六話:桃原心愛の追憶②――去年の夏休みのこと――
高校生で初めての夏休み。数分立っているだけで汗が滲んでくるようなとある日の午前十時のこと。私は初めて訪れる喫茶店の入り口で、首輪に繋がれた柴犬の前で立ち往生していた。
「ほらほら。撫でてあげて」
目の前には満面の笑みを浮かべる女の子がいて、柴犬の頭を撫でている。柴犬が気持ちよさそうに目を細めながら『くぅ~ん』と可愛らしく喉を鳴らしている。
女の子の名前は篠崎さくらさん。Tシャツとチュールスカートが良く似合っている。篠崎さんは隣のクラスの女子で、夏休み前に知り合った。この日、篠崎さんがお気に入りの喫茶店を紹介してくれるということでこの場所を訪れることになった。
「え……で、でも…………」
「この子はマスターの犬で『みるく』って名前なの。人懐こくて絶対に噛んだりしないよ。名前的にも
篠崎さんと初めて話したのが七月の初め。知り合ってから一ヶ月前しか経っていないけど、そういうノリもなんとなくわかってきた。
「え……う、うん」
篠崎さんを一言で言うなら向日葵みたいに笑う明るい女子だ。笑顔がとても眩しくて、見ているこっちが嬉しくなるような顔で笑いかけてくれる。気が利いて茶目っ気もある篠崎さんは浮いた噂もなくて、男女問わず人気がある。それなのにどうして私みたいなのと一緒にいてくれるんだろうって不思議に思う。でも、それを言ったら『私の友達を馬鹿にしないで』って怒られたので、思うだけにしている。
(吠えたり噛んだりしないかな)
おそるおそる手を伸ばす。犬も猫も飼ったことがないので少し怖い。だけど、私の心配は杞憂に終わった。
「うわぁ……可愛い」
「でしょ? 心愛のことも絶対に気に入ると思ったの。ほら、尻尾振ってるでしょ? これって喜んでるらしいよ」
尻尾が左右にふるふると揺れている。少しだけ気を大きくした私はみるくの頭に触れた。そのまま撫でてみる。
「くぅーん」
勘違いなら恥ずかしいけど、『もっと撫でて』って言ってるような気がした。
「本当に可愛いね」
自然と口元に笑みが浮かんだ。
「そうでしょ?」
篠崎さんの笑顔がすぐ隣にあった。
「わわっ……⁉」
いつの間にか吐息が聞こえそうな距離に篠崎さんがいた。私はこういう距離感に馴れていなくてびっくりして、思わず後ろに倒れそうになった。そしたら、篠崎さんが抱き寄せて支えてくれた。さっきよりも顔が近くなってますます気恥ずかしくなる。
「心愛ってば危なっかしい」
「う、うん…………ごめん」
「気を付けて。私に抱き締めてほしかったら倒れてもいいけどね?」
篠崎さんが意地悪そうに笑う。こうやって悪戯っぽいところも人気の秘訣なんだろうなあ。
「ご、ごめんね……篠崎さん」
「こらっ。また私のこと篠崎さんて呼んだ。ちゃんとさくらって呼びなさ~い」
篠崎さんが冗談めいた口調で囁いて、私の背中にひっついた。
「わ、わわっ……」
「さくらって呼ぶまで離さない」
篠崎さんのしなやかな腕が私のお腹に回ってくる。
「ち、ちょっと待って…………き、今日熱いし…………私、汗臭いかも、だから」
「それ……匂いを確かめてっていうフリ?」
「ち、違うよ……‼」
全力で否定する。だけど、そんなことはお構いなしに篠崎さんは密着してくる。
「わ、あわわっ…………⁉」
「放してほしいなら、さくらって呼んで」
背中に篠崎さんの胸があたってる。同性なのにドキドキする。そんな私に追い打ちをかけるみたいに篠崎さんが私の首筋に息を吹きかけた。
「~~~~っ」
女の子同士のスキンシップってすごい。これが普通なら私にはハードルが高すぎる。
「ねえ、聞いてる?」
耳元で囁かれる。顔が逆上せたみたいに顔が熱くなって頭がぼうっとする。
「ううっ~~~~~」
「あら、ごめん。ちょっとやり過ぎたかな。怒らないで?」
篠崎さんが少し気まずそうに頬を掻く。
「ううん。怒ってない。嫌とかでもなくて…………ただ、慣れてなくて」
ちょっと涙目にはなったけど、今みたく篠崎さんと触れ合うのが嫌なわけじゃない。ただ、慣れてなくてどうしても赤面してしまうのだ。
「それなら、よかった。本気で嫌だったら言ってね。友達を困らせたくないから」
篠崎さんが私を解放して、笑いながら
「ね、ねえ……名前で呼ばないと呆れる?」
気づいたら尋ねていた。変な質問だと自分でも思ったので俯いてしまった。だけど、そうしていたら頬を軽く摘まれた。
「そんなことない。心愛のペースでいいの。ちょっとふざけただけだから」
篠崎さんが手を離して、優しい声でそう言ってくれた。その言葉で私がどれだけ安心したか、篠崎さんと一緒にいられてどれだけ嬉しいか。言葉で言い表すのは難しい。
「あ、あの……ありがとう」
「友達だから。それくらいで呆れたりしないよ。心愛のこと好きだしね」
篠崎さんは結構な頻度で冗談を言うし、私をからかう。でも、大切なことはごまかしたりしない。知り合って間もないけど、私は篠崎さんがそういう人間だと知っている。でも、だからこそなんて答えていいのかわからない時もある。今もそう。好きって言ってくれて嬉しい。でも、私なんかじゃ篠崎さんの隣にいるのはふさわしくないし、私には篠崎さんに好いてもらえるような理由がない。
でも、それでもいい。篠崎さんが一緒にいてくれるのが嬉しい。篠崎さんもそうであってほしいと思う。こんなふうに思うのはおこがましいのかもしれないけど。そんなことを考えていると、
「今度は何を考えてるの?」
篠崎さんが心配そうに顔を寄せてきた。
(うわっ、近くで見ても綺麗……じゃなくて、近い……近いってば‼)
篠崎さんが一緒にいてくれることが嬉しくて、だけどその距離感が恥ずかしくて、私はいつもドキドキさせられっぱなしだ。
「ちょ、ちょっと考え事してただけ。なんでもないの……今日、一緒に来れてよかった」
「今からお店は入るのに? ここはコーヒーが絶品よ。あ、心愛って苦いの駄目だったよね?」
私はコーヒーが苦手だ。というよりも苦い物全般が駄目だった。
「一杯だけは飲んでみてほしいかな。明子ばあちゃんのお気に入りのコーヒー」
明子。その名前を私は知っている。篠崎さんが親しくしているおばあちゃんの名前だった。篠崎さんが尊敬していて敬愛していて大好きな人。二人でデートに行くことも多いのだとか。篠崎さんは普段から明るいけど、明子さんの話題になると
「明子さんのお気に入りなら飲んでみようかな」
私が言うと篠崎さんが弾けるように笑った。
「さすが心愛。うん。飲んでみて‼ じゃあ、行こっか‼」
篠崎さんに手を引かれながら私は喫茶店に入った。
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