、後ろにいた人へ「旦那様を!」と言っている。たぶん使用人なのだろう。
「お嬢様!」
傘の人が囁き声で叫びながら、こちらへ走ってきた。
「マレン=ハセル嬢で間違いはないか」騎士が問う。
「ええ、ええ、お嬢様で間違いございません。ああ、神よ!」
半泣きの男が騎士からそうっとマレンを抱き取り、「ありがとうございます」と言って深く頭を下げた。
「それで、お嬢様は……どこか」
「動揺していたので一時的に眠らせてあるが、お一人で歩き、会話もなさっていた。医者に見せる必要はあるが、命に別条はないだろう」
「ああ、本当ですか。それは」
「──ねえ、君」
とそこで、騎士と使用人の男の会話にひょいと師匠が口を挟んだ。
「はい?」
「今すぐ玄関と彼女の寝室、他にもマレンちゃんの目につくところにある魔導具を全て片付けさせた方がいい。たぶん彼女、魔法陣を怖がっているから」
「……は」
男は一瞬ぽかんとしたが、その時屋敷の扉が吹き飛ぶように開いて、ひらひらの上等な寝巻きを着た男女が飛び出してきたのを見て慌ててそちらを振り返った。
「旦那様、お履物を」
「マレン!」
雪の中を裸足で飛び出してきた男が、傘の男から奪い取るように少女を抱き上げて、ぎゅうっと抱きしめると咽び泣きながら頬擦りした。そこに踵を踏み潰しながら一応靴を履いた母親らしき女性が飛びついて、一緒になって声を上げて泣く。傘の男が懐からハンカチを出して目元に当てながら三人に傘を差しかけた。
「マレン、マレン……よく帰って来たわね、よく頑張ったわね」
「……お父さま、お母さま!」
師匠が手を当てると、マレンはすぐに目を覚ました。彼女はぼんやりした様子で両親を見上げ、そして次の瞬間には息を呑んで二人に抱きつきわんわんと泣き出した。屋敷から次から次にお仕着せを着た人間が飛び出して来てその輪に加わり、騎士の一人がもらい泣きした様子で目をこすっている。
ロゥラエンもそれを見守って、とても嬉しくなった。
そう、彼女が家族と再開できて嬉しい、嬉しい、嬉しいんだ。
口角を引き上げて目を細め、「良かったね、マレン」と呟く。小さな声を拾った少女が振り返って、両親に「吟遊詩人さんが、迷子になっていた私を助けてくださったのよ」と言った。
「そうか……吟遊詩人というのは君かね?」
「あ、いえ……僕はただ、大通りで、その、犯人から救い出したとかじゃ」
「それでも、君は娘の恩人だよ!」
さあ、上がっていってくれ
恩人に礼をしたい
旦那様、屋敷内の魔導具を
どういうことだ
それがお嬢様は
今夜は騎士団
護衛に
耳に入る言葉が段々と遠くなって、自分がまるでその場にいないような、透明な壁を挟んで世界を見ているような気分になってくる。ロゥラエンは自分が礼儀正しい返答もできなければ再開した家族への祝福の言葉もかけてやれないことをぼんやりもどかしく思った。けれどいくら心の中で命じても、彼の体がにこやかに吟遊詩人らしく振る舞うことはなかった。強張った笑顔を貼り付けて、視線をうろうろさせながら立ち竦んでいるだけだ。
「ええと……あの」
「──申し訳ないけれど、今日は時間がないんだ。これから騎士団で事情聴取を受けないといけないからね」
スパッと空気を断ち切るような師匠の声がして、ぐるりと振り回すようにして抱え上げられた。薬草のような緑っぽくて複雑な匂いがして、頭の後ろから「結構重いなあ」と声が聞こえてくる。
「……師匠?」
「疲れたろう、でも眠るのは暖かい部屋に入るまで我慢だよ」
「……はい」
目を上げると、同じように父親に抱かれたマレンがロゥラエンをじっと見つめ、小さな声で「吟遊詩人さん、また会えますか?」と言った。
「ええ、きっと」
酷い目眩のような気分が少し楽になって、今度はちゃんと明るい笑顔になれた。少女が嬉しそうに微笑んで、父親が慌てた顔をする。彼が「マレンや、もしやあの子のことを」とか言っているうちに、師匠はくるりと親子に背を向けてその場を立ち去った。
「魔術師様、明日改めてお礼を!」
「必要ない」
「しかし」
「私達の自由な時間を奪う権利を、君達は持たない」
追いかけてきた母親の声に、振り返りもせず答える。いくらなんでも失礼すぎやしないかとロゥラエンは思ったが、今はその乾いた態度がありがたかった。
「……師匠、その」
「うん?」
「ありがとうございます」
おずおずと礼を言ってみると、師匠はふんわりと優しい顔で微笑んで、眠気を誘うような優しい声で言った。
「私はとにかく身内にばかり甘くて、他人に興味がなさすぎると時々塔の長老に叱られるのだけどね」
「ああ……そんな感じですね」
「だろう? でもどうやら、君の存在はちょっとだけ身内に入りかけているみたいだ。弟子にしたからかな、自分でも不思議だけれど」
「……身内」
その言葉が少年にとってどんな意味を持つのか、疲れ切ってしまったロゥラエンがそれを深く考えることはなかった。けれど漠然とした、あたたかくて甘い何かが心のひび割れをとろとろと満たしてゆくような気がして、彼は次第にうとうとと、騎士団の詰所へ辿り着く前に眠りへ落ちたのだった。
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