参の9
「おそらく、少しでも健康で美味しいものを食卓に届けようと、かなり無理な経営をなされてきたと思われます。その中で利益を上げるなど至難の業……」
「ぐうっ!」
「……しかし、それを可能にしてきたのは、一重に従業員たちや、協力があっての賜物ではないのですか?」
己の良心に問いかけるように、結子は冷ややかなまでの言葉を浴びせかける。それは、軽蔑にも似た嘲笑の語感をも含ませていた。
堪らず、顔を背ける店長の表情からは、既に後悔の念が滲み出ている。執拗なまでの断言と繰り返しは相手の思考を乱し、心を揺らすには打ってつけの手法でもあったからだ。
「わ、わかっている。重ねて何度も言うな。それは、痛いほどよくわかってはいる……。頼む、後生だ。ここはしばらく黙っていてはくれないだろうか」
と、頭を抱えながら店長は、苦悶の表情で抑止を訴えかける。だが、結子はそこで手を緩めるような慈悲など持ち合わせていない。
「いいえ、黙りませんね。貴方はいまこの時、この瞬間にも、一時の感情を引き換えにして全てをドブに捨てようとしています。何よりも店長さまの双肩には、多くの人達の生活がのしかかっている……のであれば、余計に見過ごすわけにはゆきませんねっ!」
その台詞を耳にするや否や、店長は絶望の面持ちで崩れ落ち、ゆっくりと片膝をついたのだった。
野暮な言い分ではあるが、元組員であろう半端者の男が本店の店長に上り詰めるなど、並大抵の苦労や努力だけで済む話ではない。偏見に目に晒されながらも、歯を食いしばり働き続けた日々は筆舌に尽くし難く、大袈裟に思えるこの落ち込み具合も、全身全霊をかけてきた斯様な生き様の裏返しなのだろう。
居ても立っても居られなくなったのか、心配そうに駆け寄ろうとするしず江を無言で制止させ、結子は店長の一挙手一投足に注目する。しかし、よくよく顔を拝見してみれば、まだまだ目が死んだと云うわけでも無さそうだった。
呆れるまでに打たれ強く、屈強で頑丈な男だ。むしろ、恋の障害は大きければ大きいほど燃え上がるものなのか、目の輝きだけはよりいっそう光を増している。概して、どこからその自信が湧きあがってくるのか、店長は不気味な笑みすら浮かべていたのだった。
──仕方あるまい。
出来ることなら、結子は穏便に話を済ませたかった。
時に、こういった説得に用いる「正論」などは、相手に冷静さを呼びかけ、考える時間を与えるための猶予に過ぎない。落とし所を探り合い、互いの利益に繋げる為の小さな「サイン」に他ならなかった。従来通りであれば、その本音となる前振りに気づけぬ男ではないはず……。
ただ、「恋愛感情」と云うのは非常に厄介な代物で、どんなに強固で揺るぎない信念があろうとまるで関係がなかった。いとも簡単にその境界線を飛び越え、確率論など無視するように忍び込んでくる。そして、徐々に思考を侵食し、完全なまでに心を支配するのだ。
即ち、人の「恋」とは甘美なまでの毒であり、太古の昔から存在し続ける「呪縛」とも云えよう。
勿論のこと、恋愛が良い結果をもたらす場合もある。
しかしながら、それも稀有な事例だった。大概は苦い体験としてすり替わるか、辛辣なまでの人生教訓として記憶に刻み込まれてしまう。それでも、恋愛を否定的に捉えず、肯定的に受け取ってしまいたくなるのが人の常……。
取りつく島など、どこにもないのだ。絵にも言えぬ多幸感に包まれてしまったら最後、逆らうことも出来ぬまま、ひたすら堕ちて行くしかない。
……または認めたくのだろう。未熟さゆえの「過ち」というものを。
結子は気怠そうに溜息を吐くと、前屈みになって店長の元へちょこちょこと歩み寄った。離れたところで不安そうに佇むしず江を尻目に「しばし、お耳を拝借してよろしいですか?」と、何やらボソボソと囁きかける。
眉を顰め、最初は怪訝な顔つきの店長だったが、話が進むにつれ徐々に目を丸くして顔色を変えたのだった。
「なっ……? ええっ? はいっ?」と、結子やしず江の顔を見合わせ、途端に慌てふためき始める。
彼女が他県まで逃げてきた事情など、どこまで知っていたかは定かではないが、「恋」というのはそれだけ人の心を狂わせ、自身を盲目にさせてしまうのだろう。何故なら、〝人とは、真実を見るのではなく、自分が見たい側面だけを見る〟。愚かにも、それを頑なに「信じたい」だけなのだ。
驚天動地の告白を受け、しず江をまじまじと直視した店長はこの上ないほど深く肩を落としている。少々残酷な現実かも知れないが、男もいい歳をした立派な大人だ。じきに立ち直るだろう。とは言え、まだ完全に店長が詰んだというわけでもなかった。
「……という事ですので、ご容赦してくださいませんか?」と、結子は優しく諭しながら声をかけると、憔悴しきった面持ちで店長は弱々しく頷き、まるで羽虫でも追い払うかの如く「もう、行ってもいいぞ」と、手を動かす。
少し気の毒な気もするが、これで丸く収まった気もする。しかし、相手を完膚なきまでに叩き潰してしまうのは、あまり良い終わらせ方でとはいえない。更に、絶望ばかり与えるのは愚者の行為でもある。
……そこで、遺恨を残さぬ為にも、結子は一計を案じることにしたのだった。
背後にいるしず江の目を気にしながら、ここぞとばかりにこっそりと耳打ちをする。当初、店長は不貞腐れた態度で黙って聴いてはいたが、その裏情報を耳にするや否や、急に活気を取り戻しはじめたのだった。
「それは、本当のことか?」
「確定、とはまではいえませんが、あるいは……。ですので、落ち着くまで少しだけ待ってあげてください。仮に、森見様が正式に退職なされれば、御社とは何ら関係のない話にもなりますから」
そう云うと、結子は悪そうな顔を向けながら、励ますようにそっと手を差し伸べる。ようやく正気になってきたのか、「それも、ありえる話ではあるな」と、店長は結子の手を取りつつも、遠くの空を儚げに見つめていた。
納得までとはいかないものの、もはや落胆や焦燥といったきらいは微塵も感じられない。そして、これが結子の考える一応の解決策であり、唯一の落とし所でもあった。
僅かでも復縁の可能性を匂わせておけば、人という生き物は想いを繋ぎ止める事ができる。それは、決して夢や希望にすがっているわけではなく、明日を生きる為の糧とも成り得るのだ。結末がどうであれ、時間が解決してくれることも多々ある。それもまた、殊勝な心がけのひとつなのだろう。
──すると、あまり良くない兆候を感じ取ったのか、ユキが数回クラクションを鳴らし、唐突に扇動を促している。
〝急いで車に乗り込め〟という緊急事態の合図だ。必死な形相で運転席から身体を半分乗り出し、身振り手振りを交えて滑稽なまでに訴えてくる。その慌てぶりを見る限り、これは愈々をもって不味い状況に陥ってそうだった。
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