肆の12

「こ、これは、一体どういう……」

「ごめんなさいね。しず江ちゃんなら、向こうの角部屋……、一八〇九号室にいるから安心して。もちろん、之彦君も一緒だから」

 結子がいま聞きたかったのは、そちらの方ではなかった。……が、渡りに船だ。生憎、直ぐにでも知りたかった情報でもある。とりあえず、此方の味方ではあるようだった。それにより、話の外郭が少し見えてきたかもしれない。おそらく、マリア自身が二人を匿っていたのだろう。

 そして、ここは小池グループの縄張りのような場所でもある。

 組織は解体されたとは云え、あの「小池組」が支配していた地域……。未だ、至る所に目を光らせて街の秩序を維持しているぐらいだ。独狼とて、探るにせよ迂闊に手出しできなかったことだろう。

 おまけに、こんなおかしな催眠術を使う魔女が手引きしているとなっては、いくら探しても見つかる筈がない。尽力したところで、どうせ無駄骨に終わる。

 きっと、我々は故意に招かれているだけだったのだ。しかしながら、どうしてここまで七面倒臭い真似をしてきたのか、まるで道理が通らなかった。

「直前になって、しず江ちゃんが取り乱しちゃってね。それに、結構な人見知りだし、話の説明とかほんと苦手なのよ」

「……あの、それでわざわざ?」

「ほら、いち華のこともあるでしょ? あたし、急に不安になっちゃって……」

 化粧のせいもあるのか、マリアは二十代前半の若い女性にしか見えない。だが、我が子を心配する表情は母親の顔そのものだった。……しかし、なんだか少し、言い訳がましくも聞こえる。なんせ、彼女はあの「リッチ・マリア」なのだ。分かっていながらも否が応でも緊張してしまう。

 こうみえて、結子は魔女の窓口役を務めているほどだ。加えて、日本でも屈指の事情通でもある。彼女の紹介なくして魔女に接触できる者は少ないぐらいだ。そんな結子ですら、マリアについては殆ど知らされていなかった。

 魔女と出会ってはや二十数年、いままで様々な種類の魔女と関わってきたが、リッチ・マリアについては冗談半分だと思っていたぐらいだ。しかし、実在していたとなると、今後の対応をどう処理していいか検討がつかない。それは、恋人と爆弾を一緒に手にしているうな気分だった。

「……でも、結子ちゃん。いつから、あたしだって気づいてたの?」

「い、いや、マリアさんという確証はありませんでしたが……。まず、車内で急発進したときに視認した事象。それと、しず江さんでないと分かったのは、部屋の指摘をユキから聴いてからです」

 額を抑え、マリアは「ああっ、やっぱり、ユキちゃんが原因だったのね」と、天井を仰ぎながら「ああいう子は、動きが読みにくいのよ」と、はにかむ。

 そうして、一息ついてから熱そうに紅茶を啜った。猫舌なのか、小さく舌を出している。

 結子は「まったくです」と、畏まりしつつ、やんわり言葉尻を合わせた。

 正直、なんと返答すればいいのやら……。だが、彼女が求めているのはそんな同意の反応ではない。きっと聴きたいのは、部屋のことだ。それは、僅かに動いたマリアの冷徹な視線がそれを物語っている。やれやれだ。こんなところだけ、魔女の血族である圧力を感じる。

「……すべて『新品』だったのですよね」

「新品?」

「部屋の家具ですよ」

 ふうん……、といった具合にマリアは鳶色の目を細める。紅茶に息を充てて冷ましつつも、一応の興味は示したようだ。

「二人が村から逃げたのは半年前です。もし、この部屋で生活を送っていたのであれば、多少の使用感が現れるものです。しかし、それが全くなかったので」

「……そっか、あたしもダメねえ。手が回らなかったとはいえ、貴方たちを見くびってたわ。特に、ユキちゃんの存在はイレギュラーよね?」

 そう云うと、マリアは此方と目を合わせてクスクスと笑った。なんとも朗らかで、優しさに溢れた柔和な感情が伝わる。釣られて、結子も顔を緩ませた。

 どうやら、マリアには人間的な一面がまだ残っているような気がした。エリスのような若い魔女はともかくとして、古い魔女は数百歳を過ぎたあたりから、徐々にその感情を失ってしまう傾向がある。生涯、その外見は殆ど変わらずとも、あまり長生きするものではないと深く実感させるのだった。

「ところで、今後のことなのですが、よろしければマリアさんは戻ってきて欲しいのですが、如何でしょうか?」

「ああ、そういえば、あたしって、お尋ね者の状態だったわね……」

 すっかり忘れていたのだろうか、マリアは引き攣った表情で頭を掻く。

 魔女にとっての三十年は、人間でいうところの五、六年といったところだろうか。確かに、失踪としては、そろそろ心配になってくる時期かもしれない。だが、マリアはまるで意に介する様子もなかった。

「……残念だけど、それはちょっと無理な相談ね。よろしくとだけ、伝えておいてよ。結子ちゃんからなら、あの子たちも信用するでしょ?」

「はあ……」と、結子は気の抜けた返事をする。

 出来ることなら、この場でマリアを拘束したいところだが、腕力で敵わないことはぐらいは承知の上だ。何故なら、自分はただの弁護士でしかなく、荒事に関しても全くの専門外。その上、魔女たちの人間離れした身体能力も知っている。それこそ、銃でも所持していなければ話にもならないだろう。

「しかしながら、このまま見過ごすわけには……」

 と、云いかけたところで、マリアが自分の唇にそっと人差し指を充て、結子の言葉を途中で遮った。それ以上は口にするなという警告なのか、二人の間に軽い沈黙が流れる。

 すると、軽く赤みを帯びた白い指先から急に目線が離せなくなった。

 間近でみればみるほどに、不思議と釘付けになってしまう。なんだろうか、この感覚は。このままだと、魅了されてしまいそうだ。堪らず、強引に視線を外してみたが目が回る。そして同時に、今度は鼻歌まじりのマリアの声が耳に入った。

「大丈夫、もう対策済みだから」

「た、対策?」

 鼻歌はゆるりと続く。ゆったりとしたスローテンポの子守唄のよう。初めて耳にする旋律だったが、どこかで聴いたことのあるような懐かしさ。この部屋を漂う香りと相まって身体の力が緩やかに抜けてゆく。程よく緊張感が解れ、心地よい波が幾重にも押し寄せてくる。

 やがて、マリアは嬉しそうに手元の紅茶に視線を移した。

 やはり、そうだったのか。と、悲観的に思った時には遅く、結子の瞼が一気に重くなった。なだらかな坂道を下るように甘い眠りに誘われてゆく。最早、無駄な抵抗にも思えた。抗えば抗うほどに奥底に引き摺り込まれる。それでも尚、薄れゆく意識の中、気力を振り絞って、結子は顔をあげた。


 ──不束な娘ですが、どうぞ「いち華」をよろしくお願い致します。


 そう云いながら、マリアは畏まった姿勢で、ゆっくりと頭を下げる。

 ……まさか、嫁にでも出すわけでもあるまいし、後の事は任せるという意味なのだろうか。その途端、視界は一気に狭まり、真っ暗な闇に包まれる。まるでテレビの電源を落とすが如く、そこでプツリと、記憶は途切れてしまった。

 ……ただ、マリアが口ずさむセイレーンのような美しい歌声だけは、延々といつまでも響き渡ってゆく。波間を漂うみたいに、ふわふわと結子は揺れていた。やがて、その音は、どこまでも果てしなく広がり続け、荘厳なハーモニーを奏で始める。時に優しく、時に切なく、そこは「完全なる静寂の世界」だった。

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