第55話 鏡のおくすり~王都パレス~(6)
沈黙を破った。
エレン王妃が無言で、水の入った杯を差し出す。
明らかに悩んでいる表情、隠すことが出来ないくらいの身体の震え。
私たちが来るまで、暗殺のタイミングはたくさんあった。だが、王妃は出来なかったのだ。
奇しくも、私たちの登場が、王妃の背を押してしまったらしい。
慌てて、私は叫んだ。
「それは将軍が仕組んだ毒水の杯です!」
「知っている。将軍は我を試しているのだ。この凡夫に一国の王が務まるのかを、な!」
快活に王は笑った。その次に、覚悟を述べると、さっさと水を飲み干してしまった。
玉座から崩れ落ちる王の身体。杯は床を転がる。
事件はまた起きたのに……私も王妃も、その場から動けなかった。
そんな中、静観していたブラウンが、私の手に解毒薬の小瓶を突きつける。
「解毒だ!」
気づくと私は走っていて、王の顎を上げて、解毒剤を流し込んでいた。
息を吐く間もなかった。あれこれ考えることもなかった。
ただ、目の前の命へ出来ることをしただけ。
レイが淡々としていた意味を、私も今、理解した。
後悔の目で、怯えた目で、私を見ないでください……王妃。
あの時の私も同じ目をしていたと、今の私の胸が苦しくなるのですから。
私は王の傍から立ち上がった。
全ての後処置は、王妃に任せようと思った。それが情けだろう。
私たちは位置を入れ替わった。
王妃は少女のように泣きながら、王の傍に進んだ。王妃の影になるように、私は遠くから2人を見ているだけだった。
王妃は、空中に向けて叫んでいた。私はただ返事をした。
「王は命をかけて、国を救おうとしたのか! あんな嘘の言葉に惑わされて!」
「それは、そのまま、お返しします」
王妃の善悪が崩壊した。
たった1人、自分だけ悪になろうとして、その手でどれほどの命を奪ったのだろうか。
全ての命の重さを1人で受け入れる。そんな神の如き振る舞いは、誰にも出来ない。
目の前で、たった1人、王の命が消えかけている。その事実に、王妃は震えて泣いているのだ。
結局、彼女も、神にも悪魔にもなれなかった。
自分が決めたことではない、他人の意志なんて脆いものだ。
嘘の言葉に惑わされていたのは、王も王妃も、どちらもそうだ。
ここで
死んで価値がつくのは、故人の名声だけだ。人の命は生きてこそ、価値がある。
「気づかれましたか。死ぬより生きるのは辛いことです」
「すでに道を間違っていたのか……」
隠し持っていた短刀を、王妃は自分の喉に突き立てた。
ブラウンは早かった。
いつの間にか、私の傍を離れ、王妃の短刀を受け止めた。
私の大事な銀のスプーンで。
うわ、手癖の悪いエルフ、いつ銀のスプーンを私の服から盗んだんだ。
「今更、死ぬのは駄目か?」
「さぁ、おれは知らないね。ただ、この銀の
ブラウンは、疲れた笑顔だった。
年季の入った、ヒトの中年男性みたいな感じだ。
エルフの女の子がそんな顔をするのだ。
驚愕した王妃は、花のように散るという美しい衝動を捨てた。短刀を服の内側に戻し、泣き喚くのは止めたようだ。
その仮面は、平時の冷静な状態に戻る。
事件の音は消えた。
そのタイミングで、大臣や王の側近たちが飛び込んできた。
彼らは部屋に入ると、将軍に騙されていたと、すぐに気づいた。
倒れている王の姿を見て嘆き、わずかに呼吸音があるのを確認して小さく喜び。
しまいに、彼らは大事そうに、王を運んで行った。
フランシス人の全てが詰まっている、風刺画のような光景。この感情表現だけで満点だ。
先ほどまで、それを演じていた私たちは、ただ見守っていた。
もう情熱が冷め切っていた。今日、再び演技はご免被る。
あの一派の中で、大臣だけ残り、王妃に語り掛ける。
青年大臣は真顔であった。王妃の善性を、ただ盲信している。
「この場にいる皆さんのおかげですね。将軍の暗殺者を逃がしてしまったのは惜しいですけどね」
「え、私が……か?」
「何をおっしゃいますか。私どもが部屋に入ったときに、王の傍にいたのは王妃様ではありませんか。解毒が間に合うと良いのですが」
「う、うむ。……そうだな」
良心の呵責があるのだ。流石に、王妃の歯切れが悪い。
それでも、王妃が解毒をしたと確信している大臣には、この事件がそう見えたのだ。
私たちは口を割らない。そして、床に転がる杯も、解毒薬が入っていた小瓶も、もう何も語らないだろう。
返事をしないのも返事だ。
大臣は小さく微笑むと、運ばれている王を追って、小走りで去った。
一瞬、悩ましい顔をした王妃は、私たちの顔を見ずに、不器用なお礼を述べた。
「今度はちゃんとした食事会になるように準備するからな」
その王妃の靴音も、向こうに消えて行った。
食べ損ねた料理に、私とブラウンは大きくため息を漏らした。
主催者の王がいないのだから、当然、食事会はない。
虫の音、雨のしずくの音、それだけが自然と残っている。
もうただの秋に戻ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます