肆の9
しず江が住むマンションはリビングを別として部屋が三つもあった。
逃亡先としては、まさに至れ尽くせり。彼女の話によると、家具や電化製品を含め、其れ等の生活必需品は一通り揃っていたそうだったのだ。
つまり、身一つで逃げてきたのにも関わらず、その日のうちに住めたと云うことにもなる。事前に部屋を準備していたのだろうか、入念に再調査すれば逃走を手助けした人物の手掛かりぐらいは掴めるかもしれない。
そして、その人物こそが、いち華の産みの母であるマリアである可能性が高かった。魔女たちの間では『リッチ・マリア』と皮肉られるほどのぶっきら棒な魔女であり、三十年ほど前から忽然と行方を
例の「青海組惨殺事件」とは、マリアの失踪とちょうど時期が重なるわけだが、魔女と独狼を結びつける接点は今のところ見当たらない。ただし、惨殺事件の収束に
部屋の向こうから、ガタガタと引っ切り無しに物を漁る音が聞こえる。
探すのに手間取っているのか、しず江の甲高い声が木霊する。しかし、魔女に渡したい代物というものが何処か不気味だ……。想像するに、マリアからの差し金に疑いの余地はなく、独狼と争いの火種になるのはまず間違いなかった。
一方、ユキは亀のように首を伸ばして茶菓子を齧り、しず江のいる部屋の方を時々伺っている。包み紙を
結子も堪らず「なによ?」と、先程の書類に目を通しつつ、面倒臭そうに老眼鏡を外してみせた。
「自分、しず江さんがブツを持ってきたら、すぐ魔女さん達に渡しに出てもいいッスよ?」
「どうしたの? やけに気が効くじゃない」
左右を見渡しながら、ユキはこっそりと呟く。「い、いや、いま気づいたのですけど……、なんかこの部屋ってちょっと変じゃないすかね?」
「ええっ!? 変って……」と、結子が少し言い掛けた寸前のところで「あった、ありましたよっ!」と、しず江が安心した面持ちで奥の部屋から飛び出してきたのだった。まるで、鬼の首でも取ったかのように探し出したものを掲げていた。
慌てて結子は体裁を取り繕ってしず江に引き攣った笑顔を向ける。
すると、此方の場の空気を察せられるより早く、ユキが間髪入れずしず江の元へと駆け寄った。
「それが、探していた例の物ですか!?」
「写しのレプリカですけど、貴重な物なので、丁重にお願い致しますね」
「へええ、ちゃんとした入れ物なんスねぇ」
気軽にユキがそう話掛けると、しず江は若干驚いたように、此方の方に視線を移す。その手には、古い桐箱が大事そうに抱えらている。どうやら、譲渡の判断を自分に委ねたいのか、結子は頭の中で一拍置いてから「それでは、少し拝借致します」と、恐縮しながら桐箱を受け取った。
その桐箱は薄汚れていて、年代ものの風格を醸し出している。
いつの時代に書かれたものかは定かではないが、結構な達筆で『秘薬の巻』と書かれていた。箱は布の紐できつく結ばれ、厳重に密封されている。
「確認の為、中身を拝見してもよろしいでしょうか?」
結子がそう云うと、しず江がゆっくりと静かに頷く。「もちろん、構いませんよ」と、器用な手つきで紐の結び目を解いて、そそくさと桐箱を開けたのだった。
中には使い古された太い巻物が二本……。それぞれ上下巻に分かれており、端々がところどころ切れている。初見でみる限り、普段から写しでもあるレプリカの巻物を優先的に使用していたのだろう。それにしても、大事な巻物を勝手に持ち出せるのであれば、之彦が組織の中枢に在籍していたようなもの……。
控え目に云っても、驚愕の事実だ。以前は、あれだけ堅牢な体制を貫いていた独狼がこの体たらく。……で、あるとするならば、それだけ社会全体としての締め付けが効いていた証拠なのだ。
あらゆる法や規制は、真綿で首を締めるように彼等を追い詰めていたのか。ひょっとすれば、魔女たちが想像するよりも、かなり以前から衰退していたのかもしれない。
──
