捌の9

 と、そう思い込んだ時こそ、最も危ないものだ──。

 案の定、魔女はその隙間を丁寧に突く……。

 ……その瞬間、ジョニーの身体に激しい電流が走ったのだった。

 勝利を確信し気を抜いて油断していただけに、意識がほんの一瞬だけ飛んでしまう。更に、エリスが狙ったのはジョニーの本体ではなく、左甲懸に括りつけてある鋼鉄製のワイヤーだったのだ。その電撃はワイヤーを伝い全身を貫く……。

 次の刹那、ふと気がつけば、目前まで迫りくる紫色のオニギリがある。

 何処からともなく飛んできたのか。ジョニーは心で悲鳴を上げながら全身全霊で残った力を振り絞り、禍々しく瘴気を放つその厄災を左手で懸命に振り払う。

 もう格好悪くても何でもいい、どんなに泥臭くても構わない。

 この一瞬、一瞬に全てを賭けている。どんなに醜くても、最後の最後まで足掻き切るのだ。それだけが、ジョニーにとっての細やかな抵抗であり、生きる為の矜持でもあった。

 しかしながら、時とは無常で残酷だ。ジョニーの切なる願いも虚しく、口の中で一斉に広がる形容し難い絶望的な不味み……。いや、これは味なのか。それとも痛みなのか。未だかつて経験したことのないような不快感──。

 脳天を突き抜け、天地がひっくり返るような衝撃と共に、取り戻した意識が再び遠のいてゆく。おかしい、厄災はたしかに左手で払い除けたはず……。

 これも『魔法』の類いなのだろうか。まあ、この際いいだろう。

 今となってはどうでも良いことだ。きっと、自分は敗北してしまったに違いない……。その時、ジョニーがふと眺めた光景は、雲ひとつない一面の青空だった。


 ──嗚呼〝一護〟よ……。


 白目を剥いて、口から泡を吹くジョニー。そのまま膝から崩れ落ちるように倒れてゆく……。何百キロもある体重が芝生にゆっくり伸し掛かる。

 鈍い音を立てながら突っ伏すと、ジョニーは死んでしまったのかと疑うほど動かなくなってしまった。しかし、僅かだが呼吸をしている。どれだけ不味かってのか、舌をだしたまま気を失ってしまったのだろう。

 それと同時に、柵の設置に取り掛かる隊員たちが駐車場から一挙に飛び出し、広場は忽ち人で溢れ返っている。鬼束の号令と共に瞬く間に組まれていく檻の骨組み。前回の失敗を取り戻すかのような機敏な動きだった。

 ──そして、両手の拳を高々と上げてユキが大声で吠える。

「よっしゃあっ! ジョニー、生け獲ったスよおおーっ!」

「きゃあああっ! ユキちゃん、やったねっ! 大手柄よっ!」

 と、いち華が喜びの感情を爆発させ力一杯で抱きついてくる。

 とびきりの美少女に頬擦りまでされてしまって照れ臭い限り。続いて、後ろからチサキやサカキまで笑顔で飛びついてきたのだった。

 旧役場の建物からも村人がわらわらと出てきて、ルーフバルコニーの屋上ではヒミカが大手をふって飛び跳ねている。やがて、広場が一斉に沸きあがって歓声の渦に包まれると、誰が云い出しのやら「最後は、ユキっ! 最後は、ユキっ!」と、村人から勝ち鬨があげられたのだった。

 横で伸びているジョニーには悪いが、きっと自分の身に何が起こったのか理解できなかったことだろう。なんせ、二度も払い除けたはずの「災厄のオニギリ」が気づけば口の中に入っていたのだから……。

 ……だがそれも、ユキが自ら考案した作戦の内でもあった。

 当初、右手でオニギリを投げていたが、実のところユキは左利きでもある。

 故に、確実に決めるのであれば利き腕だろう。それを踏まえた上で巧妙な罠を仕組んだのだった。ジョニーが常識の通用しない規格外の熊というのもあり、念には念を入れての強襲作戦だったと云えよう。

 まず、一投目は投げる感覚を手肌で確認し、適正な距離や速度を測る。

 本来なら、そこで決められたならよかったのだが、想像以上にジョニーの動体視力が良い。そこで、エリスの電撃を利用して更に保険をかけたのだ。

 つまり、二投目もオニギリを防ぐであろうことも予測し、時間差で左右同時に投げる。例え避けられたとしても次の三投目で仕留める二段構え。その際、最後はより着実性を得る為に左手で投げると共に、ユキが右利きであるというブラフをジョニーに与え続けたのだった。

 その結果、ジョニーはまんまと「災厄の魔女」のオニギリを口に喰らう羽目になったのだ……。ただ、モノ自体は何の変哲もない普通のオニギリであり「とんでもなく不味い」という事を除いては全くの無害らしい。お腹を壊したり、死ぬ事も殆どなく、ある種に於ては最強の特級呪物と云えよう。

 おまけに、何故にエマの手料理だけが極度に不味いのかは未だよく解明されていない。年々その効力は増すばかりか、魔女ですら畏怖する存在になりつつある。秘薬に次いで、魔女界で囁かれる三大ミステリーのひとつでもあった。

 ──そんな背景を他所に、お祭り騒ぎで浮かれる村人たち。

 皆に揉みくちゃにされ、頭を撫でられるユキはまるでヒーロー扱いだった。

 長老やその幹部たちも拍手で出迎える。屋上にいたヒミカも広場に駆けつけユキの周りではしゃぐのだった。遅れて到着した女衆もチサキの元に群がり、とりあえずの無事と皆の健闘を讃え合っている。

