伍の3
*
独狼が待ち合わせ場所に指定してきたのは、青海駅の横に併設されている一般的な駐車場だった。山間から流れる森林の澄んだ空気が心地よく、鼻腔を微かにくすぐる。都心より気温もぐっと下がり、すこし肌寒いぐらいだった。
月明りだけがやたらと眩しく、駅前はしんと静まり返っている。この時間帯に人っ子ひとりいないのはやたらと不自然だ。まるで、戒厳令でも
……そして、向かいの細い路地を挟んで風変わりな中華飯店がある。
以前、ここで食事をしたような覚えもあり、士師の目にはひときわ懐かしく写った。あれから、どのぐらいの月日が経ったのだろうか……。
直接、居合わせてたわけではなかったが、その凄惨な光景だけは強く目に焼き付いていた。台風一過で、雲ひとつない青空とは対照的に、駅前の建物一帯が、真っ赤な鮮血で染められている。
晴れ渡った青天と地上に広がる血のコントラストが驚くほど綺麗で、美しいとまで感じてさせてしまう魅惑的なまでの原風景──。一夜にして行われた手口としてはあまりにも斬新すぎたのだった。
その完璧な仕上がり具合は熟練した者の仕業なのだろう。黒幕は独狼一派でほぼ間違いなかったが、確たる物証は一切なく、日本の司法を隅から隅まで熟知する彼等が、証拠を残すような失態を犯すわけがなかった。
時期に時効を迎えたことから、瞬く間に事件は風化し、住民も何事もなかったかのように平然と生活を営んでいる。勿論、過去を口にする者などいない……。
犠牲者となった者も全国から掻き集められた札付きの悪人ばかりとなっては、世間の見方もわってきてしまう。また、善良な一般市民が襲われたわけでもなく、消えたのは厄介者な筋者ばかり。精々、青海組が入っていた駅前の建物が丸ごと撤去され、新しいビルが建て直されたぐらいだった。
それはまるで、新しい時代に前進する為の通過儀礼……、謂わば「
士師は袖に隠れていた腕時計で、待ち合わせ時間を再び確認する。
……おかしい。もう、数分は過ぎている。
時間に遅れるような連中ではない。離れた場所で見張られているのか、不穏な気配を感じつつも至る場所に目を配った。独狼はプロの暗殺組織でもある。
ここで狙撃されたとしても何ら不思議なことではなかった。不意に危険を感じた土師は壁を背にして、ゆっくりと身を伏せる。息を潜めつつも、布のギターケースに忍ばせている散弾銃をおもむろに取り出そうとした。
その時だった──。
敷地に駐車してある軽トラの物陰から一匹の犬が、ふらりと現れる。
雪のような真っ白な犬。毛並みの艶具合からして、老犬だろうか。だが、その体格は狼のように大きかった。此方をじっと見つめてから、老犬は「ばうっ」と小さく吠えて近寄ってくる。
こいつは、いったい何者……? いや、何犬なのだろうか。
しかし、括り付けられている首輪の形をみて、その犬が独狼からの遣いだとはっと気づいたのだった。犬を迎えに寄越すとは酔狂もいいところ……。
ただし、こういう演出が好きなのも独狼ぽいとも云える。そういえば、懐かしき日のあいつも犬を上手に操っていたな……と、無意識に頬と口元が緩む。
友人とも言い難いような微妙な間柄だったが、
流石に、今回の件については関わっていないと願いたいところだが、新しく手に入れた情報もいくつかある。不確定ながらも、あいつ可能性は捨てきれない。だが、そんな知己ある仲間を売るような真似はしたくないもの……。
すると、回顧録を中断させるように老犬が「がうっ!」と、再び吠えだす。
「物騒なものは、しまったらどうだ?」と、きつい視線で手元を睨みつけてくるではないか。言葉はなくとも、目から伝わってくる眼力が尋常ではない。
飼い犬とは思えないほどの気迫にたじろいつつも、士師は散弾銃からそっと手を放す。さもなくば、この場で食い殺されそうだった。
