6 誘拐未遂
――嫌な予感はあったのだ。まず、翌日には連絡が来るだろうと思っていた紫戸さんから、何の音沙汰も無かったこと。
「……もう一日、待ってみるか」
カレンダーを見て、檜山さんは呟いた。
「慎太郎君、つかさ君に変わった様子は無い?」
「特に無いようですね。引き続き、呪いの本を持って大和君を連れ回しているようです」
「そうか。なら明日になったら、僕から紫戸さんに連絡してみよう」
けれど、翌朝檜山さんが紫戸さんに電話をかけてみると、予想外の反応が返ってきたのである。
「……もう、必要無い?」
受話器を耳に当てたまま、檜山さんは目を見開いた。それから二、三言葉を交わしていたが、やがて彼はがっくりと肩を落とした。
「……ダメだ、取り合ってもくれない。どういうわけか、紫戸さんはあの本を売るつもりが無くなってしまったらしい」
「え、そうなんですか!? だって、一昨日はあれほど乗り気だったのに……!」
「本当にね。その理由について尋ねても、全く要領を得なかった。……何故だ?」
檜山さんはうつむき、唇に折り曲げた指を当てじっと考えている。一方、オレはシャボン玉が弾けるように一つの記憶を思い出した。
「そうだ、檜山さん。実はオレ、紫戸さんちから帰る時に黒コートの人が彼を訪ねてるのを見たんです」
「黒コート?」
「はい、そうです」
「……それ、もしかして麩美さんの事件の時に花屋にいた人と同じ?」
「え? あ……ち、違います。あの花屋のカメラに映ってた人よりも、細身だったと思います」
「……そうか」
檜山さんの指が右のこめかみに移る。人差し指と中指で強く押しながら、彼は目を細めて考えていた。
「……とにかく、僕らが彼の家を訪ねた時と状況が変わったことには間違いない。つかさ君はまだ本を持ってるんだよね?」
「はい」
「だったら、明日学校帰りに現世堂に来るよう伝えておいて。気になることがある」
「わかりました」
――だから、本来なら本を携えたつかさがここに来るはずだったのだ。けれど、現れたのは血相を変えた大和君と気絶した弟で。
「一度僕が傷の状態を見る。慎太郎君は救急車の手配を」
「はい!」
檜山さんの指示に返事をしながら、震える指でスマートフォンを操作する。こんな時に限って何度もタップミスをしてしまい、歯痒さに唇を噛んだ。
片や檜山さんは大和君を手招きし、カウンター奥の座敷につかさを寝かせるよう促している。弟は、並べた座布団の上にゆっくりと降ろされた。
「すいません、僕がついていたのにこんなことになって……!」
「気にするな、大和君。怪我人が出るぐらいなんだ、君がどうこうできた可能性は低い」
泣きそうな声の大和君を慰めながら、檜山さんはつかさの頭の傷を見ている。
「それより、まずは状況を説明してもらえるかな」
「はい。……今日、つかさが現世堂に行くって言い出して、でも僕は日直の仕事があったから現地集合することになったんです。それで、ここに来る途中の狭い交差点の所で……」
「歩蛇交差点だね」
「そうです。……そこを通りがかった時、ぐったりしたつかさが、マスクとサングラスをつけた人に無理矢理車に乗せられようとしていました。それで僕、もうわけわかんなくなって大声とか出して……。そうしたら、通り魔はつかさをその場に放り投げて、車で北の方に逃げて行ったんです」
「そうか。ナンバーは覚えてる?」
「み、見たけど隠されてました。でも車の種類は覚えてます。黒の軽バンです」
「そこまで記憶できていたら上等だよ。大和君、君は本当によくやった」
そう言って優しく肩を叩く檜山さんに、大和君はやっと人心地ついたらしい。色気のある垂れ目を潤ませて、何度も頷いていた。
つかさは、まだ目を覚さない。だけど下手に揺り動かすのも怖くて、オレは固唾を飲んで檜山さんの診断を見守っていた。
「……出血はしてるけど、傷はそんなに深くないと思う」
徐々に赤に染まるタオルを患部に押し当て、檜山さんは言う。
「ただ、頭の怪我は程度がわかりにくいからね。事件性もさることながら、病院と通報は必至だな」
「わかりました。では、警察にも連絡しときます」
「ああ、ありがとう慎太郎君」
それから……と彼は手を叩く。
「念の為、莉子さんに来てもらおう。僕の名前を出していいから」
「? はい、わかりました」
彼に言われた通り、警察に電話をかける。最初こそ少し怪訝な対応をされたけど、檜山さんの名前を出すとすぐに保留音が流れ始めた。
そして、丹波さんが出てくれるのを待つ間。
「つかさ……」
大和君の痛々しい声を背に、オレは爪が手のひらに食い込むぐらい拳を握りしめていた。
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