仕事としても、これを逃がす手は他にないだろう。計らずしも笑いが込み上げ、思わず口元が緩む。そして、喜びの感情を悟られないように、淡々とした語り口調で質問を返したのだった。
「参考として、お聴きしておきたいのですが、この巻物の用途とは?」
「ええとですね……。熊の本能を抑える秘伝のお薬ってところですかね? そんな風に之彦さんから伺っています」
秘薬についてはあまり詳しくないのか、しず江は顎に指を充て、おっとりとした様子で小首を傾げる。次いでに釣られてしまったのか、何故かユキも後ろで首を傾げていた。
「要するに、熊を大人しくさせる薬って感じでなのでしょうか」
「……というより、お薬で上手く言う事をきかせて、熊を操るらしいです。例えば、神事で舞いを踊らせたりとか、人間を脅かしたり、襲わせたりとか?」
「ひ、人を襲わせるのですか?」
能面のような顔をして、何ともさらり恐ろしい事を云う。
しかしながら、青海組惨殺事件において、獣に襲われたような記述があったのは、結子もよく覚えている。これについては、魔女たちも眉唾ものの話だと信じていなかったようだが……。ただ、仮にこれが本当だった場合、彼女らも上へ下へのと大騒ぎになっていることだろう。
本音で云えば、結子はサーカス小屋の熊程度にしか思っていなかっただけに、
「……ユキちゃん、悪いけど今すぐこれを魔女たちに届けてくれるかな。場所は知ってるわね?」
「合点承知っス。その前に、自分のスマホに許可用のパスコード送ってくださいな」
片眉を上げながら、結子はスマホから緊急用のパスコードを送る。
魔女は何かと用心深く、接見するだけでも大変な手間がかかるのだった。普段なら、こんな簡単な手続きではいくまい。ただ、魔女と繋がりが深くなった人物のみ、許されている特別なパスコードでもある。結子自身、他人に発行するのは久しぶりだった。
ユキは目視でそれを確認して「それでは、失礼します」と、軽く会釈してから桐箱に手を伸ばした。一瞬、しず江は少々困惑した表情を浮かべたが、結子が「どうぞ、お任せくたさい」と、
「しず江さん、吉備所長。それでは、お先に失敬するっス」
「安全運転でね。事故には重々気をつけるのよ」
ういっス、とユキは片手を上げ、火事場泥棒のように脱兎の如く走り出す。一秒でも早く魔女に届けなければという使命感に駆られて……というよりは、危険な場所から一目散に逃げ出したいと焦りしか感じない。全く、現金な女だ。
故に、ユキが先程ぽろりと口にした言葉が妙に引っ掛かる。
──確か、この部屋が何か変だと話していた。
一体、どこに違和感を感じたのだろうか。結子は合間を紛らわせる為に、冷めかかった紅茶を再び口に運ぶ。そしてふと、ユキに出されていたティーカップが目を入ると一切口をつけてないのに気づいた。
あれは人に気を遣うとか、遠慮をするとかできる女ではない。出された物は何で食うし、何でも飲む。かといって、結子にサインを残せるような狡猾さがあるわけでなかった。ただ、状況を鑑みる限り、随分と早い段階から異変に気づいていたのだろう。
惚けた顔をしておいて、本当に抜け目のない子だ。大概の人間はあの見た目に騙される。それとも野生の勘に近いのだろうか……。加えて、結子もユキに対して偏見の目が少なからずあったのだろう。そこは、反省せねばならない至らない点だった。彼女は自分が思っているより、ずっと賢いのかもしれない。
すると、ユキから言伝のように一通のメッセージが届く。
一見するとただの業務連絡だが、おしかなところで文節が区切られて改行されていた。そう云えば、似たような文章のネット記事を見せられて、ユキがケタケタと笑っていた記憶がある。くだらぬ話題だと、結子は袖にしていたのだが、恐らくはその類いだろう。
──それは所謂「タテヨミ」という電文だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます