第56話 大丈夫なわけないじゃん


「それではまた明日、お迎えに参ります。」

「はい。」



交渉が終わって、すぐに宿舎まで送ってもらった。私はエバンさんとまともに会話を交わすこともなく、とりあえず自分たちの部屋へと足を踏み入れた。



「…リアッ!」



部屋に入った瞬間、両足の力が抜けてその場に座り込んでしまった。

自分でもびっくりするくらい力が入らなくて、思わず「ふふ」と笑ってしまった。



「リア…。」



でもきっと私よりびっくりしただろうエバンさんは、私の顔を心配そうにのぞき込んだ。私はいつ見たってキレイに整ったエバンさんの顔をじっと見つめて、彼の頬に手を添えてみた。



「ねぇ、エバンさん。」

「なぁに?」



彼の目はやっぱり、あの日見たテムライムの海みたいにキレイな赤に染まっている。ゆらゆらと輝く夕陽のようにきれいで、出会ってから今まで一度だって、曇ることがなかった。



「私ね、考えもしてなかった。」



実際に交渉する前で、想像もしてこなかった。パパやウィルさんは、どんな気持ちでいるかなんて。



「まるで私が一番辛いかのような、気持ちになってた。」



自分の大好きなリオレッドと、今では母国と同じくらい大切なテムライム。そして何より大好きなじぃじが築いてきた関係が自分の手だけにゆだねられているような気持ちになって、勝手に私が一番辛いんだって、思い込んでいた気がする。



「でもね、違うの…っ。」



でも違った。そんな私の気持ちを理解した上で、あのクソの話を直接聞かなければいけなかったパパやウィルさんの方が、よっぽど悲しい思いをしてきたはずだ。二人のあんな顔を見るくらいなら、私が交渉に来るべきじゃなかった。そうすればもう少しだけ、やりやすい交渉になったかもしれない。



「リア。」




相変わらず一気に色んなことを考え始めた私を、今まで見ていただけだったエバンさんが呼んだ。呼ばれたのに反応して息継ぎもせず発していた言葉を止めると、エバンさんはにっこり笑った後、私を優しく抱きしめた。



「言いたい事、全部言っていいよ。」



今までだって、言いたいことを言っていたつもりだった。

でもそう言われた瞬間心のどこかにあったシャッターみたいなものが、ゆっくり開いていく感覚がした。



「最初はね…っ。」

「うん。」

「パパのお仕事を、楽にしてあげたかっただけ、だったの。」



そもそも私が走り始めたきっかけは、ただ"パパに帰ってきてほしい"っていう、とても小さくてかわいい理由だった。



「ただ一緒にいたくて、一緒に遊んでほしくて…っ。」



孤独なこの世界で私を全身で愛してくれるパパが大好きだった。

ちょっと臭いけどいつだって誰か他人のことを想って、全力で働いているパパがかっこよかった。自分の仕事に誇りをもって楽しそうに働いている彼は、本当にすごいと思った。



前世を生きていた時、そうなりたかったけどなれなかった自分は、きっとどこかで彼に憧れも抱いていたんだと思う。



「なのに私はパパを…っ。」



パパのために今までずっと頑張ってきたつもりだった。それなのに私は今、結果的にパパを苦しめてしまっている。



「もう…。どうしようも、ないの…っ。」



これ以上、パパやウィルさんを傷つけたくない。そしてその上、テムライムのことも守りたい。今までピンチに直面した時、何かいい案がどこからか浮かんできた。それに色んな人が、私を助けてくれた。



でも今回に限ってはどんな手を使っても、最悪の結果に行き着くことしか想像できない。もう最悪の道しか残されていないことだけが、はっきりとわかる。



「エバンさん、どうしよう…私…っ。」



全部私のせいだ。

あのクソが意味の分からないことを言い出したのだって、私のことが気に入らないせいだ。私が今まで、散々出しゃばってしまったせいだ。



「私が…っ。じぃじが作った大事なものを…壊してしまうかもしれない。」



リオレッドとテムライムの関係は、じぃじがすごく大切にしていたものだ。そしてリオレッド国民は、じぃじが何より大事にしていたものだ。



それを私は肌で感じていたはずなのに、あの日じぃじの想いを継いでいくって約束したはずなのに、それを全部、守ってあげられないかもしれない。



「私の…っ、せいで…。」

「違う。」



私が最後まで言葉を発する前に、エバンさんははっきりと否定して言った。



「それは絶対に違う。リアのせいじゃない。」



もう一回改めて強く否定したと思ったら、エバンさんはゆっくりと私から体を離した。そして覗き込むみたいにして私を見つめた。



「いいんだ。何も心配しなくて。」



いいわけがない。何もかも、いいわけがない。



「リアはただ、自分の道を進めばいい。絶対にその道が正しい。それは僕が保証する。」



私の道。私の信じる道。

私だって今まで、それが正しいんだって思ってた。だから今までずっと突っ走ってきたし、きっとそれでよかったんだって思えることがいっぱいあった。でも今回だけは、どこかで何かを間違えた気がする。



「リアの道を邪魔するものは僕が全部なくしてあげる。今君の道を邪魔してるのもの、どうすればなくせるかな。」



これからどうなるんだっていう不安や心配、そして今までの自分は正しかったのかっていう迷いや、大切なものが壊れてしまうかもしれない絶望。

色んなものに邪魔されて、この先どうやって歩いて行ったらいいのか分からない。きっとどうやったって、全部をなくすことは出来ない。



「なくせ、ないか。それならせめて…。」



エバンさんは私の心を読んだみたいにそう言って、知らないうちに流れていた涙を両手でぬぐった。そしてそのまま両手で、私の両頬を包み込んだ。



「自信を持っていい。強くいていい。いつだって君の進む道の先には、たくさんの希望がある。だから大丈夫。」



大丈夫なわけないじゃん。

だって絶望が待っていると分かっている道に進むしか、今の私に出来ることはないんだから。何をどう考えたって、いい考えなんて浮かばないんだから。


それなのにどうしてだろう。

エバンさんの根拠のない"大丈夫"に、こんなに励まされるのは、どうしてなんだろう。


何も解決していないはずなのに、私は無意識にその言葉に一つうなずいた。



「疲れたでしょ。お茶、淹れてあげる。」



エバンさんはそう言いながら私を立ちあがらせて、ソファまで連れて行った。そして私をゆっくりと座らせた後、一度部屋から出て行ってどこからかお湯を持ってきた。



「はい。」

「ありがとう。」



エバンさんが淹れてくれたのは、カイメルアの紅茶だった。カイメルアはリオレッドではとてもポピュラーな紅茶だけど、とても庶民的なものだから、こんな高級ホテルに置いてあるのに少し違和感を覚えた。



「メイサが…。」



きっとこれは、メイサが用意してくれたんだろうなと思った。

私がいっぱいいっぱいになっている時、このお茶を飲みたがるって、メイサはよく知っているから。



「おいし…。」

「よかった。」



メイサのやさしさとエバンさんの優しさが溶け合って、全身に広がっていく感じがした。さっきまでいっぱいになっていた頭が少し整理されて、自分が冷静さを取り戻していくのが分かった。



そして冷静な頭になって思った。



やっぱり大丈夫なわけがなさ過ぎる。



でも考えたところで、この状況がどうにかなるわけではない。弱気な自分を少しでも追い払うために、今はこの紅茶に込められたたくさんの優しさに浸っておくことにした。

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