21 元の世界へ
それからすぐに警察が来て、オレと檜山さんは保護された。その中の一人に簡単に身体状態を確認され、怪我はしていたものの自力で歩けると判断されたオレは、付き添われながら地上へと続く梯子を登ることになった。
そして、ようやく地上に出た時。目に飛び込んできた強い光に、くらりと目眩を覚えたのである。
「……え、昼?」
目をぱちくりとさせて、木々の間から落ちてくる日差しを見上げる。……なんで? 地下室にいた時は、まだ夜のはずだったのに。帆沼さんを説得してる内に夜が明けたとか? いや、それにしては陽が傾き過ぎているような……。
「恐らく、少しずつ食事のタイミングをずらされて時間を誤認させられたんだろうね」
檜山さんに尋ねると、すぐに事情を把握して事実を明らかにしてくれた。
「目的としては、医師にとって最適な時間で手術する為かな。もしかすると、当初の計画では君が眠っている間に手術を執り行う手筈だったのかもしれない。あるいは、君の体感時間を遅くして監禁のストレスを最低限にする狙いもあったとか」
「じゃ、じゃあ、オレは何日監禁されてたんですか?」
「今日は君が誘拐されてから四日目。現在時刻は十四時だ」
「よっ……!?」
今が三日目の深夜だと思っていたオレにとっては、衝撃的な時間である。そりゃ大いにお腹も空くわけだ。けれどそのズレに体が馴染む前に、オレにタックルをかましてきた生き物がいた。
「にいっちゃぁぁぁぁぁぁぁぁんんんん!!!!」
「はぶっ!?」
つかさである。彼はオレに抱きつくなり、ぐりぐりと頭を腹に押しつけてきた。
「兄ちゃーん! 兄ちゃん!! 無事!? 大丈夫!? 帆沼と檜山のダブルへんちくりんに何かされてない!?」
「つ、つー君……!?」
「は!? なんか兄ちゃんのお手手から血が出てんだけど!? 兄ちゃんの可憐でシラウオのようなお手手から大事な大事な体液漏れてんだけど! おい檜山どうなってんだ命で償え!」
「つー君!」
なんで事件現場にいるのかさっぱり分からなかったけど、とにかく元気であることには間違いないようだ。最後に見た姿はまだベッドの上で眠っている所だったので、ホッとして肩の力が抜ける。そのまま、腕を回して抱きしめた。
「にちゃっ!?」
そしたら、何か変な鳴き声が聞こえた。……そういや、兄ちゃんと呼ばれるのも随分久しぶりな気がする。中学生の半ばぐらいだったろうか、ある日突然「俺ももう大人の一員だから」とか言って、彼は兄ちゃん呼びから兄さん呼びに変えたのだ。
それでも、オレの可愛い弟であることに変わりは無い。オレは、つかさのツヤツヤした髪に頬ずりした。
「つー君も目を覚ましてよかった。心配してたよ」
「にちゃ……」
「でも、しばらくは無理しちゃダメだからね。頭の怪我って怖いんだから」
「にちゃー……!」
「それマジで鳴き声だったりする?」
「し、慎太郎さん!」
オレにしがみついてプルプルしてるつかさの隣に、大和君がやってくる。彼も来てくれていたのか。多分つかさのお目付役だろうな。
大和君は不思議と色気のある顔を年相応に焦らせて、向こうを指さした。
「怪我をされてるなら、傷の手当てをしましょう! あっちに救急車が来てますから……」
「あ、オレより檜山さんを」
「僕より慎太郎君を」
「どっちも行きますよ! 何があったんすか、地下で!」
しっかりしているものである。大和君はオレに張りついたつかさを剥がしながら、救急車へと誘導してくれた。
だが、とある人の声にオレたちの足は止まる。
「正樹さん」
「……莉子さん」
丹波刑事が、オレたちの行手に立っていた。彼女は檜山さんの姿を目にするや否や、痛ましげに顔を歪める。
「無事……ではないわね。でも、まずはお礼を言わせてね。ありがとう、あなたのお陰で戸田君は無傷で確保することができたわ」
