水掛け不動さん
「おばあちゃん、どこ行くの?」
お出かけの着物を着たおばあちゃんに私は聞いた。
「南のおばさんとこへ行ってくるわ」
「南のおばさん? あ、イワシのおいしいとこや。私も行く。連れて行って」
「千代ちゃんは、よう覚えているなぁ。そうやイワシを上手に炊かはるおばさんとこやけど、子どもの遊ぶところもあらへんし、いっしょに行ってもおもしろないで」
「かまへん。私、イワシ、食べたい」
「そやなぁ。イワシぐらいは、ごちそうしてくれはるやろけど」
「行く!」
南のおばさんというのは、おばあちゃんの姪にあたる人である。名前を松子さんといって、法善寺横丁で小料理屋を経営していた。
京阪電車から地下鉄に乗り換えて、賑やかなお店の通りを通って松子さんのお店についた。お店の戸をガラガラと開けるとぷんとお酒の匂がした。夜にはまだ早いので、お客さんはいなかった。
「いらっしゃい。千代ちゃんもよう来たね」
「松ちゃん、こんにちは。千代ちゃんは、イワシが目当てらしいえ」
おばあちゃんは、ふふと笑った。
「いや、うれしい。イワシのファンがまたふえたわ。イワシは人気もんや」
松子さんもふふと笑った。
「荷物、四階においといて」
私たちは、四階の部屋に案内された。
「今日は、この部屋は使わへんし、ここに泊まって」
四階の部屋は、襖が開け放たれ何もないだだっ広い部屋だった。すみに小さなテレビがぽつんと置かれていた。
「この襖は、閉めとくわね。イワシ、用意してくるね」
松子さんは、下におりて行った。
夕方になってお店の方が騒がしくなってきた。
「おばさん、そろそろ手伝って」
下から松子さんの声がした。
「はーい。おばあちゃん、お店手伝ってくるから、千代ちゃん少しの間まっててね」
おばあちゃんが部屋を出て行くと、急に部屋が広く感じられた。
下からは食器のふれあう音や話し声が聞こえてきて、にぎやかな感じだった。
私は、部屋のすみのテレビをつけてみた。漫才や落語のお笑い番組がうつしだされた。少しの間見ていたが、一人のせいか、やはり何か落ち着かない。
外は、どうなっているんだろう。障子戸が閉まっている窓を見て、私は考えた。そっと障子戸と窓ガラスを少しだけ開けて外をのぞいた。
高いビルの窓にともった灯り。お店のネオン。人々が行き交う細い道。その中に不思議なほど暗い場所があった。まるで急に現れたブラックホールのようだった。目の下に一ヶ所だけ暗闇が広がっていた。
あそこには何があるんだろうと、私は窓から身を乗り出した。
「誰や?」
誰かがこちらを見上げて聞いてきた。
よく見るとおじさんのように見える。それも全身緑色の。
「誰って……」
誰と聞かれても、私はどう答えればいいのかわからなかった。
「えらい上から見下ろしてくれてるな」
「そら、ここ四階やもん、しょうがないやん」
「あ、そうか」
緑のおじさんは、そう言ったかと思うと急に「冷たい!」と叫んだ。
「どうしたん?」
私は、小さい声で聞いた。
「水掛けよんねん。ほんまかなんわ」
おじさんは、水を払うように手をふった。
「どうして、水を掛けられるの?」
「願を掛けると水を掛けるの掛けるをかけて、願い事といっしょに水を掛けたらよう願い事がかなうと思てるんや。アホちゃうかと思うわ。ワシが冷たいだけやがな」
「おじさんに水を掛けたら、願い事がかなうの?」
「そうや、ワシはこの横丁を守っとる仏さんやからな。この横丁が繁盛するように昔から守っとる仏さんや。仏さんに願うたら、なんでもかなうんや」
「ほんま?」
「ほんまや」
「すごい!」
「そやけどな、この頃のやつは、しょもない事ばっかり願いよるねん。そんなんはワシは聞いたらへん」
「しょうもない事?」
「そうや。いっしょうけんめい働きもせんと、お金が儲かりますようにとかぬかしよる。もっと働いてから来いっていいたいわ。それに、急に増えたんは、サイの目がそろいますようにやて。何願とんねん、いう感じや。もう訳わからんわ。あ、冷た! また水掛けよった」
おじさんのあわてぶりに私はフフフと笑ってしまった。
「もう、笑いごとやあらへんで。ほんま冷たいわ」
「そやったら、水掛けんといてって言うたらええのに」
「ふん。それもそやな。そやけどな、大阪は水の都ゆうてな、水のきれいな街なんや。冷たいけどな、ちょっとええ気持ちにもなるんや。ククク」
おじさんはうれしそうに笑った。
「けどな、このごろおかしいねん。なんや水が生臭うなってきたような気がすんねん」
「なんで?」
「ふん。なんでやろうな。大阪やし、いつまでもきれいな水であって欲しいと思うねんけどなぁ。なんで生臭うなるか、みんなもっと勉強して真剣に考えなあかんと思うねんけどなぁ……」
私もなぜだろうと、ぱちぱちとまばたきをした。
と、同時に後ろから拍子木がパチンとなった。
驚いて振り向くと「お後がよろしいようで」と落語家さんがテレビの中で頭を下げていた。
「なんで水が……」
つぶやきながら私がもう一度窓の外に目を移すと、もうおじさんの姿はなかった。
暗い闇は、お寺の屋根と、ところどころにぼんやりとともる提灯だけになっていた。
「千代ちゃん、もう起きなあかんえ。帰るえ」
朝、おばあちゃんの声がした。
私は、寝ぼけたまま帰る用意をした。
一階に下りると松子さんが小さな折箱を持って私たちを待っていた。
「おばさん、昨夜はおおきに。ほんまに助かったわ。また、忙しいときは手伝うてな。千代ちゃんも、また遊びにおいで。はい、これお土産」
松子さんは、折箱を私に渡してくれた。
これは、イワシだ。折箱の中は、きれいにならんだイワシだ。
「おおきに!」
私は、ニッと笑った。
お店の引き戸を開け、私とおばあちゃんは松子さんのお店を後にした。
石畳を歩いていると「そや、近くやし、お不動さんにお参りして行こうか」とおばあちゃんが言った。
「お不動さん、水掛け不動さん?」
「そうや」
「うん、行きたい」
私は昨夜のおじさんに会えると喜んだ。
石畳の先が水掛け不動さんの祠だった。
祠の中に怖い顔をした不動尊像が立っていた。顔もからだも全身苔に覆われていた。周りもみんな緑色だった。
私は昨夜のおじさんとちょっと違う感じがして少し怖いと思った。
「水を掛けて、お願い事をしたら、聞いてくれはるえ」
「何をお願いしたらええのん?」
「頭が良うなりますようにって願っといたらええのんとちがうか」
「うん」
私はおばあちゃんにならって柄杓に水を汲み、お不動さんに水を掛けて、頭が良くなりますようにと目を閉じて願った。
「え?」
「どうしたん?」
おばあちゃんが、驚いて目を丸くしている私に聞いた。
「お不動さんが、勉強したらええって言わはった」
「あ、そうか。それもそやな」
おばあちゃんが、あはははと笑った。
私も昨夜のおじさんを思いだして、うふふと笑った。
了
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