参の5
──いらっしゃい、いらっしゃいと、活気のある掛け声が木霊する。
さすが、「マーケット小池」の本店。気合いの入り方が他店舗とは違う。
怒号と聴き間違えるほどの覇気の強さは、噂に違わぬ、聞きしに勝る大迫力だった。血気盛んな若い店員と、食材を求めて血眼になる客との間で、熾烈な争いがあちこちで繰り広げられている。
……どうやら、恒例のタイムセール中に足を踏み入れてしまったようだ。
予想を遥かに上回る店内の混み具合に唖然として声も出ない。結子も弁護士である前に一人の主婦だ。この手に汗握る、
湧き上がる衝動をぐっと堪えて、結子は人波を掻き分けて進んでゆく。
建物の構造上、冷蔵スペースは壁際に沿って設置されているはず。そして「マーケット小池」は勝手知ったる他人の庭のようなもの。店舗は違えど、貧乏学生時代に培った経験もある。配置されている生鮮食品を見ても、昔との違いは然程感じられなかった。
おそらく、鮮魚売り場は右奥の隅だ。目測にして約十数メートルか。
その先に、本人らしき従業員を視認した。結子は近くの買い物カゴを手に取り、人混みに紛れながら買い物客を装う。直近まで彼女の元へ歩み寄り、身元確認の後、間髪入れずに交渉を開始する算段である。
懐に忍ばせてある名刺に手を触れつつ、結子は品出しに精を出す「しず江」の姿をはっきりと目で捉えた。
写真と比べて、若干痩せた気もする。眼鏡を着用していることから、見た目の印象を極力変えているんだろう。うなじから僅かに垂れる髪色から、明るい茶色に染められているのがわかった。
毎度の事ながら、戦慄する瞬間だ。村から人知れず逃亡中という情報が確かであれば、とれる選択肢は自ずと限られてくる。警戒されない為には、逸早く自分の身分とその理由を明かし、安心させねばならない。
颯爽としず江の死角へ回り込み、悟られないよう背後に陣取る。
あとは脅かさないように、できるだけ丁寧な口調で話しかけるだけだった。ただ、どうも張り込みの刑事みたいな体裁になってしまう。弁護士は国家権力と対局する位置付けであるにも関わらず、調子が狂うことばかりだった。
すると、声を掛ける寸前で背中の気配を察知したのか、くるりと、しず江がゆっくりと振り向く。咄嗟の出来事に少々面を喰らいつつも、「あっ……」と、相手が言葉を発するよりも速く、結子は懐から名刺を素早く抜き取り、開口一番こう言い放ったのだった。
「わたくし、弁護士の吉備 結子と申します。森見 しず江さんですね?」
「え、ええっと……」
しず江は口に手を充て右往左往しながら、周りの従業員に救難の合図を送っているような素振りがある。これは、少々まずい反応だ。
しかし、こうなってしまえば致し方あるまい。他人の目に触れるような騒ぎを起こしたくなかったのもある。できれば、穏便に事を進めたい。かくなる上はと、結子は下唇を噛み締めて、奥の手でもあった言葉でこう繋げた。
──「わたくし『魔女の遣い』でやって参りました」と。
しず江の強張った表情が一気に緩み、安堵の色へと変わる。どうやら、事の経緯を瞬時に察したようだ。しず江は頭の三角巾をゆっくり外しつつ、「……そうですか。わかりました」と、遠慮気味に名刺を受け取り、小さく頭を下げた。
突然の出来事に無理もない。その所作は多少なりとも狼狽している。この後、どう対処していいかよく分からないのだろう。しかし、実際に接してみると、思ったより社交的な女性だ。
その仕草からも、結子の受けたしず江の第一印象は母性本能を擽られる〝放ってはおけない女〟だった。こういう「か弱い女」に男はめっぽう弱いのだ。それだけでも「しず江」という女の生活感が透けて見えてくるようだ。
「実は、娘さまの今後について色々と伺いたいことがあります。何分、時間が差し迫っております。ですが、ここで立ち入る話もなんなんで……」と、結子はわざとらしく目を配りながら、意味深に
「あっ、はい。すぐあがりますので、ちょっと待っててください……」
「裏で車を停めてお待ちしておりますので、早急にお願い致します」
そう伝えると、途端に踵を返し、しず江は慌てふためき、そそっかしく勝手口へと消えてゆく。
そして結子はもう、彼女が逃げ出す心配などはあまりしていなかった。
もともと、魔女との接触は彼女自身が強く望んでいたこと。それは、最初に受けたタレコミ電話の内容で、大凡の検討は付いている。あとは、自分が「味方である」というのさえ理解してくれれば十分だったからだった。
とりあえず、一安心。ほっと肩を撫で下ろし、ふと視線を下に落とすと、いましがたしず江が並べてたばかりの鮮魚が所狭しと並んでいる。
捌いたばかりの新鮮なアナゴだ。値段もお手頃、ぷりぷりである。
……更に、目を見張るような色艶の良さ。思わず、生唾を飲み込む。たまには、アナゴ丼なども悪くなかろうと、白々しく手を伸ばすと、アナゴを買い物カゴへと入れてしまう結子であった。
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