12 或る娘の読んだ遺稿

「あなた誰よ! 芥川様はどこ!?」

「お母さん、落ち着いて……」

「触らないでちょうだい! 私は芥川様に愛された女なのよ!? アンタみたいな女が易々と近づいていい存在ではないの!」


 私――麩美虎子の祖母・麩美善子は、私が物心ついた時から芥川龍之介に取り憑かれていた。いや、取り憑いていたと言うべきだろうか。

 芥川龍之介の情婦であったこと。それが祖母の矜持であり、自らを構成する全てであった。

 祖父は私の産まれる頃にはおらず、母に婿入りした父も早世した。そして母が死んだ今となっては、果たして祖母の訴えが真実だったかどうかなど分かりはしない。けれど、実の子の顔すら忘れてもなお、芥川龍之介に固執する祖母の姿は、私の目に凄まじくもおぞましいものとして映っていた。


「お母さん……」

「だからアンタは何なのよ!? 私に子供はいないわ!」

「……」


 母――麩美羊子は、祖母に愛されていなかった。故に母は、時間さえあれば祖母に愛されようとそればかりに躍起になっていたのである。


「お母さん、私、あなたの好きな料理を作ってみたの」


 ――時間をかけて作った料理を、見もせずに払い落とされても。


「お母さん、この景色とても綺麗じゃない? 一緒に行ってみましょうよ」


 ――美しい風景写真を、目の前で真っ二つに破られても。


「お母さん、愛してるわ」


 ――愛情のこもった言葉すら、奇声でかき消されても。


 それは、さながら幼い子供が母親にすがる姿のようだった。今思えば祖母も母も、どこか精神を病んでしまっていたのだろう。

 そしてこの時期、私が二人に愛された記憶もまた無い。当然だ、母は祖母の子供のままだったのだ。愛された記憶の無い子供が、母たる愛で別の子供を包み込めるわけがない。

 殺伐とした家だった。冷たい家庭だった。けれど、ある日突然それが一変する事態が起こったのである。


「……お母さん。私……蔵の中から、芥川先生が書いた小説を見つけたの……」


 骨と皮ばかりに痩せこけた母は、恐る恐る祖母に分厚い原稿を差し出した。祖母は芥川龍之介の名を聞くや否や、母の手から紙の束を引ったくった。

 祖母の血走った目が、文字を追う。一切の寝食もせず半日かけて一気に読み切り、そうして祖母は、母を近くに呼んだ。


「羊子」

「はい」

「これは……本物だわ。芥川様が、私に向けて書いてくださった恋愛小説に違いない」


 その言葉に、母は何度も頷いていた。すると祖母は、見たこともないような穏やかな笑みをもって、母の頭を撫でたのである。


「いい子……。よく、これを持ってきてくれたわね」


 初めて祖母に視線を向けられた母の目からは、大粒の涙が溢れていた。






 祖母は美しい桐箱に原稿をしまうと、それきりそれを一度も取り出すことはなかった。けれど箱は常に彼女と共にあった。眠る時も、食べる時も、出かける時も。しかし、そんな奇怪な行動も以前の祖母の行動に比べれば些細なことだった為、誰も何も言わなかったのである。


「虎子、いいこと? あれは間違いなく、芥川龍之介先生の遺稿なのよ」


 私は、以前より母との会話が増えていた。だが母は、いつだってあの原稿が他に暴露されることに怯えていた。


「だけど、絶対に他の人に言ってはならないからね。何故ならおばあちゃんにとっては、あの原稿が心の柱なんだから。けれど芥川龍之介先生は大文豪だから、未発表の遺稿があると知られれば必ず他の人に取り上げられてしまう。そうなれば、おばあちゃんは明日にでも命を失ってしまうかもしれない」


