肆の11
今迄とは打って変わって、結子の顔つきが徐々に神妙になってくる。
誰であろうと自分を出し抜こうとしてきたのだ。追求をの手を緩める訳にはゆくまい。例え、相手が誰であろうと徹底抗戦で臨むしかないのだ。なにしろ、弁護士は非常に因果でヤクザな商売でもある。無駄に恨まれることはあっても、感謝されることは少なかった。
自業自得、因果応報、好きに罵ればいい。しかし、魔女の傘下に入った時点で、いつ殺されてもおかしくはない立場だった。後悔ならば、
ただ、金を稼ぐというのはつまり、そういうことなのだ。
骨身を削り、魂をすり減らし、危ない橋を何度も渡り、往復する羽目となる。そのうち、何が正しいのか悪いのかさえも分からなくなった。自ずと、善悪の基準すら曖昧になる。それでも尚、この仕事を続けているのは、法の番人としての誇りがまだ残っているからなのだろう。
……いや、そんな口当たりの良い綺麗事など、どうでもいい。要は、やるか、やらないかの差だ。それ以上でも、それ以下でもなかった。理由なんてものは、後から自然についてくる。答えなんて、後からどうとでも言い換えられる。それらしい「都合の良いストーリー」を当て嵌めてやればいいのだ。
だが、仕事を請けた以上は、最期までやり遂げてみせる。それだけが、結子が持つ唯一の矜持と云えよう。事務所を構えて偉くなろうが、いくら大金を稼ごうと、その姿勢だけは何一つ変わらない。目の前に立ち開かる仕事に、全身全霊をかけて挑むだけだった。
何気なく髪を耳に掻き上げると、結子は書類のページを開いてある項目の欄を指す。続けて、自らの意志を込めるようにボールペンを強く握り締めた。
「ええとですね。備考の欄なのですが、訂正してもらいたい部分が一箇所ありまして……。よろしければ、一筆書いて頂きたいのです」
「えっ? ここでしょうか?」
「お手数をおかけして、申し訳ありません」
ほんの僅かだが、しず江に動揺した面持ちが垣間見れる。これは、読み通りだったかもしれない。
──それと、もうひとつ。魔女は「致命的」に字が下手なのだ。
悪筆と云っても過言ではないほど、ひどく歪な文字を書き、とても読めた代物ではない。特に、漢字に関しては大の苦手だったと記憶している。書いた本人すら読めないという話すのだから、かなりの重症だろう。其れ等は全て、魔女の一族に共通する大きな特徴のひとつでもあった。
もし、彼女がマリアであるとするなら、同様の癖が見て取れるはず……。
万が一、違っていたとしても、これは単なる手続きの一環でしかない。それに、相手が普通の人間ならば、まだやりようはあるというもの。後は、魔女の回収班が到着するまで猿芝居を続けるのみだった。
「なんて、書けばよろしいですか」
「そうですね、ここからここまで線を引っ張ってもらってから……、訂正印として、本名をフルネームでお願いします」
「……あの、印鑑でも構いませんでしょうか?」
「どうしました? なにか、問題でも?」
ゆっくりと詰め寄り、したり顔で見つめ返すと、しず江の表情が一気に強張る。明らかに、図星を突かれたような反応だった。加えて、文字を書類に書きたがらない様子からして、彼女がマリアである確率もいっそう高まる。
張り詰める空気と緊張感。ペンを握ったまま彼女は固まってしまい「ああ、ええと……、うーん」と、眉間に皺を寄せて、暫く思案しているようでもあった。時折、壁時計の方へ目を寄せている。時間稼ぎのつもりなのだろうか。意図は不明だが、時計の針をやたらと気にしていた。
やがて、「やっぱり、人任せはダメよね……」と、しず江は大きな溜め息を吐く。
ようやく観念し始めたのか、結子はあえて言葉を返さなかった。ただじっと、正面から彼女を見据える。少し苛つくように、しず江は机上でペンをコツコツと叩く。そうして、彼女は言われるがまま、指定された箇所に綺麗な横線をすっと引いた。しかしそれは、歪みのない見事なまでの一本線だった。
そんな筈ない。思わず、我が目を疑う。まさか、マリア本人ではなかったのか。
とてもじゃないが、文字が下手な人間が引ける線とは思えなかった。従って、彼女は魔女ではなく、独狼側の人間だったと云うことになってしまう。
たらりと頬につたる汗。結子の脳裏に戦慄が走る。当初の推理が大幅に外れてしまっとなれば、対応の仕方も要所要所で変えねばならない。しかし、情報の速さが売りでもある魔女が諜報戦で裏をかかれるなど、果たしてあり得るのだろうか。
もし、疑うとするのであれば「いち華」ぐらいしか考えられないが、余りにも現実離れした発想にもなる。そもそも、前提からして、全てが覆ってしまうではないか。
そして、慌てた素振りが表に出てしまったのか、しず江が勝ち誇ったかのように、不気味な笑みを浮かべたのだった。不味い。下手に此方の意図悟られると、この場で消されてしまうかもしれない。
……だが、そんな不安とはよそに、しず江は残念そうに小さく唸る。そして、静かに目を瞑った。「もはや、これまでみたいね……」と、彼女は低い声で呟き、不器用な手付きで、よろよろとした平仮名を書く。それは、ミミズが死んだような文字だった。
──まりあ。
「はいっ! お見事でした! もう、お手上げですっ!」
すると、マリアは此方に向かってパチンっと指を鳴らす。
その刹那、呆気に囚われている結子の脳内に鐘の音が一斉に響き渡った。天蓋から降り注ぐ光の如く、頭上を照らされるような感覚に包まれる。心地よいまでの目眩……。霞がかっていた視界は透明度を増し、どこまでも澄み渡っていった。
霧が晴れたような清々しさ。憑き物が落ちたように肩も軽くなる。まるで、背中に羽が生えたような気分だった。
そして、目の前には、絶世の美女が雅に鎮座している。
──間違いなく、本物の魔女だ。
完璧に計算され尽くされたように配置された美しい目鼻立ち。小顔で、きめ細やかな白い柔肌は、北欧の真っ白な雪原を彷彿とさせる。紅くて薄い、気品溢れる艶やかな唇……。その中でも、一際目立つ鳶色の大きな瞳は、彼女の力強い意思とカリスマ性を象徴していた。
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