「それは、僕じゃなくて莉子さん達の功績でしょう」
「説得できる時間が稼げたのは、あなたが先に潜入してくれていたおかげよ。……そのせいで、あなたには負担をかけて慎太郎君には怪我をさせたけど。市民を守る警察として、恥ずかしい限りだわ」
「……恐らく、帆沼呉一は侵入を予期してました。しかし彼は僕を殺せないので、この程度で済んだんです。もし入ったのが僕じゃなければ、双方被害が大きくなっていたかもしれません」
「……そうね。今更何を言っても結果論か」
「ところで、帆沼君は見つかりましたか?」
「いえ、まだよ。まあ、出入り口は一つで他に逃げようも無いからすぐ見つかるだろうけど」
「……」
意味深に檜山さんが沈黙する。すると、その横から大和君がひょっこりと顔を出した。
「あの……出口っていくつかあるんじゃないんですか? だって、そうじゃないと檜山さんは先に潜入できませんよね?」
「いいえ、隠し通路はきっちり塞いで中から通れないようにする手筈にしてたの。そうよね、正樹さん?」
「……はい、そこは僕じゃないと出られない仕組みにしてます」
「そこは?」
鋭い丹波さんの指摘に、檜山さんがギクッとする。火傷痕が、気まずそうに引き攣っていた。
「……あなた、まさか」
「……え、えっと。その」
「まだあるのね? 外に繋がる道は他にあるのね?」
「えっと」
「何とか言いなさいよ、この白髪ーっ!」
「落ち着いてください、丹波刑事! 怪我人です!」
大和君の制止が無ければ、檜山さんは救急車にたどり着くまでに力尽きていたかもしれない。なお、オレも止めたかったけど、つかさがまたがっちり組みついてきていたので無理だった。弟はオレより身長が高いので、本気を出されたら普通に力負けするのだ。
そうして医師から治療を受けながら、檜山さんから他の抜け道を聞いた丹波さんは手際良く部隊を派遣していた。一応檜山さんの言い分としては、「使われなくなって久しい抜け道だから帆沼君も使わないと思った」ということだそうである。実際、彼の伝えた三つの内、檜山さんが通った道以外は全て老朽化や土で塞がっていた。
「……医者三人、護衛四人。中にいたのは、これで全員か」
救急車の中で報告を見ながら、丹波さんはポニーテール頭をがりがりと掻く。結局、帆沼さんは見つからなかったのである。
「どこに行ったのかしらね。加えて、VICTIMSも失われたままだし……」
「今の状況なら、もう本は無くても立件できるでしょう」
「そうだけど、やっぱり鍵になる証拠には違いないわ」
ため息を吐き、丹波さんは立ち上がった。
「まだまだ事件解決には遠いわね。帆沼呉一を捜索するよう、早速手配しなきゃ」
「僕も手伝いますか?」
「あなたは怪我を治すことに専念して。ここから先は流石に警察がやるわ」
「分かりました」
「では先生、すいませんがあとはよろしくお願いします」
そう言って、丹波さんは壮年の医師に頭を下げる。よく見ると、彼は病院でつかさを診てくれた人だった。
「……じゃ、つかさ。僕らもそろそろ帰るぞ」
足早で去った丹波さんに続くようにして、大和君が立ち上がる。対するつかさは、ギョッと目を見開いた。
「え、なんで!?」
「何でも何も、そういう約束だったろ。慎太郎さんが保護されたら帰るって」
「兄さんが保護されて怪我が治ってかさぶたが剥がれたらじゃなかったっけか」
「長い長い長い。どんだけ居座る気だよ」
その後しばらく屁理屈をこねていたつかさだったが、最終的に業を煮やした大和君に担がれて帰っていった。力は弁に勝つのである。頼りになるなぁ、大和君。
そして、残されたオレと檜山さんは、可及的速やかに病院に運ばれることとなった。ごとごとと整備のされていない道を走る救急車に揺られながら、オレは座席に座ってぼんやり窓の外を眺める。
