参の10

 それでは、失礼を致します。と、いそいそと頭を下げて、結子は冷や汗をかきながら逃げるように現場を後にする。悠長に手間をかけ過ぎたのかもしれない。

 幸い、買い物中に送られてきた魔女からの情報があったからこそ、対処できたものの、その援護射撃がなければどう転んでいたかは予想もつかなかった。再び、エリスに借りを作ってしまったような気もするが、今回ばかりは感謝するしかなかろう。

 若干は辟易しつつも「今度こそ、参りましょうか」と、名残惜しそうにしているしず江をその場から引き剥がして、車の後部座席へと強引に押し込む。ちらほらと、不死者のように熱い視線を送る男性店員たちが散見されていることから、すぐにでも退散した方が良さそうだった。

「ユキちゃん、車を出してちょうだい」

「あいあいさーっ!」

 乗車すると同時にユキがアクセルを強く踏み、急発進する車の遠心力で身体が振り回される。後部座席から悲鳴が聞こえるしず江を横目に、助手席のシートベルトをつけるのに精一杯だ。万華鏡のように移り変わる外の景色を見て、結子は思わず声を張り上げた。

「ちょっとっ! ユキっ! スピード出しすぎよ!」

「えっ! あっ? あいっ!」

急激に減速した勢いで、今度は前に押し倒される。バックミラー越しから見えたしず江も凄い形相をしている。だが、その一瞬だけ、何故かしず江の顔がまったくの別人、〝他人の顔〟に映ってしまったのだった。しかし、取り間違えて別の女性を連れてきてしまうことなどあり得るはずがない。関係者たちも「しず江」を「しず江」として認識してる以上、こちらに不手際は一切ないのだ。

 直ぐ様、後ろを振り向いて、結子はもう一度しず江の顔を確認する。

 ところが、そこに鎮座していたのは、いつものしず江であり「どうかしたのですか?」と、乱れた髪と眼鏡を迷惑そうに直しているではないか。

「い、いえ、なんでもありません」と、結子は平謝りをしながら、頭を振って目頭を押さえた。

 疲労からくる目の錯覚だったのだろうか。それとも、しず江が髪を下ろしていたせいなのだろうか、まるで白昼夢に遭遇したかのように目の前が霞がかっている。彼女と顔を見合わせてからというもの、今日は調子の狂うことばかりだ。

「吉備所長。ど、どこへ向かえば?」

「ああ、そうね。とりあえず……」と、結子が云いかけたところで、しず江が「それでしたら、わたしの住んでるところに一旦寄ってくださいませんか? すぐ近くなんで……」と、後部座席から言葉を挟んだのだった。

「お邪魔して、よろしいのですか?」

「ええ、勿論です。魔女さんに、お渡ししたいものもありますから」

 彼女の口から溢れる〝魔女〟という単語には、少々不気味な色相が含まれているが、これ以上は余計な雑務を増やして欲しくないものだ。これでは、ますます家に帰れなくなってしまう。

 結子は「承知いたしました」と、朗らかに対応しつつも、どうしても歪んだ苦笑いを消すことができず、行き場の失ったその顔をそのままユキに向けた。

「適当な場所に停めて、ナビに住所を入れましょうか」

「ういっス」

 と、ユキはハザードランプを炊いて、慣れた操作で海外沿いの路肩に車を寄せる。免許を取り立ての割には、運転だけはやたらと達者なのが謎だ。どこで覚えたのか、凍結した路面ではカウンターを当てて曲がったり、目の前でドリフト走行を披露したりと、意外な才能を遺憾なく発揮したりもしていた。

「ほいじゃ、しず江さん。お手数ですが、住所お願いしやす」

「はいはい。ええと、ね。C葉県、C葉市……」

 後部座席から前のめりに意気揚々と顔を向けて、楽しそうにユキと遣り取りをする。先程からそうだが、この二人は妙に気が合うらしい。冗談を云い合いつつ、しず江の取り出した見慣れぬ柄のスマホケースを目にして、またユキが過剰なまでの反応をする。

