肆の7

 ──大型住宅マンションの十八階。

 ベランダから望む夜景は美しく、C葉駅にかけて摩天楼ように輝くネオンを彷彿とさせた。再開発によって道幅も広がり、国道に面している店舗や建物も徐々に増えつつある。次々と往来する車の灯りが、煌びやかな街並みをシステマチックに彩り、未来都市の一端を華々しく演出していた。

 通信局の電波塔もあちこちに建設され、本格的なネットワーク社会の到来も予感させる。至る場所に設置されている機器の数からみても、そう遠くない将来なのだろう……。

 昔はもっと薄暗く、辛気臭い風景だったと記憶していたが、地域を象徴していた古い工場は見る影もなくなり、次々とモダンな商業施設へと生まれ変わっている。電柱ですら歩道から取り除かれ、空は大きく広がるばかり。しかし、そんな時代の流れに辟易としてみたところで、過ぎ去りし日々が戻ってくるわけでもない。それはもう、遠い昔のように思えてならなかった。

 嘆息しながら電話を切り、結子はつい癖で腕時計を見てしまう。

 時針も十九時を周り、今日も帰宅が遅くなりそうだ。無駄な気怠さだけが残り、うっすらとした倦怠感が肩に纏わり付く。身体が鉛のように重く感じるのも疲れのせいなのだろう。

 息子と遣り取りも終ぞ、旦那たちと夕飯を食べるということで落ち着ちついてしまい、急いで帰る必要もなくなった。しず江を迎えにくる予定のセキュリティサービスの連中も素っ気なく、愛想もない。それどころか、決して逃すなと遠回しに脅してくる。

 結子は、項垂れた様子でスマホをしまい、しず江とユキが談笑するリビングへと足を向けた。あれだけ家庭を大事にする言いつつ、結局は仕事を優先させてしまっている。息子に申し訳が立たない手前、何か有効な対策を考えたないといけないだろう。……やはり、家政婦でも雇うしかないのかと、ベランダからリビングに通じるガラス戸を弱々しく開けた。

「いや、マジで魔女たちって字がドヘタなんすよ。なんか、漢字や平仮名がめっちゃ苦手らしいです」

「そ、そんなになの?」

「もう、幼稚園児みたいな字を書くから、びっくりしたっス。でも、しず江さんは魔女とは違って、とても字が達者すね」

 キッチン横に設けられたテーブルでは、しず江を対面に据えてユキが余計な話を交えながら書類を逐一チェックしていた。これは、しず江が予め書いて用意しておいた養子縁組の書類でもある。どうやら、裏で駆け落ちを手配した人物から、事前に書かされたものらしい。

 ……つまり、いずれ魔女たちが「いち華」を引き取りにくる状況を見越していたのだろう。その人物に心当たりはあるものの、この場でその名前を出すのは些か憚れるものがあった。……とは云え、避けて通れぬ話題になりそうだ。

「ユキちゃん、どう? 記入漏れとかはなさそう?」

「……誤字脱字は特に見当たらないでスね。こっちの書類も表記漏れもなさそうっス」

 と、ユキは書類の束を結子に寄越してくる。

 最終的な確認は自分でしなくてはならないが、ぱっと見た感じは問題なさそうだった。結子は鞄から老眼鏡を取り出しながら、億劫そうに書類を受け取る。

 各種手続きについては、本人の許可を得て代行もできるのだが、これだけ抜かりなく書類を揃えてられてしまうと、逆にやり難いものがある。出来れば、此方が揃えてきた書類に書き直させたいところだが、時間的に余裕がなく、先に書かれた書類を利用する他なかった。

 今後、迎えが来て魔女の所有するセーフハウスに移動してしまうとなると、しず江にも連絡が取り辛くなってしまうからだ。その隠れ家は結子にすら知らされておらず、ほとぼりが冷めるまでは丁重に保護される手筈になっている。なんせ、魔女たちが直接管理してる場所だ。日本でならば、最も安全かもしれない。

「すみません、いきなりこんな物を渡してしまって」

「いえいえ、返って助かります」と、社交辞令気味に言葉を挟んでから「ところで……」と、結子は周囲を見渡してから話題を変えた。

 しず江は「ああ、はいはい。之彦ゆきひこさんね?」と、いま気付がついたように手を叩く。

 だが、少々ばつの悪そうな顔をする。そして、やや気不味そうに視線を外しながら「多分、またパチンコに行っていると思います……」と、申し訳なさそうに頭を下げたのだった。

 直ぐ様、おおよその事情を察した結子は横目で合図を送り、ユキはそれに脊髄反射するかのように咄嗟に言葉を返す。

「パチンコ、いいっスねえ。あ、あたしもたまに打ちますよ?」

 と、パチンコのハンドルを回す仕草をしてから、台のチャンスボタンを連打する変なポーズをとる。さすが、ユキは世俗にまみれているだけあってこの手の話題は扱いやすい。しず江もつい釣られてしまい、苦笑いを浮かべた。

「さっき、連絡を入れたんで、すぐにでも帰ってくると思うのですが……」

「それなら、ご心配ありません。まだ色々と、しず江さんにお伺いしたいこともありますので」

 結子は出来る限るの笑み浮かべ、それなりの体裁を繕ってみせたが、之彦ゆきひこうだつの上がらない駄目な男なのは噂通りのようだった。ちなみに、この『之彦』と云う男が、しず江の駆け落ち相手であり、本事件を引き起こした張本人でもある。

 魔女の情報によると、大学を中退した以降も社会に馴染めず職を転々としており、最近に至っては精神的にも不安定、親類のコネで入った職場も休みがちになっているとのこと。

 別に、珍しい話でもない。どこにもでも転がっている話だ。ただ、多くは語らずとも、之彦の人間性が透けて見えてくるようだった。だが、どうしてそんな男が、しず江のようなモテる女性と一緒にいるのか……。

 事情も詳しく聞き出して来いとの命令でもあったが、生憎、色恋沙汰については専門外でもある。別のうまい切り返しはないものかと、気を揉んでいたところ、先に口を開いたのはユキの方だった。

「ところで、なんで駆け落ちになんかになったんでスかい?」

 すると、しず江は頬に手を充て小首を傾げながら「話せば長くなるのですけど、そうですねえ……」と、何とも困惑した表情をする。

 どう経緯を説明すればいいのやら、突然の訪問で気持ちの整理もついていないのかもしれない。動揺するのも無理はない。半ば強引に押しかけてしまったようなものだ。そこで、結子は補足する感じで言葉を付け足したのだった。

「しず江さん。村々の事情でしたら、魔女の方からも話を聴いております。とくに、『独狼』という武装組織についても情報が入ってきておりますので……」

「ああ、ご存知でしたか。それなら、事件の発端を正直に話しても大丈夫なのかな?」

 などと、宣うのだが、それでもしず江は少し浮かない顔をする。この期に及んで、いったい何を勿体ぶって躊躇する必要があるのか。それどころか、少し笑ってしまっている雰囲気すらある。

「なにか、他に都合が悪い点でも?」

「いや、その、なんて言いますか……。非常に言い難い《にく》のですが、どうか笑わないで聞いてくれるとありがたいです」

「ど、どういう事なんでしょうか?」

 思春期の中学生のように俯いたかと思うと、しず江が今にも吹き出しそうな顔をする。なにがそんなに可笑しいのか、ユキまで興味津々と落ち着きなく期待を膨らませていた。

「ずばり言いますと、全ての諸悪の根源は……」

「……こ、根源は?」

 と、二人は小さく頷きながらしず江に刮目し、生唾を飲みながら結子とユキは図らずとも同時に声を合わせる。しんと張りつめた緊張感と空気が二人を支配するなか、満を持してその真相がついに語られたのだった。


 ──「実は、之彦さんの『』が原因なんです」

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