どうかお願い、悲しみにうつむかないで

******


 泉から逃げ帰ったハムナは、家族に気づかれないうちにベットに飛び込んで震えていた。


 あれは夢だ。夢に違いない。そう思っているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。


 よく朝、外のざわつきで目を覚ましたハムナは、おかしな夢を見たと思いながら目を擦り、ベットの中にあったものに凍り付くことになる。


「夢じゃなかったのか!」


 ハムナのベットの中には、父からくすねた銃が転がっていた。慌ててリビングに向かうと、父と母が深刻な顔で話をしていた。


「オレは村の男達と森を探しに行ってくるから、家の周囲は頼むぞ」


「えぇ、わかったわ。ハムナ、今起こそうとしていたのよ。アンリちゃんが居なくなっちゃったらしいの。あんた、昨日一緒に薬草取りに行っていたわよね? 何か聞いていない?」


「え……?」


 外のざわつきに耳を向ければ、村人達がアンリの名前を呼んでいる。


 ハムナは茫然とした。自分が、好意さえ抱いていた大事な幼馴染を置き去りにして、一人で逃げ延びてしまったことに、ハムナはその時ようやく気づいたのだ。


******


 泉の中で囚われたアンリは最初の数週間を泣き暮らした。


 銀龍には何度も訴えたのだ。自分は生贄などではなく、ただあそこに居ただけなのだと。しかし、銀龍はその度に困ったように首を傾げて否定した。


「どんなにお前が否定しても契約は変えられない。満月の夜、湖にいたことがお前が贄たる証。けれど、贄など今や名だけのこと。人々がわたしを忘れ、同胞たる龍族も死に絶えた。飢餓のような孤独に蝕まれたこの心を癒してほしい。わたしの花嫁となり、狂いそうな程の長き生に寄り添っておくれ」


 抱きしめられて、宥めるようにそう囁かれた。最初は食べられる恐怖に怯えていたが、銀龍は言葉通りにアンリを食べようとはしなかった。


 ただ、想いを伝えるようにどこからか花や真珠を運んでは贈り物をしてくれた。アンリがそれを断ると、その度に銀龍は悲しそうな顔をして、それでも諦めずに別の贈り物を探してくるのだ。


 そんな日々が時間のわからない泉の中でいつまでも続き、アンリはある日、とうとう一輪の花を受けとったのである。それは村の中でよく見かけたリューナと呼ばれる青い花弁が鮮やかな花だった。雨の日だけ花弁が開くのでその名前が付けられたのだ。


 アンリにとっては思い出の花だった。ハムナが誕生日にプレゼントしてくれたことがあったのだ。寂れた村の中ではそのくらいしかなかったと照れ臭そうに笑った彼の顔を思い出して、一雫の涙が零れた。それはアンリの決別だった。思い出を胸の中に隠して、その日、アンリは銀龍を受け入れることを決めたのだ。


 それ以来、アンリが少しでも頬を緩めて嬉しそうな様子を見せると、銀龍は喜んで同じ花を毎日のように贈ってくれるようになった。


 喪失感をもたらした銀龍が、アンリの孤独を癒そうとしたのは、彼も寂しかったのかもしれない。どこまでも優しく接しられる内に、アンリは少しずつ心を開いていったのだ。


 憎しみを忘れれば、銀龍を愛する様になるまで時間はかからない。アンリが本当の花嫁になることを決めたのは、泉に囚われておよそ三年後のことであった。


 求婚を受け入れる旨を伝えると、銀龍は大層喜んだ。そして、婚姻祝に一つ願いをかなえてくれると言ったのだ。アンリは一つのことを望んだ。


「銀龍、幼馴染のハムナに最後に一度だけ会わせて」


「ハムナ? お前を見捨てて逃げた人間の名だね?」


「えぇ。けれど、彼は恐怖に負けてしまっただけで、本当は優しい子だったの。きっと後悔しているはずよ。もとはと言えば、私が満月の秘密に興味をもったから起きたことなのに」


 アンリが目を伏せると、気遣うように銀龍が頤をそっと持ち上げて、目を合わそうとする。その目の中に真実を探すように。


「わたしに見染められたことを後悔している?」


「最初はしたわ」


「では、今は?」


「貴方に出会えて幸運だったと思ってる」


「そう……」


 冷徹に煌めく金色の瞳を見つめてはっきりと答えると、安堵したようにその瞳が撓む。頤から指が外された。


「わたしの花嫁、アンリ。永久の時間をわたしと共に生きておくれ。そう約束してくれるのならば、あの子供に会うことを許可してあげる」


「約束するわ。私が帰る場所は貴方の元だけだもの」


 龍という猛々しい生き物なのに、不安がる様子は人間に近い。愛する者が離れていくのを怖がるように、強く抱きしめられる。


 その腕の中に身を委ねて、アンリは安らぎを感じていた。そして、そんな自分に過ぎ去った月日を思い、僅かに憐憫を覚えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る