第74話 小さなわがままを、どうか…


「うそ、だ…。」



悲しくなったせいで、ついに幻覚が見えたんだと思った。

でも何度見てもそこには確かに、エバンさんが立っていた。そして彼はすぐに私に気がついて、"おいで"という仕草をした。



行こうか迷った。

行ってしまえばこれまでの全ての決意が、崩れてしまうんじゃないかと思った。

でもお別れくらい言わないと失礼だと思った。お別れしないと忘れられないかもしれないと思った。



本音を言うと、



――――すごく、会いたかった。



泣いていたのを隠すために、部屋でしばらく涙を落ち着かせた。そしてパパとママを起こさないように静かに階段を下りて、恐る恐る玄関の扉を開けた。




「リア…!」



近くで見るまで、本当にそれがエバンさんだと信じ切れなかった。

でもやっぱり本物らしいエバンさんは私の姿を見て、飛びつくようにして私を抱きしめた。



「会いたかった…っ。」



私もですと、言いたかった。どうしてここに?と聞きたかった。でも言葉を発すればせっかくおさえてきた涙があふれてしまいそうで、私は唇をギュっと噛み締めて黙ったまま彼に抱きしめられていた。



「リア。」



しばらく私を抱きしめた後、エバンさんは私の両肩を持って体を離した。驚いてエバンさんの顔を見ると、彼は少し悲しい顔をして、それでもにっこりと笑ってみせた。



「逃げよう。」



そして燃える瞳のまま、彼は言った。

その真っ赤な瞳を見ているだけでやっぱり気持ちが落ち着いて、涙まで引いていくみたいに感じた。



「ここから逃げよう。どこか、遠くへ行こう。」

「どうしてです?」



彼の純粋な瞳を見ていたら、揺らいだ決意がかえって固まるような気がした。私はさっきまで泣いていたのが嘘みたいに強い目をして、エバンさんを見返した。



「どうして、逃げるんです?」

「どうしてって…。」



私の言葉で、エバンさんの瞳は大きく揺れた。どうかその瞳がいつまでも曇らないように、彼に悲しいことが一つだって降りかかりませんようにと、心からそう願った。



「私は自分から望んで、ルミエラスに行きます。」



どうか私のことなんて、忘れてほしい。


たくさんの願いを込めて、言葉を強めた。するとエバンさんはとても悲しい顔をして「どうして…」と言った。



「ごめんなさい。あなたとは、結婚できません。」



私は強い私を演じて、そう言った。もしかしたら女優になれるのではないかと思うほど、気持ちはとても落ち着いていた。



「嫌いに、なった…?」



するとエバンさんは私とは反対に、すごく弱々しい声で言った。嫌いになんて、なれるはずがないのに。



「いえ、好きです。とても好きでした。」



演じていたとはいえ、どうしても"嫌い"って言いたくなかった。最後くらい本当に好きだったと、言いたかった。

これが最後のわがままだと思って言うと、エバンさんは「なら…」と言ってこちらを見た。



「でも。」




エバンさんの言葉を遮るように、私はまた言葉を強めた。



「でもわたしはそれ以上にこの国が、この国の人たちが大好きなんです。この国のためになるなら、私はなんだってします。」



それは心の底から、私の言葉だ。演じてなんかいない、本当の言葉。



「そしてあなたを裏切るんです。」



この国のために、私を好きだと言ってくれたあなたを、いつか迎えに来てくれるという約束を果たしてくれたあなたを、私は裏切るの。



「そういうやつなんです。あなたへの気持ちはそこまででした。」



そういうやつなの。これからだってきっと私はあなたのことではなく、その他の人たちのことを一番に考える。


私は、そういうやつなの。



「エバンさんにはもっと素敵な人がいます。」



きっとあなたのことを一番大切に想ってくれる人が、どこかにいるはず。私よりもっともっと、ふさわしい人がいるはず。



「ありがとう。」



恋をさせてくれて、ここまで愛してくれて、本当にありがとう。



「さようなら。」



さようなら。私の最初で最後の恋。

さようなら。私の、愛おしい人。



私はつけていたネックレスを外して、呆然と立ち尽くしているエバンさんの手に無理やり置いた。本当はずっとつけていたかったんだけど、あったら私の方がエバンさんのことを忘れられないと思った。



「最後に一つ、わがまま、聞いてくれますか?」



本当はここで去ったほうがいい。そんなことはよく分かっている。


でもせめて、せめて…。

このくらいのことは許してほしい。



「最後にお別れのキスを、してもらえませんか?」



せめて最初のキスくらい、好きな人とさせてください。

これが私の、最初で最後の"本物のキス"だから。



エバンさんは今にも泣きそうな顔をしたまま、私の頬に手を置いた。その手がどこまでも冷たく冷えていて、そして小さく震えていた。



そして何も言わないまま、エバンさんはそっと、私の唇にキスをした。唇から流れ込んでくる悲しみとか苦しみが心を揺さぶって、今までで一番、決意がぐらぐら揺れる音がした。



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