 なんとも、微笑ましい空気感でなんだか妬けてしまう気がした。

 きっと、堅物の自分では計り知れないような穏和な世界観を二人は共有しているのだろう。仲間はずれになってしまうのは寂しいが、……それは、今に始まった話でもなかった。


  ──〝君は、真面目すぎるな。たまには肩の力を抜くといいよ〟


 別居中でもある夫の広樹の言葉をふと思い出し、結子は歯に噛むように車の窓を半分ほど開ける。なんでこんな時に彼が現れるのだ。結子は淀んだ空気を入れ替えるように顔を晒し、心地よいまでの涼しい潮風にしばし身を任せ、ゆっくりと深呼吸をした。

 ……やっぱり、海から注ぐ浜風はとてもいい。

 昔はよく、試験勉強に行き詰まると、壊れかけの自転車で沿岸の道を走ったものだ。夜中に悶々とした感情を抱えたまま、力の限りペダルを漕ぐ。嫉妬も、不安も、劣等感も、全てがごちゃ混ぜになった感情を吐き出すように。

 やがて、柔らかな月明かりに照らされていると、波の音と共に負の感情を綺麗に洗い流してくれる。多くの悩みは尽きぬとも、どうせいつかは死ぬのだ。

 それならば、やるだけやってみるしかないという、ありきたりな結論にも行き着く。そして、朝日が昇る頃には、憑き物が落ちたように清々としていたものだった……。

 横の運転席ではまだ、ナビの入力に戸惑っているユキがいる。しず江もしず江で住所やマンション名をよく覚えていなかったらしく、頭の上に疑問符をつけて「あらあら?」と、しきりに小首を傾げていた。

 きっと、二人はかなりの似た者同士なのだろう。それも納得の理由でもある。しかし、丁度良い。この隙に魔女への業務連絡を済ませてしまおう。

 魔女から支給されたスマホを鞄から取り出し、魔女専用の連絡アプリを起動させた。幾重にも張り巡らされた生体認証システムが無駄に使いづらいが、いつの間にこんな代物を拵えたのだろう。忙しいのか、暇なのか、未だに正体がよくわからない連中だった。

 画面には立体的なインターフェイスが実験的に採用されている。

 まだベータ版のテスト段階らしいが、世界がひっくり返るほどのシステムになる予定だそうだ。……だが、その凄さがいまいち実感できないほどに、結子の機械音痴は致命的でもあった。

 チャットルームでは、数々の魔女が屯している。理系の専門用語が飛び交っていたり、鉱物や植物についての様々な議論、はたまた、魔女長に対する日頃の愚痴なども多い。あまつさえ、最近はまっているラーメンの画像がずらりと並んでいたりと、彼女たちの暢気な日常生活が垣間見えるようだった。

 そして、結子の雇用主でもあるエリスのサムネを目で追うだけで、AIによってルームが自動で表示されたりもする。確かに、操作に多少の慣れは必要だが、視点だけで操作できるのは非常に便利かもしれない。


 ──【森見 しず江の回収、無事に終わりました。保護に入ります】

 ──【ご苦労さま。引き続きよろしくね】


 他愛もなく、素っ気ない会話の遣り取りだが、エリスから秒で返信が来るのは珍しく、それだけこちらの進捗経過が気掛かりなのだろう。

 ……と、いうことはつまり、まだまだ予断を許す状況ではないと、間接的に訴えているようでもあった。完全無欠を誇っている、エリスの必死さが如実に伝わってくるのも不気味な流れだ。

 切羽詰まっている魔女が観れるなど、とてもいい気味ではあるが他人事では済まないのも玉に瑕である。厄災が降りかかる前に、さっさと仕事を片付けて高みの見物と行きたいところだ。

 すると再び、ピコリと音が鳴ってエリスのサムネが小さく光る。まだ何か云い足りないのか、結子は恐る恐るスマホ画面を見開き、うんざりとしながら顔を背けたのだった。


 ──【そうそう。アナゴだったら、白焼きもいけるわよ?】


 ……たく、さっきからなんなのだ。千里眼でも使えるのか、この魔女は。 

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