 そして最後に、私の唇に強く人差し指を押し当てるのだ。


「お前も、おばあちゃんの前であの原稿の話をしちゃいけない。間違っても、見せてだなんて言うんじゃないよ」


 母を恐ろしく感じていた私は、黙って了承した。

 だから私は、祖母と母が死ぬまで、この桐の箱を開けたことはなかったのである。

 ――そんな母の死が、私に凶暴な衝動が生まれた日と重なってしまったのは、果たして偶然だったのだろうか。

 一ヶ月前のこと。長く私と愛し合った男は、家庭があるから決して私と一緒にはなれないと言い放った。

 許せなかった。信じられなかった。あれほど私を愛していたと言っていたのは、都合のいい嘘だったのだ。

 偽りの愛で、私の時間を失わせた彼の罪は大きい。自分でもコントロールできないほどに怒り狂った私は、報復に男を殺そうと思い至ったのである。


「……人を殺す方法ですか」


 そうして相談した先が、“彼”だったのである。原稿の散らばった部屋で、アッシュグレーの髪の彼はつまらなそうに私の話を聞いていた。

 私は、彼の書く作品のファンだった。以前とある雑誌の取材でスケジュールがかぶった際に、しつこく連絡先をねだり交換させてもらったほどに。

 ……何故そんな薄い関係の彼に、こんな話をしたのかはわからない。だけど、もはや彼以外に私の壊れた箱を見せられる人もいなかったのだ。


「であれば……一冊、面白い本があります」


 彼は、私に真っ黒な本を差し出した。受け取った本の重みは相当なもので、私は落とさないよう腕に力を込めながら、表紙に埋め込まれた黒い石を見つめていた。


「貴女なら、それを読めるでしょう」


 その本は、殺人指南書のような本だった。


「どうぞ、読んでその本に取り込まれてみてください。そうすれば、貴女はきっと目的を果たすことができる。……そこに書かれている古書店は……そうですね。ちょうど貴女の家からもほど近い場所にある、“現世堂”がいいでしょう」


 ……分からなかった。何故、私の為に作られたような殺人手段がここに書かれてあるのか。何故、これほどまでにこの計画は私の心を掴んで離さないのか。

 しかし私は考えることを放棄した。私は、この本の主人公になりきって役を進めればいいだけなのだから。

 誰も私を愛さない世界になど未練はない。それよりも、この本の中の主人公のように陶酔的な破滅に身を任せていたかったのだ。


「……それならば、何故古書店に鑑定してもらう本としてあの原稿を選んだのです」


 ――思考が現実に帰ってくる。醜い火傷痕を引き攣らせた目の前の男は、私に問いかけた。


「他の本でも良かったはずでしょう。貴女の立場を鑑みれば、あの原稿よりも明らかに価値のある本だって持っていたはずです」

「……」

「にも関わらず、貴女はこの原稿を選んだ。そして、何度も本物だと主張することを決めたのです。……それは、一体何故でしょう」

「……別に深い理由は無いわ。ただ原稿を読んでみて、本物だと思っただけで」

「果たして本当にそうでしょうか? そもそも、貴女は全く例の原稿を目にしていないのでは?」

「ッ!? ど、どうしてそれを……!」

「……あれほど露骨にされたら、小生とてわかりますよ」


 私の手を取り、傷跡を見ながら彼はため息をつく。


「そもそもこの傷も、原稿を見せられようとした貴女が手で払いのけた際についた傷です。加えて、原稿に挟まれていたメモにすら気づかなかった点。……どれもこれも、貴女が原稿を忌避していると察するには十分でした」

「あ……」

「なのに貴女は、それほどまでに目を背けるこの原稿を本物だと主張する。……その理由は、何なのでしょう」


 男の声が耳に落ちていく。優しげな声なのに、今の私には死刑宣告も同義に思えた。

 言わないで。どうかその先は言わないでほしい。


 私の壊れた桐の箱を、こじ開けないでくれ。


「――思うに、理由は二つ。一つは、読んで芥川龍之介龍之介の書いたものではないと認識するのを恐れた為。……そしてもう一つは、お母様の書いた小説を読むこと自体を避けたかった為です」

