参の6

 夕日もとっぷりと暮れかけ、街灯の明かりがちらほらと点き始めている。

 それに伴い、辺り一帯の気温もぐっと下がり、涼しいそよか風が汗ばんだ額を優しく癒す。海岸から注がれる潮の香りが鼻腔を微かに擽り、身体を労わるまでの美しい夕闇が訪れていた。

 店舗の裏手にある通り沿いに車を停めて、ユキが大手を振って待っている。運転席ではなく、律儀にも外で出迎えていたようだ。しかし、黒縁のフリルつきの白い服装を見ていると、まるで〝生牡蠣〟が佇んでいるようでもあった。

「なに買ったんスか?」

「アナゴと鮭のハラスよ。一応、買い物客である証明みたいなものね」

 へえ、おいしそうスね。と、ユキは指を咥えてレジ袋の中を興味深そうに覗いてくる。「はしたない真似しないの」と、注意を促しつつ、結子がレジ袋の中身を小さく見せていると、店の勝手口からしず江がそそくさと出てきたのだった。

 軽く会釈をして「どうも、お待たせしました」と、しず江は此方へ駆け寄ってくる。息を切らせながら、走ってくる彼女はさながら、部活の待ち合わせに遅れてきた新入部員のような初々しさまである。なぜだか、しず江を眺めていると昔懐かしい妙な既視感を覚えてしまうのだった。

「あややっ、しず江さん。その花柄のワンピース、めっちゃイケてるっスねっ! マジでかわいいっス! ステキですぅ!」

「えっ? あら? そうかしら? この子、吉備さんのお知り合いなのかな?」と、しず江も満更でもない様子で身体を振り、スカートの裾をひらひらとなびかせてみせた。すると、すかさずユキはスマホを構えて「一緒に写真撮ってもいいスか?」と、唐突に言い出したりする。そう云えば、すっかり忘れていた。ユキは空気が読めない、否、空気を〝読まない〟子だったのだ。

「す、すみませんっ! ちょっと、ユキちゃんってば、失礼でしょっ!」と、結子は半ば狼狽えながら制止させようとした手前、「写真ぐらい構いませんよ? 別に、いいじゃないですか」と、朗らかに快諾するしず江でもあった。

 まだユキが、十代なのも祟ったのだろう。なにからなにまで図々しく、いっときも目が離せない。もし、相手を読み違えてしまえば、こちらの業務姿勢まで疑われてしまう。やはり、連れてきたのは手痛い失敗だったかもしれない。これなら、車の運転席にでも座らせたまま、待機させておけばよかったのだ。

「どうせですから、吉備さんも一緒に撮りましょうよ」

「はい? わたしもですか?」

「所長も、是非一緒に入ってくださいな」

 ……などと、誘われてみたものの、結子は写真が頗る苦手である。家族写真ですら撮られるのは遠慮したいほどだ。理由を遡れば多々あるが、想い出や記憶は心の中だけで留めておきたい方でもある。

 写真写りも悪ければ、どれもこれも〝この世の終わりのような顔〟ばかりしていると、なじられたりもしたからだ。だが、しず江の頼みごととあっては、早々に断る訳にもいかず「一枚だけなら……」と、渋々と写りこむのだった。


「はい、チーズ」と云う、昭和な掛け声に合わせて一斉にポーズを決める。

 真横で作り笑いを浮かべる結子の動きはどこかぎこちなく、ユキとしず江は終始楽しそうに撮影を続けていた。

 陰鬱とした山村から離れていたせいか、しず江もだいぶ垢抜けてきたのだろう。二人は撮ったばかりの写真を見せて陽気に笑い合っている。お互いに波長が合ってしまったのか、話が長くなりそうな雰囲気もある。

 心なしか、その遣り取りは過ぎ去りし青春の日々を連想させた。

 自分にも、そう言う時期は確かに合ったが、学校と予備校の往復で遊ぶ暇など殆どなかったとも云える。塾の講師たちには「受験戦争の敗北は人生の失敗であり、即ちそれは、死を意味する」と、強く教えられものだ。

 朴念仁のように参考書や問題集に噛り付いては、恋愛や部活動に精をだす輩たちを冷ややかな目線で見下していたのだろう。「弁護士になるまで決して揺るがない」と、心に誓いを立て、化粧もせず、流行りの歌さえ知らずに必死に駆け抜けてしまったのだ……。


 おっと、これは不味い。黄昏て昔を懐かしんでいる場合ではなかった。

 二人の戯れを見てると、此方まで調子が狂ってくる。魔女に怒鳴り散らされる前に、一刻も早く仕事を片付けなくては……。

 結子は頭を軽く振りながら、ユキのスマホを横から取り上げると、「いますぐ、車を出しなさい」と、丁寧に、やんわりと命令する。だが、目元が全く笑っていない。さすがのユキも、結子から発せられる憤怒の気配を感じ取ったのか、脱兎の如く運転席へと慌てて飛び乗った。

「さて、しず江さん。そろそろ、参りましょうか」

「お手数おかけします」と、しず江は控えめに恐縮する。

 従者の如く優雅に付き添い、結子が後部座席のドアを開けた途端、後方から何やら「しず江」を呼ぶ声が聴こえた。その声は、次第に大きくなりつつある。叫びにも似た咆哮。いや、これはきっと、空耳なのだろう。そして、決して後ろを振り返ってはいけない。何故なら、とても面倒臭い予感がするからだった。

 ところが、疲れているだけだと、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、背後からの声がはっきりと、より鮮明となってゆく。嗚呼、またなのかと、結子は小さく舌打ちをする。無視して素っ惚けてしまおうかと思ったのが案の定、しず江がとうとう気づいてしまったのだった。


 ──「し、しず江さん。ちょっと、待ってくださいっ!」

 ──「てっ……、店長さん!?」

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