金木犀


 学校の帰り、いつも通る公園で十人ほどの小学生が集まっていた。一足早く教室を出た同じ学級の子も幾人か混じっていた。

 真ん中に黒っぽいジャンパーを着たおじさんが見える。

「千代ちゃん、見て。あれ、何してるんやろう」

 ならんで歩いていた和ちゃんが、私の肩をたたいた。

「さあ?」

「行ってみよう」

 私の返事など聞かないで、和ちゃんは私を置いて走り出した。

「あ、まって……」

 私は、和ちゃんを追った。

 子供達の輪の中にいるおじさんは、ニコニコ笑いながら「きれいやろ」と言いながら、みんなに何かを見せていた。おじさんの横には、黒い自転車が止まっていた。荷台には木の箱がつまれている。ボール紙のような物が立てかけてあり、小さな人形がその下にならんで座っていた。

 人形の顔はなめらかに白く、目は青かった。

「この人形はビスクドールいうてな、外国の人形や。外国でこうたら、高いもんや。そやけど今日だけは安うしといたる。おっちゃんももう外国に帰らなあかんし、しゃぁない安うしとくわ」

「きれい」

「かわいいなぁ」

「ええなぁ」

「ほしいなぁ」

 そこここで、そんな声がした。

「すごいな。外国の人形やて」

 和ちゃんが私に言った。

 和ちゃんの目が大きく見開かれて、キラキラしていた。

「そうや、すごいやろ。外国製やで」

 和ちゃんの声が聞こえたのか、おじさんが和ちゃんの方を見て、何遍もきれいやろと繰り返した。

「今日は、みんなええ子やし、安うしといたる」

「お金、持ってへん」

 前の子がいった。

「なんや、学校帰りかいな。かなんなぁ。よっしゃ、まってたる。はよ家帰って、お金もっといで」

「まっててや、私、お金持ってくるさかい」

 前の子が私を押しのけて走り出した。

「私も、持て来る」

 集まっていた子供達がバラバラと走り出した。

「千代ちゃん、私らもお金もろてこ」

「え?」

「早よ、行くえ」

 和ちゃんは私の手を引っ張って走り出した。


 家に帰って、私はおばあちゃんに公園で会ったおじさんの話をした。

「外国の人形やて」

「へぇ」

「ものすごォ、きれいやってん。ビスコ……、ビスなんやらっていうんやて」

「ビスクドール」

 おばあちゃんは、古い浴衣の布で縫っている雑巾の糸をしごいた。

「そうそう、そう言わはった。おっちゃん、お金、もっといでって言わはった」

「千代ちゃん、本当にそれが欲しいんか?」

 おばあちゃんは、縫い物の手を休めて私の方に膝を向けた。

「欲しい……」

 私は、小さい声で言った。

「ほんとか?」

 おばあちゃんは、私の目をのぞきこむようにして聞いた。

 私は、和ちゃんと別れるまで、人形が欲しいと思ったことがなかった事をかくすように頭を下げた。

「ほら、やっぱりどっちでもええんやろ?」

「わからへん」

「よう考えて、それでも欲しいもんやったらこうたげるさかい、もう一回ちゃんと考えてみ」

「そやけど、お金もろてくるって、和ちゃんと約束してしもたし……」

「ほら、やっぱりそういうことやろ。それは、本当に千代ちゃんが欲しいと思てるんとちがうという事やんか」

「そやろか……」

 

 私は自分の部屋に入って机の引き出しをあけ、今までにもらったお小遣いを貯めた空き缶をゆすってみた。小銭のぶつかる音がする。

「やっぱり、欲しない」

 私は、静かに引き出しをしめた。

 