「あ、あ……」

「……本当は、とっくにお気づきだったのではないですか。この小説は、芥川龍之介が遺したものではない。貴女のお母様が書いたものだと」

「あ、あああ……!」


 ――体が震える。手に力が入らなくなる。男から流れてくる言葉を、私では止める事ができない。


「小説とは、個人の想像力と思想の権化。つまりこの小説を読むことは、貴女のお母様の心の一部を読むことになる。……貴女には、それがどうしてもできなかった」

「ああああああ……!」

「だから小説は、絶対に芥川龍之介のものでなければならなかったのです。偽物であると認めてしまえば、その瞬間からこの小説は芥川龍之介ではなく、貴女のお母様のものとなってしまう。故に貴女は、貴女自身を守る為に、芥川龍之介の遺稿を肯定せざるを得なかったのです」

「あああああああ!!」


 私は頭を抱え、床に伏した。

 ……そうだ。そうだったのだ。

 私は気づいていた。あれが芥川龍之介の遺稿でも何でもないことに。母が書いたものだということに。

 ああ、でも、ならば他にどうすればよかったというのだろう。

 私は家族が欲しかった。芥川龍之介の遺稿なんて無くても成り立つような、真の愛情に裏打ちされた家族が。だけど叶わないのなら、せめて原稿の上に成り立つ茶番を続けていたかったのだ。

 彼女らに愛されたかった。愛されたくてたまらなかった。そしてそう思うのと同じくらい、私は彼女らを愛していたのである。

 けれど母の書いたものと知って原稿を読めば、目を逸らしていた真実を知ってしまうかもしれない。どんな恨みが私や祖母に向けられている? どんな怨念が渦巻いている? 妥協を重ねてやっと家族として成り立たせてきたというのに、今更海より深い失望を突きつけられるのが恐ろしくてたまらなかったのだ。

 母がかつて、私に向けてくれた笑みが。繋いでくれた手が。全て、おぞましい何かに変わる気がして。


「……見えないものは、恐ろしいものです」


 しかしこの男は、まだ私の手を離さなかったのである。


「姿無きものは頭の中で膨れ上がり、不気味な牙や爪を剥き出しにします。空想は、化物の姿を肥大化させるのです。……ですが」


 男は、私の前に原稿を置いた。


「“化物の正体見たり枯れ尾花”――これは横井也有の句ですがね。案外、目を開いて見てみれば、正体は何でもないのかもしれませんよ」

「は……」


 男の顔を見上げる。彼は、不器用に顔を引き攣らせて私に微笑んでいた。


「試しに、今から簡単にこちらの小説のあらすじを説明してみましょうか」

「え?」

「何、鑑定結果の一つとしてお聞きください。……ある女学生が、一人の作家に恋をしました。けれど見目麗しきその作家を、周りが放っておくはずもない。そしてそれは、愛らしき女学生もまた同様でした……」

「……」


 古本屋の店主が紡ぐ物語の内容は、どこにでもある陳腐なラブストーリーだった。だけどしばらくそれを聞いていた私は、ふと気づけば原稿を手にしていたのである。

 手の震えを抑えながら、最初の数行を読んでみる。それから思い立ち、パラパラと紙を繰る。前半は芥川龍之介の字を真似ているようだったが、後半はそれも疲れたのかすっかり母の字になっていた。

 読みにくい文章だった。すぐに誤字も見つけた。だけど読んでいくに従って、少し心が動いたシーンもあった。

 多分、この女学生とは祖母のことなのだろう。そしてきっと、女学生と作家の間に生まれた娘も、母のことだ。

 飛ばしながら読み進めて、とうとう最後の一枚。幸せに暮らし続けた女学生は、夫と娘と孫に囲まれて静かに目を閉じ、この世を去った。


「……」


 何でもない話だった。芥川龍之介とまでは流石にいかないが、初めて書いたにしては上出来じゃないかなとも思った。

 私の恐れていた怨念や幻滅は、一つとて無かった。あったのは、読んでいて恥ずかしくなるほどの母の願望と祖母の夢だけで。

 それは本当に、何でもない物語だったのだ。


「……母さん」


 原稿に、ぽたりと涙が落ちる。ああ汚れてしまうなと思ったが、それはとめどなく溢れ、自分ではどうにも止めることができなかった。


「……芥川龍之介を名乗るには……字……間違えすぎじゃないかしら……」


 私の手の中の紙束は、やっと母の遺稿へと姿を変えていた。

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