熟柿
私はいつものように、学校から帰ってすぐ、友だちの和子ちゃんの家に遊びに行った。
和ちゃんの家は、おじいさんやおばあさんも一緒に住んでいる大きな家だった。狭い玄関を入ると走り庭にそっていくつも部屋がある。玄関ののれんをくぐると流しがあり、そこを抜けると裏庭に続いている。裏庭には、離れと呼ばれる小さな部屋もあった。
「こんにちは、和ちゃん、あそぼ」
玄関はガラガラと開いたのに、だれも出てこなかった。
「あ、そや。朝、和ちゃん、どっか行くっていうたはったなぁ」
私はぶつぶつつぶやいた。
「ああ、お便所行きたい。家でしてきたらよかったなぁ。ああ、ガマンできひんわ。ここで借りていこ」
私は、裏庭の横にあるお手洗いにかけこんだ。
お手洗いから出てきた時、離れからだれかが私を呼んでるような気がした。
「だれ?」
私はふらふらと離れに近づいていった。
「あれっ?」
いつも閉まっているガラス戸が、少しだけ開いている。
「やっぱり、だれか、やはる……」
部屋の中には、赤い掛け布団が見えた。
私は、ふと前に和子ちゃんから聞いた話を思い出した。
和子ちゃんの二階の部屋から、離れの屋根が見えている。一年生のドリルの宿題にもあきて、私はぼんやり屋根を見ていた。
和子ちゃんは、そろそろと私の方に近寄ってきて小さい声でいった。
「千代ちゃん、だれにもいわへん?」
「うん。いわへん」
「あのな、あの離れにな、でもどりさんがやはるねん」
和子ちゃんは、秘密よというように人差し指をくちびるにあてた。
「へぇ、でもどりさん? 何、それ」
私も、声をひそめてきいた。
「名前かなぁ……」
和ちゃんは、よくわからいというようにくちびるをとがらせた。
「おもしろい名前やな」
「うん。おかあちゃんがそういうたはった。本当の名前は、みそのさんっていわはんねん。おとうさんの妹で私のおばさんやけど、私は知らんかったんや。この前引っ越してきやはってん。おかあちゃんが近所の人としゃべったはる時にな、時々でもどりさんっていわはるんや」
「二つ名前を持ったはんのかなぁ」
「そう思うわ。二つも名前を持ったはんのや」
「そら、みそのさんっていうより、でもどりさんっていう名前の方がおもしろいなぁ」
「そやろ。おもしろい名前やさかい、すぐおぼえてしもた。そやけどなぁ、あそこに近づいたらあかんいわれてるねん」
「なんで?」
「病気がうつるんやて」
「へぇ……、何の病気?」
「さあ、よう知らん。おかあちゃん、教えてくれゃあらへんもん。時々コンコンせきしたはるけど……、ようわからへん」
「……」
「私なぁ、でもどりさんが引っ越してきゃはってから、夜に一人でお便所に行ったことがあるねん。うちのお便所、離れの近くやろ。離れに近づいたらあかんゆわれても、しゃあないやん」
「離れに、近づいてしもたん?」
「うん」
「病気、うつってしもたん?」
私は身を引いた。
「うつってへんわ、あほ。そやけど、声、聞いてしもたんや」
「声? でもどりさんの声?」
「そう思う。ひぃひぃいうたはった」
「コンコンちがうの?」
「ちごた」
「ひぃひぃ? ひぃひぃ、ていう病気なんやろか?」
「知らん。おかあちゃんに聞いたら、嫌そうな顔しゃはったし、だれにもいうたらあかんっていわはってん。そやし、もうだれにもいわへんねん。夜にお便所、行きとなっても、がまんするねん。千代ちゃんも、ほかの人にいうたらあかんで」
「うん、絶対いわへん。そやけど、夜のお便所も我慢しなあかんって、えらいこっちゃなぁ」
「うん。ほんま、えらいこっちゃ」
離れの中で人の動く気配がした。すこし開いたガラス戸のすき間から、細く白い手が見えた。おいでおいでと私を呼んでいる。
私は、引き寄せられるように離れに近づいていった。離れの濡れ縁まで行くと、ガラス戸が静かに動いた。
赤いお布団の上に、長い髪を肩のあたりで一つに結んだ女の人が座っていた。白いゆかたの寝間着の上に紫色のはんてんを羽織って、黒いえりを手でおさえている。頬のくぼんだところが、うすみどり色の陰に見えた。
私は、でもどりさんや、と心の中でつぶやいた。
「和ちゃんのお友だちか?」
女の人はきいた。
私は、うんとうなずいた。
「かわいいなぁ」
女の人の目が細くなった。
ああ、この人は病気なんだ、と私は和子ちゃんの話を思いだした。
「あんた、元気やなぁ。大きなったら、ようけ子ども、産むんやろうなぁ。あんた、いつも、和ちゃんと大きな声を出して笑うてるもんなぁ」
私は、いつも笑ってなんかいないと思って、うんとうなずくことができなかった。いつも笑ってると、どうしてこの人は思うんだろう。和子ちゃんとけんかして、怒って帰ったこともあるし、泣いて帰ったこともあるのに。
「ええなぁ。ほんま、ええなぁ」
女の人は、私の方に手をのばしてきた。
何がいいのかわからない。私は、ちょっとからだをひいた。
「私もなぁ、あんたみたな、そんな時があったんや。ここにいた時にもどりたいなぁ」
女の人は、首をゆっくり横にたおした。
「ええなぁ。ほんまに、ええなぁ」
私は、何て返事をしたらいいのかわからない。話している女の人の暗い目に吸い込まれそうだと思った。
「そや、ええこと思いついた。ほら、これ……、あんたにあげるわ」
女の人は枕元にあったお皿を取って、私の方にさしだした。
お皿の上には、熟した真っ赤な柿がのっていた。食べかけなのか、半分はぐじゃぐじゃにくずれて形がなかった。
「おあがり」
ふっと笑ってお皿を私の前へ押し出した。
私は女の人にみつめられて、からだを動かすことができない。いらないと頭をふることもできなかった。
「ほら、おあがり。何え、遠慮してんのかぁ? 子供は遠慮なんかしたらしたら、あかん。ほら、お食べ」
女の人がもう一度、お皿を押し出した。
私の頭の中で「病気がうつるんや」という和子ちゃんの言葉がくるくる回っていた。けれど、私は動けない。
「あ、あっちで、た、食べる」
私は震える腕を外に向けた。柿さえもらったら、ここから帰してもらえると思ったからだ。外に出られたらあの柿を捨てられる。
「あかん」
女の人の声にさっきまでのやさしさがなかった。私に命令している。私のからだの中に電気のようなものが走った。逃げられない。
「むこうに持っていったら、ほかの子供がほしがるやろ。ここで食べなあかん。あんたにあげるんや。ここで、食べてほしいんや」
女の人の顔が、またふっと笑った。
(あかん。もうここにはいとうない)
私は目をきつく閉じ、足を一歩引いた。動かないと思っていた足が動いた。
からだが、動く。
私はサッと身を翻し、走った。夢中でそこから逃げた。振り返ることもなく走り庭をただ走った。走ってる私を、ひぃひぃという泣き声のような声が追いかけてくる。
私は玄関の戸を開け家からとび出した。そして、追いかけてくる声を断ち切るように、後ろ手にピシャと力いっぱい戸を閉めた。
了
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