10 アリバイ崩し

「私の罪? 何のことか分からないわ。夢を見ているのでは貴方のほうではなくて?」


 しかし麩美さんは少しも動揺したふうでなく、余裕の笑みを浮かべている。


「確かに最近、私はとある事件の容疑者の一人として名前が上がりましたわ。ですが、完璧なアリバイがあってすぐに容疑は晴れたんですの。……それは貴方もご存知でしょう?」

「ええ。堂尾洋氏が殺された時間、貴女はここ現世堂にいらっしゃった」


 檜山さんは、しっかりと頷いた。


「ですが、そのアリバイは実にありふれた手法で崩すことができるのです」

「ありふれた手法?」

「そう。……鍵になるのは、こちらです」


 檜山さんの手が、机の下に伸ばされる。隠れていたオレは、慌てて檜山さんに鉄パイプを手渡した。

 ……本当はオレも、ドラマで見る探偵の助手みたいに檜山さんの隣に立っていたかった。でもそれは彼に止められてしまったのである。

 曰く、「普通に危ない」と。

 もうぐうの音も出なかった。そうだよね。

 よってオレはカウンターの下に隠れつつ、こうして店内に備え付けられた監視カメラの映像をタブレットで確認しているというわけだ。


「この鉄パイプに見覚えはありませんか? 事件現場となった部屋の真下に落ちていたものなのですが」

「……知るわけがないわ」

「そうですか」


 檜山さんは、カウンターに一枚の写真を差し出した。それは、被害者が縛り付けられていた磔台だった。その一部分を指差し、彼は言う。


「台の側面の部分……ここをよくご覧ください。何か擦れたような跡が残っているでしょう」

「縄じゃないの? 殺される時に暴れたのなら、それぐらい残るでしょう」

「いいえ、縄ではこうはなりません。台と同じく、金属のような硬いもの――例えば、鉄パイプなどでなければ」


 見せつけるように、檜山さんは鉄パイプにもたれかかっていた。


「もしもですよ。こちはの鉄パイプが、最初から台に取り付けられていたとしたらどうでしょう」

「……どういう意味?」

「つまり、最初はこういう状態だったのではないかと考えたのです」


 檜山さんがまたカウンターの下に手を差し入れてくる。オレはその手に、とある図を描いた紙を握らせた。

 台に、立てた鉄パイプが括り付けられている。更にその先には別の棒が結ばれており、まるで点滴台のように水の入ったビニール袋が吊り下げられていた。


「……何、これ」

「加えて、被害者は当時このような状況になっていた」


 次の紙を差し出す。そこに描かれていたのは、全身を台に縛り付けられ、顔に何重もの大きなティッシュを乗せられた被害者の姿だった。


「……犯人は被害者を台に磔にした後、その顔にティッシュを被せた。もっとも、ティッシュだけでは軽いので、実際は更にタオルを重ねるなどしたのかもしれません。とにかくそうして準備を終えた犯人は、ビニール袋に小さな穴を開けてこの場を去った」

「……何のために?」

「勿論、被害者をじわじわと窒息死させる為にです」


 檜山さんは、箱から一枚ティッシュを引き抜いて見せた。


「濡れた布で口や鼻を覆えば、通気抵抗が多くなり息ができなくなる。それが繊維の細かいティッシュであれば尚更。犯人は、小さな穴を開けた水の入った袋を使って少しずつティッシュを濡らし、被害者の気道を塞ぐことで、時間をかけてその命を奪おうとしたのです」

「暴論ね。濡らしたティッシュぐらい、健康な成人男性であればすぐに払い落とせるでしょう」

「だから磔にしたのですよ。ご丁寧に、特殊な開口器を使ってまで」

「……」

「どうです。これなら、誰でも離れながらにして被害者を窒息させることができるでしょう」


 カウンターに肘をつき、静かに言ってのける檜山さんである。しかしそんな彼に対し、まだ麩美さんは平常だった。


「……そうですね。確かにそれが正しいのであれば、私のアリバイは崩れるかもしれません」

「ええ」

「ですが、呼び出して磔にして、挙げ句の果て顔にティッシュを乗せたですって? 突然ホテルに呼び出されてそんなことをされようものなら、私ならすぐに逃げ出しますわよ。加えて私は、見ての通りの非力な女です。暴れて抵抗されたら、あっという間に返り討ちですわ」

「ところが、それが自然な流れで成り立つ方法があるんですよ」

「え?」

「これは、小生としてもあまり明言したくはないのですが……」


 カウンターの下に手が伸びてきて、オレに耳を塞いでいるよう指示が出る。でも、オレは二十歳の大人なので無視することにした。

 そして一呼吸おいて、檜山さんは続きを口にする。


「SMプレイ。貴女方は、事件の前日からそういった行為に興じていたのではないですか?」

「……」

「肉体的苦痛や精神的な責めでもって、サディスト側がマゾヒスト側を支配する。……恐らくは、貴女がS側で被害者がM側だったのでしょうね。元より脳が肥大し集団行動を覚えた動物は、被支配側となることに一種の安堵を覚えるようにできています。何故なら思考を放棄し、絶対的な主人の命令だけを従順に実行していれば良いのですからね。かつ、適度な拘束や制限は、作られた世界への没頭を促します。加えて快楽も与えられるとなれば、ハマる人は大いにハマるのでしょう」

「……私は、貴方の悪趣味な考察を聞きに来たのではなくてよ」

「おや、失礼。つまり小生が言いたかったのは、もし貴女と被害者の間に完全なる主従関係が出来上がっていたと仮定すれば、あの異様な状況も自然に作り出せたのではないかということです」


 監視カメラ越しに、麩美さんの顔が不愉快そうに歪むのがわかった。けれど、そんな些細な変化ごときで檜山さんが推理を止めるはずもない。


「事実、被害者の体からは微量の薬物が検出されました。一般的には媚薬と呼ばれるものでしょうが……同じものが、彼の自宅から発見されています。常用されていたのでしょうかね。ちなみにこれには、催眠作用があることも確認されています。もし前日から一日中行為をしていたのなら、被害者が例の拘束放置プレイに移った後にうたた寝をしても、何ら不思議ではありません」

「……」

「……まあ、なんとも下世話極まりない推測で恐縮なのですが」


 檜山さんは、静かにそう付け加えた。

 ――いっそ破滅的なほど極端な主従関係は、自然と一方が無防備な状態に陥ってしまうようできている。けれどその背景には、ある種の信頼関係が無いと成立しない。

 檜山さんがかつて言ったことを思い出す。でも、そうだとしたら、被害者の人はその信頼関係を利用されて殺されたというのだろうか。

 ……それは、あまりにも悲しい話だ。

 一方麩美さんは、さっきとは違って恐ろしく冷たい目をしている。それでも冷静に、「要するに」と持っていた扇子を開いて口元を隠した。


「私が、被害者の方にSMプレイと称して過剰なまでの拘束をした。そして身動きを取れなくしてから殺したと、そう言いたいのですね」

「ええ、小生はそう考えています」

「聞く分には興味深いご推察ですわ。……貴女の言葉の通りでしたら、私は現世堂に来る一日前から廃ホテルに潜んでいたことになる」

「はい。そして被害者を呼び出し、その晩を共に過ごした」

「あくる日私は彼を拘束し、窒息死の時限爆弾を仕掛けたのですわね」

「そう。それから家に帰り、着替えたのです。現世堂に行く為のヨソイキのドレスに」

「でも、それが真実だったとして貴方に証明できて? 例えば、事件当日のマンションのカメラに、のこのこと帰ってくる私が映っていたとでもいうのかしら」

「……いえ。それらしき人はいましたが、特定には至っておりません」

「あらまあ。だとしたら、その説は貴方のご想像の域を出ないわね」


 ここで、麩美さんは声を立てて笑った。


「言っておくけど、私は警察に協力する気なんてさらさらございませんことよ。身柄拘束も、家宅捜索も許しません。どうしてもというなら、令状を持ってきていただかないと」

「……」

「でも裁判所は認めないでしょうね。アリバイ崩しもそれを実現する前提も、全て一人の男による失礼極まりない妄想に過ぎない。確固たる証拠が何一つ無いんですもの」

「……そうですね。確かに、現段階では直接犯人に繋がる証拠はありません。……ですが」


 檜山さんは落ち着き払っている。それから姿勢を正すと、麩美さんに向かって左手の人差し指を立てた。


「――その様子だとお気づきでないのでしょう。貴女は、たった一つだけミスを犯しています」


 麩美さんの笑みが、引っ込んだ。


「それを今からご説明します。どうぞ、しばしご傾聴くださいませ」

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