……まだ、助かったという実感が無い。それどころか、自分が監禁されていたということも。まるで、夢の中で泳ぐオレを外から見ているかのようだ。
「……帆沼さんは、まだ自分の世界に留まったままなんですかね」
ふと、疑問が口をついて出た。とても曖昧な質問だったのに、オレの隣にいる檜山さんは小さく頷いてくれる。
「そうだろうな。まあ、なかなか難儀な話だよ。あのドン・キホーテも、本を焼かれたぐらいじゃ正気に戻らなかったぐらいだし」
「ドン・キホーテって、ラ・マンチャの?」
「あれ、よく知ってるね」
……知らないわけがない。だって、他でもない帆沼さんからも同じ名前を聞いたばかりだったからだ。不思議な偶然に首を傾げ「詳しく聞いてもいいですか」と尋ねるオレに、檜山さんは言葉を続ける。
「ドン・キホーテは、騎士道物語を読み耽るあまり本の世界に取り込まれた。けれどそんな彼を正気に戻す為、彼の家族や友人は一計を案じて、彼の書を焼き書斎まで塗り潰したんだ」
「それは過激ですね。で、無事に治ったんですか?」
「いや、全然。むしろ彼はお供にサンチョーを携え、新たなる旅に出ることを決意してしまう」
ここで檜山さんは、声を立てて笑った。
「その人の全てといえるものを奪い去ったとしても、人そのものを変えることは困難だ。だからやっぱり、帆沼君の行動を変え、殺されなかった慎太郎君はよくやったんだよ」
「……」
ぽかんとしていると、くしゃくしゃと頭を撫でられる。なんだかまた泣きそうになりながらも、オレは堪えてかつて帆沼さんから与えられた議題を口にした。
「檜山さんは」
「うん?」
「……騎士道物語の世界にのめり込み、周りからは狂気に陥ったと言われたドン・キホーテを、幸せだったと思いますか?」
「ああ、いい質問だね」
彼の顔を見る。檜山さんは、唇に曲げた指をあてて楽しそうに考えていた。
「けれどこれはすぐに答えられるものじゃないな。正義感に裏打ちされた高潔な行動というものは、たとえ立派なものであってもその個人の幸福に帰結するかといえば否だからだ。そういう意味では彼は自身の幸福の追求よりも騎士道物語で得たその志の赴くままに動いたといえる。だが自分のしたいことをした、何者かになり得たという人類普遍の願いを叶えたという点では彼は幸福に他ならないだろう。とはいえこれはあくまで物語であり、それを作り上げた作者ミゲル・デ・セルバンテスの意図は無視できない視点である。ところで彼自身、この物語においては騎士道物語によく見られる手法をパロディして架空の作者を作り上げ、自分はあくまでその編集という立場を取ってるんだけど……」
「待って待って待って」
「まあ確かに今はそこはいいか。だけど話の本筋に戻る前に、君と僕との共通認識を整えておきたいと思う。この話は騎士道物語にのめり込む男をおもしろおかしく書いているけれど、その一方でドン・キホーテの紳士性、ハッとさせられるような聡明さに注目すべきだと僕は主張したい。特に興味深いのは後半に出てくる……」
……止まらなくなってしまった。オレなんで忘れてたんだろう、この人の本オタクっぷりを。
でも、目の前の檜山さんは身振り手振りを使って面白そうにドン・キホーテについて解説してくれている。それを見ていると次第に自分まで楽しくなってきて、なんだかようやく元の世界に戻ってきたのだと感じることができた。
オレの心の中心には、いつだってこの人がいる。幸せという言葉一つ取ってもこんなに認識が違うけど、それでも一緒にいたいなと思った。
――ふいに、帆沼さんはちゃんと食べてるかなと。そんなことが気になった。
ラ・マンチャの男は幸福なりや 完
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