2 一つになること

「!」


 バッとそこから飛び退く。ドアノブは、オレが触れる前に向こうから回されていた。

 鉄の塊が軋んで動く。隙間から顔を覗かせたのは、案の定の人だった。


「あれ、慎太郎。結構近くにいたんだな」

「……帆沼さん」

「起きたっぽかったから。水持ってきた」

「……水」

「そう。今度は何も入ってないよ」


 うっすらと笑みを浮かべながら、サイドテーブルにお盆を置く。何故か、コップは二つあった。


「……帆沼さんも飲むんですか?」

「うん。だめ?」

「だめとかじゃないですが……」

「じゃあ飲んで。あ、もしかしてジュースとかのが良かった?」

「そういうわけでは」

「だよね。俺も喉乾いてるんだ。ほら」


 そう促されても、こんな状況で「やったぁ」と飲めるわけがない。そこまで能天気じゃない。

 ドアに目をやる。重そうな鉄扉は既に閉まっていて、逃げようにも開ける間にすぐ帆沼さんに捕まってしまうように思えた。

 ……いや、捕まえられる、のか? だって、捕らえておく気なら、オレが寝てる間に拘束なり何なりしておくべきだったろうし。こうして自由にされてる時点で、何かズレている気がする。

 そもそも帆沼さんの目的は、一体何なんだ?


「……慎太郎」


 全ての行動に迷っていると、帆沼さんはずいと体を寄せてきた。


「どしたの。喉乾いてなくても水は飲まなきゃ、体壊すよ」

「……」

「……しょうがないな」


 帆沼さんがコップに口をつける。一口二口飲んでもう一つのコップにも手を伸ばし、それもしっかり飲んだ。


「ほら、俺も飲めた。変なのは入ってない」

「……」

「……だから、そんな怖い顔しないで。俺、慎太郎に嫌われてるかもって勘違いするよ」

「で、でも、帆沼さんが好きなのは檜山さんなんですよね? じゃあ、オレに嫌われても構わないんじゃ?」


 つい、変なことを言われたせいでそう返してしまった。しかもちょっと拗ねた恋人みたいに。

 いや、そういうつもりはないんだけど。

 でも帆沼さんも同じように感じたのか、オレの頭を優しく撫でてきた。


「……確かに俺は、慎太郎の言う通り、檜山サンを好きだよ。でも、だからといってお前を嫌うわけがない。愛してるよ」

「……確認ですけど、それって友情的な意味でですよね?」

「違う。俺は俺自身を愛するように、慎太郎を愛してる」

「ん、んんん?」


 どういうこと? 家族みたいにってこと?

 分からなくて首を捻っていると、帆沼さんは笑ってオレの手を取った。


「“すべての他者愛は自己愛の発展である。”……とある心理学者の論なんだけどね。つまり他の人を上手く愛せる人は、深く自分自身を愛してる人に他ならないんだ」


 そして、自然にベッドへと誘う。腰を下ろし、オレたちは向かい合わせになった。


「その点、俺は慎太郎を他人とは思えない。むしろ自分自身そのものだと思ってる。似た体質、似た感情、似た趣向、似た過去。……極めつけに、同じ人を愛している」

「……同じ?」

「そう、まるで同じ。……俺たちは、本当は一つの生き物なんだよ。ただ入れ物を別にしているだけの同じ魂……そんな相手を、嫌うわけがないだろ?」


 指が折れそうなほどに絡められた手は、熱い。それで、この人は本気で言っているのだと直感的に悟った。

 ――だけど、やっぱり分からない。オレには帆沼さんが何を言っているかが、全く理解できなかった。


「……一つになろう、慎太郎」


 それでも、帆沼さんは言う。


「そして、一緒に檜山サンを救うんだ。他でもない慎太郎とじゃなきゃ、俺の目的は成し遂げられない」

「す、救う……? 檜山さんを……?」

「うん」


 帆沼さんはオレから手を離し、自分の胸を押さえた。


「慎太郎も薄々勘付いてるだろ? 檜山サンは、とても辛く苦しい過去を背負った人なんだ。だから心に深い傷を負い、過去ごと己を恐れてしまっている」

「……」

「人によってつけられた傷は、人によって癒されるしかない。事実、俺や慎太郎の愛情で少しずつ檜山サンは治ってきてる。……でも、まだ足りないんだ。檜山サンが愛してる俺たちが……別の生き物のままじゃ」


 帆沼さんは、どこからともなく一枚の紙を差し出してきた。そこには、グラフやら数値やら外国語の単語やらがつらつらと並んでいた。


「これを見てみて。俺と慎太郎の血液検査による拒絶反応の有無についてなんだけど」

「え、血液検査?」

「そう。この間、慎太郎が俺の家に来て眠っちゃった時があったろ? あの時にちょっと採血して調べてみたんだけどさ」

「何してんですか!?」

「それはまあおいといて」


 おいとかないで欲しい。っていうかオレも注射針ぶっ刺されたなら気づけよ。変な寝言言ってないで。


「これによると、俺と慎太郎には拒絶反応の心配は無いようだ。良かったね。やっぱり俺達はただの他人なんかじゃなかったんだ」

「でも、なんでそんなことをしたんです? 拒絶反応の有無なんて、どういうわけが……」

「だからさっきから言ってるじゃん」


 帆沼さんは、おかしそうに首を傾けた。その拍子に、右目がチラリと覗く。

 息を飲む。彼の右目は、額から伸びた痛々しい裂傷痕に完全に潰されていたのだ。

 ……けれど傷への驚きも、到底次の彼の発言には及ばなかったと思う。


「一つにするんだよ。俺達の体を、手術で本当に一つにするんだ」

「……え?」


 ――言葉を聞き取ったはずの鼓膜が、痺れたようだった。信じがたい彼の目的に、少しずつ鼓動が大きくなってくる。

 彼は今、なんと言ったんだ?


「これは慎太郎が思ってるより物理的な話なんだよ。俺は臓器や部位のいくつかを切除する。そこに慎太郎から取り出した該当部を俺の体に移植する。そして手術が成功したら一つになった体で余った部分をちゃんと食べるんだ。分かるかな。俺らは同じ生き物だけど今はまだ別の入れ物に入ってる。だから俺と慎太郎の体にメスを入れて同じ入れ物に入れてやれば二人は一人になって檜山サンはわざわざ俺らを別々に愛する必要は無くなるんだ。それに慎太郎だって檜山サンに愛されたいよね。それもできるなら独り占めしたい。でも檜山サンは俺を愛してるから不可能だろ? だから俺と一つになって同一の人として檜山サンに愛される。一方で檜山サンは二人分の愛情を受けて大いに満たされ病んだ精神を癒されるんだ」


 ――脳が、理解を拒んでいる。拒絶しているのは、彼自身か、彼の論理か。分からない。何も分からない。

 この人は、本当にオレの知る帆沼呉一なのか。


「……ねぇ慎太郎。俺はね。俺達の愛は、きっとこの世の誰にも作り出せないほど、重くて深いものだと思うんだ」


 帆沼さんは、もう一度オレの手を取った。

 恐怖と混乱で冷たくなった手を、燃えるような熱が包みこむ。


「だからもし、その愛で檜山サンの全てを呑み込むことができるなら……それって、とても素敵なことだろ?」


 動けなくなったオレの目の前で、まるで夢のように現実感の無い言葉が零れていった。

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