 そんな折、少し離れたところに妙に大人しいエリスがいる。真っ先にしゃしゃり出て来てもいいはずなのに。何か様子もおかしい……。

 一体、部下たちに指示も出さずに何をやっているのだろうか。心配になったいち華がエリスの元へ歩いてゆくと、ひとり顔を真っ赤にしながら佇んでいたのだった。何故か、ヘラヘラと笑っている。視線は宙を泳いで、気分もかなり悪そうだ。幻覚が見えているのか、周りに酷く怯えているようにも思えた。

「……ねえ、大丈夫なの?」

 いち華から、急に声を掛けられたせいか「キャッ」と小さく飛びあがる。エリスは、ビクビクと怯えながら振り返り引き攣った笑みを向けた。

「お、落ち込む事もあるけれど、わ、わたしは概ね元気ですっ!」

「はいっ!? いきなり何言ってんのよ。顔色も悪いけど誰か呼んでこようか?」

「それだけは、やめてくださらぬかっ! 魔女の修行中の身なンだわっ! 電撃魔法が使えなくなったら、わたしなんの取り柄もなくなっちゃうっ!」

 何の話だか意味不明だが、エリスの目を見る限りいつになく真剣だ。

 その所作からとても巫山戯ているようには思えず、これも魔術を使った反動なのか、言動や挙動が常におかしい。おそらく、重症の部類だ。これは、一刻も早くクラリスに診てもらわないとダメかもしれない。そしていち華はエリスの背中を押して、取り敢えずこの場から連れ出そうとする。

「わかったから、こっちにいらっしゃいっ」

「あ、あらそうかしら? わたしったら、初めての贈り物の蓋を開ける時みたいに、ワクワクドキドキソワソワしてるわ……。ぐろえっぷっ……」

 次第に喋り口調や語尾が変になってゆく。顔面も赤紫から蒼白になり、不安かつ、不安定な感じになってくる。

 これはかつて、いち華が道場の夏合宿で幾度も目にした光景だった……。

 上昇する室温と、蒸すような熱気で目の前が眩む。急降下した血圧が内臓の機能を低下させるのだ。酷使された肉体が悲鳴を上げて我々に警告を発する。案の定、エリスの喉元から雷雲のような轟きを発する。いち華はその予感を肌で察知し、満面の笑みで白目になったエリスから早急に身を引く。


 ──「オロオロオオロオロオロっ!」


 口から濁流のように吐き出される吐瀉物を見て、いち華は青ざめて迷惑そうに顔を背ける。そして容赦なく、芝生にぶち撒けられる大量の汚物。

 今朝も馬鹿みたいに食べていたせいか量が尋常じゃない。一斉に饐えた臭いが周辺に漂う。この華奢な身体のどこに詰まっていたのかと疑うほどの量だった。エリスが年頃の女子かどうかはさておき、他人には決して見られたくない醜態を晒す羽目になるのだろう。

 ……なるほど、魔女が魔術を使いたがらない理由はこのあたりにありそうだ。

 そうして、ひと通り吐き終えたエリスは手で口を拭いながら、心配した面持ちでいち華を見つめる。どんな幻覚が見えているのか、こちらを指差して突然怒りだしたのだった。

「ダメよそんな小さなホウキじゃっ! お母さんのを持っていきなさいっ!」

 と、ゲロだらけの短杖を押し付けようと追いかけてくるのだった。

「やだやだやだっ、エリス汚いてばっ!」

「そんな形にこだわらないのっ! 魔女に大事なのはハートよっ!」

「うわあああっ、こっちくんなっ!」

 逃げるいち華に、後を追うエリス。気でも違ってしまったのか、半狂乱もいいところだった。しかも、困ったことに魔女は足がとてつもなく速い。

 普段からどんな修練を積んでいるのか、いくらフェイントをかけても平気で付いてくる。蛇のような執念深さとしつこさで、やたらと始末が悪い。必死に振り切ろうにも振り切れそうになかった。

 とはいえ、折角のメアリー・ドレスを汚されるのだけは御免被りたい。

 フギを使って巻くのは簡単だが、ゲロまみれになった二匹を洗うのも結局は自分である。もう、ユキかサカキあたりにエリスを押し付けるしかない……と、諦めかけたその時だった──。

 ──黒い影が横切った瞬間、ドロップキックがエリスの二の腕に炸裂する。

 影の主は「クラリス」だった。

 カウンター気味に蹴りが入り、そのまま弧を描いてぶっ飛んでゆく『錬金の魔女』。目を他所に移せば、士師と聾唖の蓮二が上着を脱いで気怠そうに此方に向かって歩いてくるではないか。

 その呆れた表情から、今回が初めての暴走ではなさそうな感じだ。

 多分、山の駐車場で置き去りにしたクラリスの迎えに行って帰ってきたところなのだろう。何だかんだと、カラスたちの補助は優秀な限り。この人たちがいなかったら、本当にどうなっていたことやら……。

 そして、クラリスは長い黒髪を指で掻き上げながら、鼻血を流して気を失っているエリスを軽く足でつつく。すると、彼女のフランス人形のような口元が僅かに緩む。微笑んでいるのだろうか、なんだか妙に嬉しそうだった。


 ──「いち華、お疲れ様。あとは適当にやっておくから……」

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