「和ちゃん、あそぼー」

 和ちゃんの家の格子戸をガラガラと開けた。

「あかん」

 和ちゃんのお母さんの大きな声がして、私は足を止めた。

「そやけど、欲しいねん」

 和ちゃんの大きな声もする。

「そんなもんニセモンに決まってる」

「みんなお金持ってくるっていうたはった」

「みんな、ってだれや?」

「そこにいた人みんなや。私だけ、買わへんかったら、のけもんになるわ」

 和ちゃんの声は涙声になっていた。

 私は、そろそろと歩いて和ちゃんに近づいた。

「あ、千代ちゃん、いらっしゃい」

 おばさんが、私に気がついてにっこり笑ってくれた。

「千代ちゃんもいっしょやったんか?」

 おばさんが、和ちゃんに聞いた。

「そうや、千代ちゃんもいっしょやった。千代ちゃん、お金もろてきたやろ?」

 和ちゃんが振り向いて、私に助けを求めるように甘えた声でいった。

 私はごくりとのどをならした。

「もろてきてへん」

 私は、小さい声でいった。

「なんや。千代ちゃん、さっき約束したやんか。なにしてんの」

 和ちゃん恐い声を出して私をにらんだ。

 私はだまってうつむいた。

「千代ちゃんも、それ欲しかったん?」

 おばさんが聞いた。

「欲しない……」

「和子、みんな欲しいって言うてるっていうのはうそやろ」

「ほんまや。欲しないっていうのは、千代ちゃん一人や」

「一人? へぇ、千代ちゃんは一人でもちゃんと自分の意見がいえるんやなぁ。意志の強い子やなぁ。えらい、えらい」

 おばさんは頭をなでてくれた。

(イシ? 石は強いのに決まってるのに……)

 私は首をひねって、ぼんやりおばさんの顔を見ていた。

「もう、ええわ。千代ちゃん、一人だけええ子になって、もう、知らんわ」

 和ちゃんは走って家を出て行った。私は「まって」といって和ちゃんを追いかけた。


 公園に近づくと、和ちゃんが急に止まった。

「みんな、こうたはるやろか?」

 和ちゃんはしゃがみこんで、公園の生け垣から中をのぞきこんだ。

 私も和ちゃんの横からのぞきこんだ。

 その時「お金、もろてきたか?」という声がした。

 見上げると、生け垣の上からおじさんが、私たちを見下ろしていた。

「あかんかってん」

 和ちゃんがさっと立ち上がって言った。

「この子がそんな人形いらん、って言うたさかい、おかあちゃん、私にもお金くれやらへんかってん。おまけに意志の強い子やって、おかあちゃんにほめられはったわ」

「みんなは、もう、こうて帰ったというのに、あんたは、いらんっていうたんか。意志の強い子やなぁいうてほめられたんか……。へぇ、そうか。そら、残念やったな」

 おじさんは、私の方を向いて言った。

「ほんま、残念や。欲しかったのに……」

 和ちゃんは顔をくしゃっとゆがめ、くるっと後ろを向いて歩き出した。

 おじさんは、何もなかったように自転車のハンドルに手をかけた。そして、少しかがんだ隙に私をにらみつけ小声で言った。

「人の商売、邪魔したらあかんで。覚えときや。あんた、この先、欲しいもんができた時、泣き見るで……」

 私はびっくりして、おじさんの顔みつめた。

 おじさんの顔は、陰の中でねずみ色だった。目が金色に光ったように見えた。

 恐い目だった。

 私は動けなかった。何かの呪いをかけられたような気がした。欲しいと思う物すべてに呪いがかけられたような……。

(欲しい物ができた時、私は泣くんや……)

 そう思った。

「欲しいもんなんか……ない……。泣くのは、いやや」

 私は、つぶやいた。

 すっと背をのばしたおじさんは、ニヤッと笑って黒い自転車に乗って去っていった。

 

 秋になって、私はその日まで、恐いおじさんのことを忘れてしまっていた。

 その日、おばあちゃんのお使いで、近所のお寺にお土産を届けに行った。帰り道、何かが私を包んだような気がした。何に包まれたのかと見上げると、青い空が高く高く澄んでいた。

「ああ、ええ匂いや」

 私はつぶやいて目を閉じた。私を包んだのは、なつかしい感じのする透き通った香りだった。動くことを忘れてしまった私は、ずっとその場に佇んでいた。

 ふっと、香りが消える。

 私は目を開け、空を見上げる。

 また、どこからか微かにひんやりとした風といっしょに、香りが私を包む。

(この匂いは空からおりてくるんや。この空をどこまで上ったら、この匂いにとどくんやろう……)