この若造めが……と、いう具合に老犬は鼻を乱暴に鳴らして、黙ってとついてこいと云わんばかりに先を歩いてゆく。まったく、昔を懐かしむ暇もありゃしない。今宵は魔女ばかりか、犬にまで命令されるのかと、士師は首の項部を搔きながら情けなく後に続いたのだった……。
迷宮のような路地裏に入り、老犬は勝手知ったる道を我が物顔で先導する。
街灯も疎らで、暗くて足元もおぼつかない。頼りになるのは、月明かりと道先案内人をする真っ白な老犬だけだった。
時の流れに取り残されたようなレトロな街並みは以前と変わらなかったが、近隣の家々の明かりが消えているのも何処となく不気味だ。まるで、地域住民たちが示し合わせたように足並みをしっかり揃えている。これは思うに、決裂に終われば生きて帰れると思うなと、
そして「犬」とは独狼にとって、自らの存在を示す象徴的な生き物であり、彼等の守り神でもあると聴く。独狼が、獣を手足のように操るという口伝も次第に真実味を帯びてくるものだった。更に付け加えるのであれば、事件がおこる数日前にも、近所を彷徨く野良犬の怪情報もいくつか確認されていた。
……つまりだ。独狼は何らかの方法を用いて、犬を斥候役として青海組に送り込んでいたことも考えられる。なるほど、これなら誰も警戒なんてしやしない。目に、留めもしなかっただろう。当時の田舎ならば、至極当然な日常風景でもあり、番犬代わりにペットを飼う家庭も少なくなかったからだった。
老獪な犬は背後に睨みを効かせたまま、奥まった路地を何度か曲がり、暫くすると一件の喫茶店の前に辿り着いた。小さな庭つきの木造建ての一軒家。ご丁寧にテラスまで設置され、扉のノブには閉店のプレートが掛けられている。
窓のブラインドは降ろされたままだが、中には小さな明かりがついていた。独狼の仲間はどのぐらい来ているののだろうか。よくて、四、五人。「一人で来い」と云われ、青海までのこのこやってきてしまったが、話を聴く前に殺されることはないだろう……。
鼻をクンクンと鳴らして、老犬は扉の鏡板をガリガリと引っ掻く。
中にいる主人に帰りを伝えているのだ。土師は、タイミングを見計らいながら散弾銃をギターケースから引き出す。独狼が相手ならば丸腰で挑むわけにはいくまい。せめて、いきなり斬り殺されるようなドジだけは踏みたくはなかった。
弾薬を込め、銃を構えると、扉の向こうから鍵をゆっくりと解除する音が聴こえる。緊張の一瞬だ。木製の扉が小さく開き「何者だ?」と声がする。士師は「魔女の遣いで来た」と即答すると、その隙間から黒い瞳がぎょろりと泳ぐ。背丈からして小学生ぐらいだろうか。
こんな場所にまで年端もいかない子供を引っ張りだしてくるとは、ほとほと呆れ果てたもの。そして「入れ」という声と共に扉は開かれたのだった。
そこには、甲冑のような鎧を身に纏った少女がいる。腰にある脇差と日本刀に手をかけ、いつでも抜刀できる体勢になっていた。敵対心を剥き出しにしながら此方を激しく睨みつけている。銃を目の前にしても全く怯まないところから見て、それなりの場数は踏んでいるのだろう。
しかしながら、別に殺し合いに来たわけではない。あくまでも話し合いにやって来ただけだ。ましてや、女や子供に手をあげるわけにはいかない。士師は「争うつもりはない」と少女を制し、辟易とした面持ちをしながら銃を降ろしたのだった。
──店内は、和洋折衷の小綺麗な内装。天井からは昭和の時代を彷彿させるような古い裸電球がぶら下げられている。そして、薄暗い闇に紛れて、中央の席には一人の老人が座っていた。
カチャカチャと、気味の悪い金属音を鳴り響かせながら、今か今かと土師を待ち構えていたのだろう。頭髪は随分と後退し、年輪を刻むような深い皺が時の経過を実感させる。だが、その男を印象づける禍々しいまでの「義手」だけはよく覚えていた。
──「よお、カラスか。久しいじゃないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます