母さんとお家旅行(前編)

 休みというものは人間にとって非常に大切なものだ。弓の弦がずっと張りつめ過ぎると切れやすくなってしまうように、人間もまた適度に緊張の糸を解き、ゆったりとした休息の時間を。自分の趣味に没頭する時間を。遊びの時間を設けなければならないと私は思っている。

 その信念のもと、いつもは仕事人間な私も……夏の長期休暇の時期になると毎年すべての仕事を忘れ投げ出して全力で休暇を満喫している。言うまでも無く、私のただ一人の愛娘―――ヒメと共に。


 普段は母子家庭故に他の家庭に比べると触れ合う時間が中々取れない分、私とヒメの休みが重なる夏休みはとても貴重だ。大事な娘との思い出作りの為、そして普段構ってあげられない分の埋め合わせをするように。夏の休みになるとヒメと共に色んな場所へ楽しく旅行するのが我が家のルールとなっている。

 一昨年は北海道へ避暑に向かい、去年は沖縄で夏の海を楽しんだ。今年は思い切って奮発し私もヒメも初めての海外旅行へ!海を渡る―――はずだった。綿密に計画を立て、半年前からしっかり準備を重ね……特別に私がデザインをした水着をヒメに着て貰い、海外の海を満喫するはずだった。


 だが、だがしかし。非常に残念な事に……今年の夏はそうも言っていられない事態になってしまったのである。


「―――すまん、すまんよヒメぇ……」

「……いや、あの。別にこれ母さんが謝る事ではなくない?」

「でも……でもな!?ヒメだって楽しみにしてただろ……!?」

「……んー。それはまあ、楽しみだったけど」

「だろっ!?そうだろ!?ああ、本当にゴメンよぉヒメ……かーちゃんの一存でヒメをガッカリさせちゃう事になるだなんて……」


 楽しい楽しい夏休みの初日。本来ならば今頃飛行機に乗り雲の上にいるはずの私は……いつもと変わらぬ自宅で、最愛の娘に平謝りをしていた。

 それというのも……


「……母さんのせいじゃないってば。仕方ないよ。この状況で海外旅行するのは、ちょっと怖いもん。ホラ母さん。今もちょうどニュースあってるよ」


『それでは次のニュースです。現在海外で行われている大規模デモ。現地にいる記者がお送りいたします』


 ヒメの視線を追いかけると付けっぱなしのテレビが見える。画面の奥からニュースキャスターのこんな声が響き渡っていた。


『奥園さん。現在のデモの様子はどうでしょうか』

『はい。現地より奥園です。先週より始まった労働法改正に対する抗議デモは、一週間が過ぎた今も鎮静化する動きは見られておりません。政府・経営者たちへの労働者たちの不満は大きく、抗議行動は全土に広がっており予断を許さない状況が続いております』


 海外の大規模デモに関するニュースが流れていく。海の向こうのとある国の国内デモの様子が映し出されていた。日本住んでいる限り自分たちにはほとんど関わりがないような海外のデモのニュース。だからいつもなら大して気にするようなニュースではないんだが……


「…………まさか、滞在予定していた国でこんな大規模デモが始まるなんてな……」

「……タイミング悪すぎだよねー」


 問題は。そのデモが行われている国が、私とヒメの初めての海外旅行の目的地だって事だ。パスポートも用意し、プランもしっかり立て、会社から途中で呼びだされないように目下あった仕事もすべて片づけて……準備万端だったというのに。よりにもよって一週間前から始まったこのデモ。きっとすぐに治まるだろうと淡い期待を寄せていたけれども……出発当日になってもこの騒動は治まる気配は見られなかった。

 ……治安自体は悪くない観光地ではあるわけだし、出国制限がされているわけでもない。気にしなければ今回の旅行だって強行できたかもしれない。……しかしニュースで流れる映像を見ただけでも伝わってくる現地の切迫した空気や、空港もストライキのせいで一部の便が運航を停止しているという情報を鑑みると。


「この埋め合わせは、必ずする……だ、だからヒメ……今回の旅行は……どうか勘弁しておくれ……」


 やはりここは大事な娘を危険な場所に行かせたくないという親心の方が勝ってしまい……断腸の思いで今回のヒメとの旅行を当日キャンセルした次第だ。


「……だからいいって。残念ではあるけど、この状況だと無理して旅行行っても楽しくなさそうだもん。私も、母さんが変な事件に巻き込まれちゃったりしたら困るし……」

「ヒメ……」


 期待を持たせギリギリまで待った上での当日キャンセル。物わかりの良い優しいヒメはあっさりと初めての海外旅行の中止を受け入れてくれた。……けれど、内心はきっと相当ガッカリしているに違いない。心の中ではわだかまりが残っていることだろう。

 くそぅ……なんだってこんな時期にデモなんかおっぱじめやがったんだ畜生め……恨むぞ……呪うぞ……


「……確かに折角母さんのデザインしてくれた水着を着れなくなった事はちょっと悔しい。でもまあ、これは別の機会に大事に取っておく。とりあえず、荷物片づけよっか」

「に、荷造り折角したのに勿体ないよな…………い、今から……国内でどっか別のところに行くって手もあるけど……」

「……難しいんじゃない?夏休みのこの時期に予約もなしで旅行って……どの旅館もホテルも空いてないと思う」

「だ、だよなぁ……」


 ヒメの言う通り、きっと今はどこも予約でいっぱいだろう。つまり……今年の夏は海外どころか事実上国内旅行すら厳しいって事になるわけで。

 そう考えたらやはり今回の海外旅行、キャンセルすべきではなかったのかもしれない。いくら大事なヒメを危険にさらしたくないとはいえ、そのヒメを悲しませるようでは母親失格じゃないか私……


「……大丈夫だから。母さんが私の事を大事に思って旅行中止したってちゃんとわかってるから。だからそんなに悲しそうな顔はしないで」

「う、うぅぅ……」


 責められない事が余計にツライ……く、くそぅ……考えろ私。なんか、なんかないのか……!?泊りはダメかもしれんが日帰りの海旅行とか、日帰りの温泉旅行とかはどうだ……!?今から速攻で調べて人気の行楽地とかを……

 半ばパニックになりかけながらも、うーんうーんと頭を捻らせる私。そんな私は余程面白い顔でもしていたのだろうか?ヒメは私を見てクスリと笑いながら、こんな事を言ってきた。


「……母さん、そんなに埋め合わせしたいの?そんなに私と旅行行きたかった?」

「当たり前だろ!……毎年やってるヒメとの思い出作りが、こんな残念な形で中止になるとか嫌じゃんかよ……ヒメも楽しみにしてくれてたのに……こんなのってさぁ……」

「……そっか。うん、そうだね。だったらさ母さん」

「お、おう?」

「―――

「…………へ?」

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