第35話 欠のおくすり~ヴァルキリ・ノルドの民~(5)
旅ではじめて寝られなかった。
朝から私は、釜にパンを入れて焼いている。
ザリガニの殻が発する夏の生臭さで、すぐに目が覚めたのだ。
工業国のハイネスの朝を思い出す。
今、眠いのか、それとも起きていたいのか、宙ぶらりん。
私は床掃除しながら、ボーとしていた。
呆けていても、手足は動く。
小さい声がしたので、私は機械的に反応した。
「マリィ、おはよう」
「ユール、昨日より早くない?」
「パンのために早く起きた」
「あなたも姉弟子なのに、年下に見えるわ。幻覚?」
「オオカミさんは敏い。マリィ、朝から疲れている」
透き通った瞳で、まっすぐ見つめられると、私はちょっと怖い。
ハーフウルフは匂いに敏感だ。パンの焼ける匂いを本能で察知された。
その上で、ユールだけの能力もあった。すごく耳が良い。聞こえないはずの音も聞こえるらしい。
私が笑ってごまかそうとしたら、その能力で見透かされた。
「あはは、そうかなぁ」
「マリィは怖がっている。昨日からずっと声震えているよ?」
「自信ないことは話していないけど……」
「昔のことを知りたくない。だから話さない。でも、心が痛い。耐える。疲れる。1日が終わらないで続いている感覚だね」
ユールは音声に感情の色が見える。それを拾いすぎるために、他人より多く疲れ、多く眠る。
ノルドの歴史書には、音と感情のかかわりの話なんてないそうだ。
だが、民話は別。ヴァルキリ海賊がこの地に侵攻してきた頃、原住民ソーミはそんな技をもった霊媒師がいたらしい。
創作がかった能力をユールは持っている。それが、私に関しては寸分の間違いがない。
お師匠が感覚で魔法を使うときよく使う言葉。
共感覚性。
熱いイメージが炎を生むだの。溢れる液体イメージが水を生むだの。
複数のイメージの総合力。色、温熱感覚、音などが1つになっている。
私には全くないセンスだ。
すごい姉弟子がいたものだ。私はユールを試した。
欠伸半分で歩いてきたアルトがいたのだ。
「じゃあ、彼は何を考えている?」
「腹減っただけ。思考がシンプル」
「きゅー!」
アルトが嬉しそうに鳴いた。ということは、ユールの解答は当たっている。
何だか、私の心のそこまで覗かれているみたいだ。少しのこわさと、少しの期待感が混ざっている。
ユールは、軽く注意した。
「パン、焦げちゃうよ? そろそろ時間じゃないの?」
「あ、うん、そうだね」
その言葉通り、パンが上手い具合に焼きあがった。
まさか、パンの焼きあがる音を聞き分けた。
そんな馬鹿な話があるか。
私はもう動揺しない。何故か自分の心に素直になれない。この場にいると、どんどんと意固地になっていく。
ここで、ようやくイグニスさんが起きて来た。私たちは食卓についた。
アルトとユールは、嬉しそうにパンを食べている。
小さい手と口が可愛らしい。
それを見つつ、真面目に私は、イグニスさんへ尋ねた。
「ユールに、私の気持ちを当てられました。彼女は音に敏感なんですか?」
「あー。ユールの耳は2倍だからねぇ。余計な音も拾うから、外が嫌いな引きこもりだ。だけど、こんなに他人の気持ちがわかる奴はいないぞ。ステキだろ?」
「耳が多いから、共感覚性が優れているってことですか?」
「そーじゃないの? 何でマリィが小難しく考えるか、逆に私には分からん!」
「じゃあ、イグニスさんは、何でお師匠に過去を見つめ直すように言われたんですか?」
話が脱線した。
少し興奮してしまった。
イグニスさんが私の頭をそっと片手で撫でる。
その目がさみしそうで、でも口元は微笑んでいた。
意味が分からない。もしかしたら、私が拒絶しているマイナスな感情かもしれない。
その曖昧な何かを、ユールが代弁した。
「お姉ちゃんの本名は……」
「マリィとユールは、上の教会の奥にある本棚の整理と掃除な」
「お姉ちゃんは、それで良いの?」
「シスターはこういう話が上手い。私はまだそこを上手く話せない。それに今の私は船長だ。港で仕事があるんだよ!」
「わかった。お姉ちゃんは私を大事にしてくれるから、私もその気持ちを受け入れる」
姉妹による意味深長な会話だ。
私は通じ合うのに、会話よりも信頼が大事だと思っている。言葉少なくて通じ合うのは、本物の関係なのだ。
アルトが「僕の仕事は~?」とキラキラした瞳を、イグニスに向けている。
「お前は私と港に来い。お疲れのマリィに、今、必要なのは【コーシェリ】だ」
「コーシェリ。マリィって、帽子を編めるのかな」
姉弟子たちは、ノルドの文化を楽しそうに話しているように、外の人の私には見える。
コーシェリの意味が分からず、私は曖昧にあうんと頷いた。
私たちが食器を片付けている間に、イグニスさんとアルトはクリスタンの港へ出発して行った。
「マリィの焼いたパンをシスターに持って行ってあげよう」
「シスターって、この教会の主のこと?」
「うん、私のお母さん」
「あー、なるほどー」
「オオカミじゃない。お母さんはヒトだよ。強さと優しさを知っている。だから、マリィの悩みを受け入れてくれる人だ」
ユールは、たくさんの感情を受け入れる代わりに、自分が出す感情や言葉が薄い。
そんな彼女も言葉が多いのは、母親のシスターを敬愛しているようだ。
部屋に鍵をかけ、地下道を2人で歩いた。
私は昨夜の不自然な掃除に気づいた。
「まさか、台所の掃除をシスターに頼んだ?」
「流石、マリィ」
ユールは親指を立てて、無表情の上、薄い返事をする。
ただ彼女は、妹弟子が聡いので、すごく嬉しい様子だ……と私は思いたい。
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