第37話 欠のおくすり~ヴァルキリ・ノルドの民~(7)
太陽が出る時期だ。湿気はすぐに乾く。
ユールはせっせと窓をあけて、蔵書の湿気を無くそうとしていた。
私とシスターは椅子に対面で座り、細かい話をまだ続けていた。
ユールが持ってきたパンをシスターは口に運んでいる。
元々、私が焼いたパンだけど、もう時間が経ってしまって美味しくないかもしれない。
シスターは水でパンを流し込んでから言った。
「いやぁ、懐かしい味だねぇ」
「シスターが娘さんたちの掃除を手伝ってくれたからですよ」
「まぁ、それもあるけど。マリィはよくパンの焼き方を覚えてくれた。ありがとうな」
「いえ、その、顔を上げてください」
シスターが頭をさげると、頭巾がずれて、潮焼けした赤い髪がさらっと流れ出た。
ワイルドな顔立ち。オオカミさんと結婚して子供を作ったわけだから、大衆に指図されないくらい自信に満ちた戦士だったろうけど。
でも、今は平和を祈る者、シスターなのだ。
面を上げた彼女は、真剣な目で私を見た。
「2つ、3つ話したいことがある。ジャンヌの話、クロウドと私の話だ」
「はい」
「ジャンヌはねぇ。雷の魔法が上手だったけど、それよりもパンが焼くのが上手かった。マリィの焼いたパンは、ほぼジャンヌのパン。マリィの親父さんかな、男性の無骨さが少し出ている」
「亡き父から教わりました。私が物心つく頃には母は寝たきりでしたので」
「あー、なるほどーねー」
シスターは唸りながら、納得した。
彼女たちが疑問に思っていたことが埋まっていったのだ。
それほど、このパンの作り方が価値を持っているということだ。
それがわかる話をシスターはしてくれた。
お師匠が私の母の死の際に、フランシス国王の前で言った言葉だそうだ。
『失われたのは魔法じゃない。パンの焼き方だ』
国王も側付きの官僚、兵士たちも、皆一様に泣いた。その言葉から、村を襲った盗賊たちに怒りを覚えたらしい。
家族や仲間を大切にする上に、血の気が盛んなフランシス人のあるある話だ。
魔法だとその価値が下々に分かりにくいのだ。ただ、ほぼ毎日パンは口にする。
価値あるものを失った時の悲しみと怒りは、ものすごかったのだ。
魔法下手な私は、すごい技術を残しているのだ。パンが焼けるだけなのに。
胸は熱くなった。湿気っていた私の心に火が付いた。
するとシスターは笑った。そして戸棚をあけて、大事な手紙を出した。
送り主は、クロウド。お師匠だ。
私は読んでいいと言われ、その手紙を初めてみた。
ジャンヌ、私の母が死んだとは、たった1行の薄い手紙だ。
その次の手紙は、かなり分厚い。
『やったぞ。ジャンヌの娘は、パンの焼き方を知っていた』
要約するとたったそれだけの話。
フランシス人は情熱が溢れると、すごく長い手紙を書くことがある。
無茶苦茶な愛を比喩表現で叫ぶのだ。
お師匠が私を家に案内した、その日を思い出した。
私は必死にお願いした。弱い少女がこの世で生きるために、ちゃんとした知識が必要だったからだ。
『お願いします。何でもしますから、私に教えてください』
『君、パン焼ける?』
私は父から教わったパンの焼き方を久々にした。
材料も違う。小さい手では段取りも違う。それでも私が必死すぎて、思い出すだけで恥ずかしい。
1日飛んで、パンが焼けて、昼ごはんで食べた。
私は認められるか心配だった。
今思えば、お師匠にとって大事な思い出を取り返した瞬間だったのだ。
穏やかな笑顔で、こわがって震える私の頭を、お師匠の手は撫でた。
『いや、すごいよ……。君、名前は?』
『あ、あの、マリィです。どういうことですか?』
『合格ってことさ。君を俺の弟子に迎えたい。どうだい?』
『はい、よろしくお願いします』
意味が分かっていれば、もうちょっとまともに返事が出来た。
私は記憶の旅行から戻って来た。
するとシスターは笑って、カラフルな糸と、ただの木の棒を私に手渡した。
「たまにゃ、過去の話も悪くないだろ。そうやって昔を懐かしみ、あの温かさに気づくのも、コーシャリだろう」
「コーシャリですか」
「そそ。長く暗い冬を乗り切るためのノルドの民の文化さ。それと一緒に、編み物も楽しい」
「私はユールに帽子を編んであげます」
「そりゃ良いな」
季節感はないけど、何も事件もない、ただの日常会話。
私の休息には必要なことなのかもしれない。
椅子に座り、手を動かし続ける。耳の部分の作り方は、シスターに聞きながら上手く私は編み込んでいった。
先ほどの手紙で気づいたことがあった。私は親戚の家にいるくらいリラックスしていた。だから、迷わず聞いた。
「シスターの名前が、イグニスなんですね。先ほどの手紙で分かったんですけど」
「そうさ。私の娘の名前は、ヨンソクとユール。夏の炎と冬の雪をイメージして名付けたのさ」
「ノルド語でいう、夏至祭のヨンソクと冬至祭のユールですか」
「ま、だいたいそんな感じ。偉大なる女海賊の名イグニスを世襲したヨンソクちゃんは、母親の過去に苦しめられていたわけ。同じ悩みを持つマリィに共感するのもわかるだろう?」
イグニスさんの辛そうな顔は、私への本気の同情だったわけだ。
私は合点した。
近くでユールの気配がしないと思ったら、奥の書庫で丸くなって寝ていた。半分オオカミの少女は、日向ぼっこも好きらしい。
うわさをすると、イグニスさんがアルトを左肩に乗せて帰って来た。その両手のバケツには、謎の干物の山だ。
「よぉ、母さんとマリィ。ユールは奥で寝ているな。干し鱈もらったから食おうぜ」
「誰が調理するのさ」
「え、私じゃねぇだろ。何で母さんの説教なの?」
「マリィは、お客さんでしょうが! ユールみたいにちゃんと謝れない娘は、干物を食わせないぞ!」
「ごめん。マリィ、干物の戻し方分かる? 出来たら、お願い」
海の荒くれ者たちが言い争う中、私はそのバケツの干物を厳しい目で見つめた。
ん、知らない食べ物だ。好奇心から、その破片を私はかじってみた。
「辛い! これ、塩味ってもんじゃないわよ!」
私は叫びながら、教会の外に飛び出した。
水場で大量の水を飲み続けた。
舌がしびれる。あの大量の干物、どうしてくれようか!
凄まじい顔をしていたのか、恐る恐る近づく小さい影が2つ。
きゅーと心配そうな声はアルトだ。そして、フードを目深にかぶったユールもいた。
「ノルドの民はどうしてこんな凄い食べ物作ったの!」
「マリィ、それは察する。もしかして、この保存食の食べ方を知らない?」
私は塩鱈の干物が3日間かけて、水で戻す食べ物とそこで知った。
つまりパンよりも、料理が大変そうな鱈の干物だ。
その晩、私は市場でザリガニをまた大量に買った。罰としてイグニスさんに荷を運ばせた。
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