肆の10
タテヨミは、横書きの文章の頭文字を順に読んで行くと、短い文章になるという単純なものだが、ネットでは相手を揶揄う時に用いられる手法でもあった。
現代っ子らしい、いかにも彼女らしいチョイスであったが、世間の流行毎に疎い結子にとっては痛いところでもある。だが、そうやって若い従業員たちにも支えられてきたのだ。まさか、自分が毛嫌いしているネット文化に助けられるなど、夢にも思っていなかったが……。
ただ、急に二人きりにされたせいか、どうも居心地が悪い。
人見知りが出てしまったのか、なんだか気恥ずかしさだけが残る。それは、しず江も同様だったようで「新しい、お紅茶を淹れてきますね」と、ぎこちなく席を離れた。
だが、これはちょうど都合がいい。その隙を見計らって、結子は再び手元のスマホに視線を送る。そして、その文字列を縦に読み取った瞬間、ユキの思いがけぬ指摘に目を丸く見開いたのだった。
──とんだ盲点だ。何故、この違和感に気づかなかったのか。
幸い、まだしず江はキッチンでお湯を沸かしている。結子は、さり気なく養子縁組の書類を見直すふりをする。そして、部屋中に置いてある家具を慎重に見極めたのだった。
二人掛けのソファ、テレビ、エアコン、時計、そして絨毯やマット……。
はたまた、キッチンにおいてある冷蔵庫や電子レンジに至るまで入念に目を凝らす。特に、いま座っている椅子と机の細部を重点的に見て、おかしな部位がないかを探す。……やはり、ユキの指摘どおりだった。
途端に、背筋が凍りつく。悪寒にも似た寒気だ。結子はキッチンにいるしず江に視線を送り警戒心を強めた。おとなしい顔をして、とんでもない女だ。
こんなことなら、ユキを先に行かせるべきではなかったと後悔の念も過ったが、若い従業員を危険な目に晒すよりはマシだろう。それに、自分が請けた以上は、責任者として最期まで見届ける義務がある。因果なもので、逃げようとも逃げれぬ身なのだ。
だが一体、何の目的があってこんな真似をしたのが理解ができない。
そもそも、この女はしず江ではないのだろうか……。いや、そんな筈はない。どこからどう見えても、この女は写真に映っている人物そのものだ。もし、間違っているのあれば、彼女の見え方であり、自分の認識の方なのではなかろうか。
──馬鹿げている。映画でもあるまいし、あり得ない話だ。
……ただ、引っ掛かる点がひとつだけある。それは、車内でユキが急発進したときの出来事だ。あの瞬間だけ、はっきりとしず江が別人に視えたのだ。疲れによる目の錯覚にしては、出来過ぎた事象でもある。
魔女と関わる時は「常識を疑え」と故人から厳しく教えられたものだが、これではベクトルがまるで違ってきてしまう。だが、仮に彼女が『リッチ・マリア』であったとしたら、こんな離れ技を難なく披露してみせるもしれない。加えて、結子は古い魔女が妙な催眠術を遣う噂もどこかで聴いたことがあった。
要は、物は試しだ。結子は胸元からしず江の顔写真を素早く取り出して、何気ない顔をしながら咄嗟に見比べてみる。ところが、特に目立った変化は見当たらない。ただ、どういう訳なのか、得体の知れない目眩がする。どう言う訳か、強引に視覚を誤魔化されているようだ。
例えるならば、草食動物に無理やり肉を食わせてるよう気持ち悪さがあった。これは、決して勘違いや、気のせいの類などではない。誰かが施した作為的な違和感がある。
今度はより集中し、深呼吸して精神を整える。そして、しず江に勘づかれないよう、何度も何度も、しつこく繰り返す。そうしているうちに、しず江の顔がモーフィングして見える瞬間があることに気づいた。軽い吐き気にも襲われ、結子は思わず口を抑える。
──やはり、何かされていたのだ。
でも、いつ? どうやって? 仕掛けるにせよ、そんな短時間で催眠術などかけらるものなのか。催眠治療を研究している知り合い曰く、漫画のような催眠術は不可能だろうと笑いながら話していたからだ。だが、魔女たちは人より寿命が大幅に長く、この分野において研究が長けていてもおかしくはなかった。
浮かんでは消えてゆく疑問を他所に、しず江が陽気な顔をして、嬉々としてテーブルへやって来る。一体、何をそんな浮かれているのか、臨機応変に対処せねばならぬ場面であり、此方はそれどころではない。
暢気なものでティーポットを片手に「この、お紅茶なんですけど、本当に美味しくてお勧めなんですよ」と、明るく伝えるのだった。
カップに紅茶を注ぎながら、あっけらかんとした表情を向けられてしまうと、今までの調子まで狂ってしまう。折角の緊張感を台無しにする一言でもあった。
結子はヘラヘラと愛想笑いを浮かべて、この窮地を脱する方法を懸命に模索する。まず、このまま回収班が到着するまで、世間話でもして会話を引き伸ばすのが得策なのかもしれない。だが、問題となるのは、彼女がマリアなどではなく、独狼側の刺客である場合だった。
万が一の可能性だが、彼女が回収班に保護されてしまうと、魔女たちの隠れ家が明るみになってしまう恐れもある。更に、之彦がまだ姿を現さないのも気掛かりだった。……まあ、そうなったところで、独狼との揉め事に過ぎず、痛い目に遭うのは魔女たちだけ。これは、実に喜ばしいこと。
とはいえ、魔女のところへユキを遣いに出してしまった手前、後から色々と難癖をつけられるのは火を見るより明らか。未然に防がねば。最悪、彼女らを怒らせてしまえば、本気で手がつけられなくなる。今更な話ではあるが、日本はおろか、世界が破綻する勢いで暴れ回ってもらっては困るのだ。
故に、どうにかして、目の前の彼女が何者であるか暴く必要があった。
彼女がしず江ではないのは、ほぼ確定している。せめて、マリアかどうかだけでも、この場で確かめねばならないだろう。必死で思考を巡らせ、結子は打開策が無いものかと、注意深く周囲に目を配った。
「あら、どうかしましたか? 顔色が優れないようですけど……」
「そ、そうですか?」
えへへへ、と態とらしく笑い、結子は淹れたての紅茶を一気に啜った。
紅茶になにが混入されてるか分かったものではないが、ここで飲まなければ余計に不自然に思われる。修羅場において、ハッタリを咬ますのにも命懸けなのだ。
起死回生を狙える逆転の一手は他にないものか。いま、この手に日本の命運が握られているようなもの。その一瞬、その瞬間が、時の勝負なのだ。しかし、必ず策はみつかるはず。いつだって、そうやって難局を乗り越えてきたではないか。
探せ、探せ、必死に探すのだ。結子は己に云い聞かせるように目を見張ると、手元の書類の束が視界に入った。何故だろうか、そこから強烈なまでに目が離せなくなった。根拠は分からずとも答えはここにあるような予感がする。直感に従うのであれば、女々しく迷ってる場合ではなかった。
──考えろ、考えるのだ。魔女に必ずある特徴とは、果たして何なのか。
その刹那、結子の脳裏に雷が落ちるような電撃が走った。
まさに、アハ体験と云えるような奇跡の閃き。全ての点と点は、今ひとつの線を描いて繋がっていたと思い知ったのだった。やはり、持つべきものは仲間だ。こればかりは、ユキに感謝しなければならない。いける、これならいけるぞ。彼女を選別できる術は、目の前に転がっていたのだ。
結子は、小さくほくそ笑むと、書類の束を綺麗に揃える。そして、パラパラと紙を捲り、ある位置でおもむろに手を止めた。いかにも、書類の不備を見つけましたという体裁のまま、穿った見方のように彼女を二度見する。
──あったではないか。彼女を「魔女」たらしめる動かぬ証拠が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます