肆の3
妻子ある身でありながら、いい歳したおっさんが黒いネズミの耳をつけて何をはしゃいでいるのか。これでも、かつては古狸の中枢を担っていたほどの逸材だっただけに残念でならない。村田が大の女好きなのは知っていたが、これも含めて老いと呼ぶべきなのか、なんとも情けない体たらくぶりだった。
「……誓って言うが、あんなちゃんとはプライベートな関係なんだよ。それだけは、理解してほしい」
「知らんさ、人間は見たいものを見るからな。別に、真実が見たいってわけじゃない。そんなことは、あんただってよく知ってることだろう?」
「しかしだな、あくまでも親しい友人であって、疚しいことは一切してないぞっ!」
「なら、巻き込んでやるな。彼女が可哀想だろ」
全く、どのツラを下げてそんな綺麗事を云うのか。親指の爪を噛みながら、村田は凄まじい剣幕で申木をじっと睨みつけている。紛うことなき、不平不満の現れでもあったが、その意味は語らずとも重々承知の上だろう。
真実がどうであれ、人は水と一緒で低きに流れるもの。庶民たちが何を欲して、何を捌け口にするのか、普通の生活していれば大体の想像はつく。それに、掲示された写真は村田一人を貶めるには十分すぎる材料だった。
「悪いが、魔女たちは諜報、情報操作の専門家だ。捏造、偽造、不正、なんでもござれ。あんたがどこを頼ろうが、まず勝ち目はないだろうな」
「……呆れたものだな。こ、これは脅しのつもりか?」
電子煙草のカートリッジを震えた手で入れ替えているものの、額には脂汗がじっとりと滲んでいる。本来ならば、女遊び程度でどうこう騒ぐ話題ではなかったが、相手があの魔女なだけに気が気ではないだろう。
しかし、いくら身から出た錆とはいえ、この局面でも咄嗟に屈さないのが古狸の気骨でもある。恐らくは、時間を稼ごうと限界まで粘ってくるだろうが、魔女たちが描いている「本懐」はそこではなかった。
「そう、先を急ぐな。これは脅し文句の類にも聞こえるかもしれないが、半分はそうじゃない」
「半分は……、なんだって? どういうことだ?」
「いま、PDFにした資料を送る。とりあえず、それに目を通してくれ」
……すると、村田の上着からピコリと着信の音が響く。
いつの間に自分の携帯番号やアドレス入手したのやら。それすら、尋ねる気が失せたように老眼鏡を耳に掛けると、訝しげな表情でスマホ画面に目をやった。
添付されてきたファイルには、とある診療所で産まれた乳児の記録が詳細に綴られている。他人の戸籍操作を得意とする者なら、その書類が本物と直ぐに分かるはずだ。更に、保証人の欄に記載された住所と名前をひと目見た途端、村田は思わず口を押さえて言葉を失った。
「まさか、太田幹事長に隠し子がいたってことか?」
「非摘出子だが、実の子なのは確かなようだな。ついでに調べてみたが、他に子供は見当たらない。所謂、一粒種ってやつだ」
「……驚いたな。表も裏もないような御人だぞ」と、村田は送られてきた書類と申木を交互にみながら、執拗に目を配られせていた。
「あんたは、太田幹事長に随分と贔屓にされている。見返りを期待せず、下手な詮索をしなかったのは正解だった。信頼に関しても申し分ないだろうよ」
話を聴いているのか、聴いていないのか、村田は信じられない様子で書類に食らい付いている。出来るだけ細かく精査して、画像に怪しい箇所がないか自らチェックしているのだろう。
どうやら、暫く時間が掛かりそうだと、申木は腕時計に目をやった。時計の針は十九時を回っている。
既に魔女御用達のセキュリティ会社「LIP」の第一陣が装備を揃えて向かっている。第二陣も準備中だ。そして到着まで、あと一時間もかからないはず。
それまでに形式だけでも村長を口説き落とし、使用許可を取らないとならなかった……。
加えて、問題はそれだけではなかった。村田は村にとって、表向きのお飾りに過ぎず、その背後には『
昔から異質な文化背景を有し「この地域だけは絶対に手を出すな」と、きつく云われてただけに、申木にとっても寝耳に水な話でしかない。出来ることなら、極力避けたいと願っていた場所でもある。
「おい、この子は何処にいるんだ。是非、教えてくれっ!」
「んっ? ああ、そうだったな……」
と、申木は再びスマホを手に取り「ほら、この娘だよ」と、一枚の画像写真を顔の前面へと押し出す。その刹那、村田の目が点となった。まるで、狐か狸にでも化かされてような顔だった。
「……う、嘘だろ!?
「いやいや、ここで嘘なんてついてどうする」
「だって、これ『あんなちゃん』本人じゃないのかっ!? いずれは、秘書にでも考えてはいたが……。こんな、偶然ってあるのか!?」
──正直なところ、この事実については魔女も申木も困惑していた。
なぜなら、村田が太田幹事長と杏奈の血縁関係を知った上で彼女に近づいたのではないか……? と、当初は勘ぐっていたからだ。もし、そうであれば、事前交渉の効力は半分になってしまう恐れも出てきてしまう。
だが、村田の心理傾向を慎重に見極めた結果、その線はないだろうと、直感的に判断したまでのこと。伸るか反るかは運次第ではあったが、肝が冷える心情でもあった。
「さあ、村長さん。ここが正念場だ。二者択一、素直に協力してくれるのであれば、今後も魔女からの全面的なバックアップが受けられる。しかし、断ればあんたの未来は暗澹たるものになるだろう」
「……しっ、しかしだな。申木さん、彼等がどういう連中か知っているでしょっ? 最悪、私はこの世から消されてしまうかもしれない」
ただ、村田の焦燥や不安はごもっともだ。申木は勿論、魔女たちでさえ内心は厄介だと思っていた。
「
その凄惨な殺戮現場は現在でも有名で、昭和最後の怪奇事件として語り継がれてしまっている。事態の収拾にあたり、裏で「天狗」がその陣頭指揮を務め、強力な「暴対法」を政府に施行させるまでの理由に至ってしまったほどだ。
要約するのであれば、日本の調停役を務める天狗でさえ日和らせてしまうほどの影響力を独狼は有している。それは触れてはならない日本の禁忌であり、単純に暴力だけの話では済まされない。地域には何百年も前から脈々と継承されている「裏の歴史」があるということだった。
「村田……、いや、田村さんよ。進むも地獄、退くも地獄、どうせ同じ地獄なら、可能性がある方に賭けましょうや。あんなちゃんの将来だって、守ってやりただろう?」
「ああっ……くそっ……。もう! わかったよ! やればいいんだろ、やればっ! 槍でも鉄砲でも、村に好きなだけ持って来いってんだっ!」
薄くなった頭髪をくしゃくしゃにして、村田は勢いよく啖呵を切る。
不運なのか、幸運なのか、状況が未だよく理解できていないのだろう。ただ、古狸もそれなりの意地がある。何よりも、己の利益に繋がるるのであれば、提案を断る道理など存在していないようなもの。
次第に腹が決まってきたのか、細い目つきが徐々に据わり始めてきている。最早、そこに温厚な村長の姿はなく、戦に赴く古狸の面持ちに変化していた。ようやく本調子になり、化けの皮が剥がれてきたのだろう。
そして、最終的な意思を確認するかの如く「早速だが、独狼の長老に電話をかけてもらいたい」と、申木は緊張気味にスマホを差し出す。村田は暑そうに首元のネクタイを緩めると、此方を一瞥してから、渋々とスマホを受け取ったのだった。
──「なあ、アケガラスよ。本当に大丈夫なんだろうな……!?」
──「ビビって芋を引くなよ古狸。毒を食らわば皿までだって云うだろ?」
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