二話 起床して麦茶、猫にはキャットフード


 布団から起き上がる。そのまま立ち上がって冷蔵庫から一ℓ九十九円の麦茶を取り出してコップに注ぎ、口内へ流し込む。



 朝一の冷えた麦茶は最高だ。寝起きの乾いた体に染み渡っていく。喉を潤したおりなし優太ゆうたは流し台で顔を洗うと頬を叩いて意識を賦活させた。



 朝は苦手だ。いつまでも眠っていたいし一日中毛布に包まれていたい。


 

 四年制の専門学校を卒業してから霊能力者という仕事を始めて三年経過しているが今でも朝には弱い。しかし、時間は優太を待たない。欠伸しながら青いワイシャツと黒いズボンを着用してネット通販で購入した白衣を羽織ると姿見をチェックする。ぽっちゃり体型の可もなく不可もない顔立ちの男が映っている。



「寝癖はなし。シャツも白衣もアイロンしてあるし、ハンカチも持った」



 寝ぼけた頭でも、白衣を羽織ると『さあ仕事だ』という気持ちが目を覚ます。優太は霊能力者だが、白衣を仕事着にした理由の一つはそれであり純粋に白衣がかっこいいので愛用していた。



「今日の訪問先は――」

「みゃあ」



 スマホのカレンダーアプリを開いた時、足元から濁声。



「みゃあ」

「わかってるよ。ごはんでしょ?」



 赤茶色模様のデブ猫が優太を見上げていた。お世辞にも美形とは言えない相貌でいかにも気怠そうな瞳をしている。ずんぐりむっくりな体型も相まって穀潰しという表現が似合いすぎる。デブ猫の名前はドブ。名付け親は元々の飼い主であり優太ではないのだがドブ自身は気に入っているようだ。ちなみに飼い主に直接尋ねたことはないが蔑称ではないらしい。



「みゃあ」



 優太は買い置きのキャットフードを餌箱に入れた。すると、先ほどまでは活力を失っていた瞳が爛々と輝き、『キャットフードは飲み物だ』とでも言いたげなペースで平らげていく。勿論、食事を与えていないわけではない。むしろ毎回おかわりをせがんでいるくらいである。



「いつも美味そうに食べるよなぁ」



 その食いっぷりに『さぞかし美味いのだろう』と試食したことがあるのだが、香りがきつい無味のスナック菓子のような味だった。猫の味覚というのはよくわからない。そういえば彼らは鼠や昆虫を調理せずにバリバリと食べる。しかし、食事が美味いというのは大切なことだ。



「みゃあ」



 あっという間に餌箱を空っぽにしたドブが美味そうに口の周りを舐めた。



「おいしかった?」

「みゃあ~~」

「……っ」



 ドブが満足げに目を細めながら甘い声を発して、その挙動に優太の頬が緩む。



(食べ終わった時のドブは純粋に可愛いんだよなぁ)



 それはまるで蕩けてしまいそうな満足顔。猫好きな優太にはたまらない顔だった。キャットフード生産工場の従業員もこれだけ美味そうに食べる猫がいると知れば作り甲斐を感じることだろう。


 さらに、食後のドブは上機嫌になり警戒心も薄まる。普段は触れようとすると嫌そうに避けられるのだが自ら擦り寄ってくることもある。



「みゃあ」



 なんと、その日もドブのほうから近づいてきた。優太は思わず嬉しくなり手を伸ばしたのだが、それに気づいたドブが慌てて後退した。『は? お前、なんで触ろうとした?』とでも言いたげな顔だった。



「駄目ってこと?」

「みゃあ」



 まるで返事をするようなタイミングでそっぽ向かれた。


 ご無体な。


 猫らしいと言えばそれまでだがドブは気分屋である。悪戯心にも富んでおり優太を振り回すのが得意だ。しかし、優太はドブのそういう性格が好きだった。身勝手で自由気ままだからこそ、たまに見せる無邪気な仕草が際立つのだ。この感覚は猫好きの常識だと優太は考えている。



「わかった。そろそろ出かけようか?」

「みゃあ」



 頭と頬を撫でてたぷたぷのお腹を弄り回したいというのが本音だった。居眠り中のドブを起こす際には触れるのだが、その触り心地は格別なのだ。しかし、起きている間は煙たがられて噛みつかれることもある。たまに飼い主として自信を失うこともあるが、ドブのそういう掴めない部分も気に入っている。そのドブが尻尾を左右にふりふりしながらドアに向かっている。



「ところで、やっぱり日本語わかってるよね?」

「…………」



 ドブは大きな欠伸をかましたが、答えなかった。ドブは見た目通りのデブ猫だが猫又と呼ばれる半妖であり、優太の言語や意図を理解しているような節がある。これまで何度もそういう立ち回りを見せてきた。猫と具体的な意思疎通ができるというのは猫好きにとって夢みたいな話だと思う。面と向かって尋ねても無視されるので未だ確信が持てないのだが。



「おっと、忘れるとこだった。右足出して」

「みゃあ」



 ドブが右前足をしっかりと伸ばす。



(やっぱわかってるよなぁ)



 そんなことを考えつつ、とある術式を込めた小さな数珠をドブの右前足に巻き付ける。この数珠は保険であり一種の奥の手だ。これまで滅多に使用したことはないが何事も用心するに越したことはない。



「よし、じゃあ行こうか」

「みゃあ」



 玄関のドアを開ける。隣にはドブがいる。こうして今日も、織成優太の一日が始まる。

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