 チリンチリン

 自転車の警告音ががした。

「そんな道の真ん中でボーッと立っとたら、あぶないやろ!」

 男の人が怒鳴りながら走りすぎた。

 それでも、私はそこを動けなかった。


 何時間そこに立っていたんだろう。

「千代ちゃん、どうしたん?」

 おばあちゃんの声がした。

 私は、おばあちゃんの顔を見てゆっくり笑った。

「千代ちゃんが道の真ん中で、おかしなったはるって、近所の子が教えてくれたんや。こんな所に立ったまま、どうしたんえ?」

「ええ、匂いや……」

「えっ? あ、ほんまやなぁ」

 おばあちゃんも辺りを見回した。

「私、大好きや。これ、欲しいなぁ……」

「もう、かなんなぁ。この香りで、動けんようになってしもたんかいな?」

「うん。もうあかん」

 私の膝から力が抜けていった。

「なに惚けたこと言うてるんや。そや、そんなに好きやったら、ええとこ連れて行ったげるわ」

「どこ?」

「ついといで」

 おばあちゃんは、くたくたになった私の腕を抱えてさっさと歩き出した。

「ほら、ここや」

 おばあちゃんが、連れてきてくれたのは、さっき私がお使いに来たお寺の裏側だった。白いかべの向こうに小さい柿色の花をいっぱいつけた木があった。

「さっきの香り、この花の香りや。ええ匂いのことを香りっていうんやで」

「香り?」

 私は、息を胸いっぱいすいこんだ。

「うん。にてる」

「あたりまえや、さっきも金木犀の花の香りやったがな」

「金木犀の花?」

 私は、もう一度柿色になった木を見上げた。香りには似合わない目立たない花だった。

「そうや、金木犀や。ええ香りやろ? おばあちゃんも、大好きや」

 おばあちゃんも、香りを楽しむように大きな息をした。

 目を閉じているおばあちゃんを見て、私はちがうと思った。この香りはさっきの香りとは全く別の物だと思った。

「ええ香りやなぁ。ここへ来たら、いつでもこの香りに出会えるで。欲しなったら、ここへ来たらええんや」

 私は、急に悲しくなった。

 さっきの香りが私は欲しい。この香りとは全然ちがう。何が違うのか分からない。分からないのが無性に悲しい。きっとあの香りは私の物にはならない。そう思うと、涙がほろほろとこぼれてきた。

「どうしたん。泣くほど好きなんか?」

 おばあちゃんが私の顔をのぞきこんだ。

「ちがうねん」

「何が?」

「わからへんけど、ちがうねん」

 私は、涙でいっぱいになった目で金木犀を見上げた。

 その時、金木犀の花と葉の闇から、私をにらんでいる黒い自転車のおじさんの目が見えた。ビスクドールの青い目に囲まれた金色の目。

「あんた、泣き、見るで」

 あの声が聞こえた。

 私のからだが動かなくなる。呪いの言葉が頭の中をくるくるまわる。

 しまったと、私は思った。欲しいと思ってはいけなかったんだ。欲しいと思うことに呪いがかかってたんだ。

 私は震えながら、小さな声で「欲しい物はない。欲しい物はない」と何度もつぶやいた。

 おばあちゃんが、私のほほを両手ではさんだ。

「なに言うてるんや?」

「欲しいもんなんか、あらへん」

 おばあちゃんはじっと私の目を見て、不思議そうに首をかたむけた。

「欲しいもんができても、私はそれをもらうことができひんねん」

「なんで?」

「そう言わはった。欲しいもんができた時、泣くでって言わはったんや。もらえへんから泣くんや」

「だれが、そんなアホなこと言うたんや?」

「人形屋のおっちゃん」

「そのおっちゃんて、公園でお金もっといでって言わはった人か?」

 うん、と私はうなずいた。

「そんなん、うそに決まってるがな」

「そやけど、欲しいと思たあの香りは、どこにもあらへんやん。だれも私にくれやはらへん。おっちゃんの言うたことは、ほんとのことやったんや」

「この香りとは、ちがうっていうんやな……」

 おばあちゃんは、金木犀の木を見上げた。

「うん。あの時、私が人形なんかいらんっていうたせいや」

 私は、くちびるをかんだ。

「香りなぁ……。それも、漂う香り……。えらいもんが欲しいと思うんやなぁ、千代ちゃんは」

 おばあちゃんはため息をついて、うんうんとうなずいた。

「本当に欲しいもんって、そういうもんかもしれへんなぁ。そやけど、人形屋のおっちゃんとは、別やで。おっちゃんが言わはったし千代ちゃんがもらえへんのとちがうえ」

「そやけど……」

「だれでもそうやっていうことや」

「私だけとちがうの?」

「本当にほしいもんは、なかなか手にはいらへんもんなんや」

「おっちゃんがかけた呪いとちがうの?」

「あたりまえや。そんなおじさんの言わはったことなんか忘れなあかん」

 私は振り返えってもう一度、金木犀の葉陰に目をやった。その中には、人形屋のおじさんの目もビスクドールの青い目もなかった。

「アホなこという大人がいるもんや。帰ろ」

 おばあちゃんはちょっと怒ったように言って、くいっと私の手を引っ張った。

「うん」

 手をつないで私たちは歩き出した。おばあちゃんの手はあたたかく、私を守ってくれているのが分かった。それでも、私はあの目が気になっていた。まだ、私を見ているような気がする。背中が冷い。


                 了

 


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