その参
参の1
喫茶店の珈琲も三杯目に入り、かれこれ四時間以上は魔女に待たされている。張り込みなど、本当に久しぶりだった。座り心地の悪い椅子に座り続けていると、持病の腰痛まで疼いてくる。
刑事ドラマでもあるまいし、どうしてこんな真似をしなくてはならないのか。
いまは新人の若い子に監視させているものの、沿岸沿いでもある街の気候は普段より蒸し暑く、海風も吹かぬとなっては、さぞかし煩わしいことだろう。
結子は温くなった珈琲をすすり、腕時計にそっと目をやった。
もう、夕方の六時だ。中学生の息子には仕事で遅くなると連絡は入れてみたものの、思春期を迎えているのもあって少し心配にもなる。
できれば毎日、夕飯は作ってやりたい。最愛の息子と顔を合わせられる唯一の時間帯でもあったからだ。結子はただ、静かに穏やかで、緩やかな人生を過ごしたいだけだったかもしれない。活力はあるものの、疲れ果ててしまっている。と、云っても過言ではなかった。
──元を正せば、過去に担当した「不動産事務所」の案件が諸悪の根源だったのだろう。
時は氷河期世代といわれる不景気の真っ只中、苦労の末に弁護士になった結子が、藁でも掴む思いでようやく手に入れた得意先でもあった。
顧問となり、当初は二年ほど経験を積んでから転職するつもりでいたが、初年度でまさかの災難に見舞われる。暴力団まがいの輩に襲撃され、客先の事務所は崩壊寸前。肝心の警察も頼りにならず、上司達も「この案件は手に負えない」と尻尾を巻いて逃げ出す始末。孤立無援の中、それでも必死に戦ったのだ。
……多分、まだ自分は若かったのだと思う。
青臭い正義感を振りかざして邁進できるほど、世の中は都合よくできてはいない。現実は善も悪もへったくれもないのだ。視点さえ変わってしまえば、誰もが善人で、誰もが悪人となる。そしてその二つは複雑に絡み合い、白とも黒ともつかない、どこまでも灰色の様相を呈していた。
その結果、まんまと魔女の手に落ち、彼女らの手先として成り下がってしまった……と、云うわけだ。法の番人として良いおこないをしていた筈なのに、蓋を開ければ巨悪の片棒を担いでいる。どんな巡り合わせでこんな風になってしまうのか。皮肉なことに、それが自らに課せられた「役目」だとも気づかされた。
生きるために仕事をして、金を稼いで食う。それだけだった。
やがて、魔女たちの手がける汚れ仕事を一手に引き受けるようになり、崖から崩れ落ちるように堕落してゆくだけ。まったく、人権派の弁護士が訊いて呆れてしまう。
しかしながら、魔女と取り引きしただけあって、その見返りは予想以上に大きかった。個人事務所を設立して以降、飛ぶ鳥を落とすほどの勢いで依頼が入ってくる。ビジネス・パートナーも増え、競馬で例えれば、万馬券を引き当てたようなもの。弁護士としても概ね正解なのだろう。
世間的に見れば、結子は数少ない成功者でもある。両親も友人も諸手を挙げて喜んでくれたりと、自分の取り巻く世界が一気に変わった瞬間でもあった。
……とはいえ、結局は「金」という単位で収束いていく馬鹿げた世の中。
猫も杓子も、金、金、金だ。いくら儲かった、いくら損した、そんな言葉で巷は溢れかえっている。理想と現実の狭間で揺れながら、社会正義などと云う言葉は所詮、幻想に過ぎなかったのだろう。分かっていたとはいえ、できれば甘い夢でも見るようにいつまでも酔いしれていたかった。
息子に送ったメッセージの返信はまだない。既読のマークだけを確認し、結子は冷めた珈琲を一気に飲み干す。ふと、問題になっている『夫』のことを思い出すと、頭痛と同時に目眩までしてきた。即座に胸に手を当て、精神を落ち着かせ、ゆっくりと深呼吸をする。これから重要な案件があるというのに、つまらないことばかりが脳裏をよぎってしまう。しかしながら、いまは力なく肩を落としてる場合ではなかった。
珈琲の飲み過ぎで、そろそろ胃も限界だが、店員たちの白い目も気になるところ。いい加減、喫茶店にも居づらくなってきた。だが、何をもたもたしているのか、魔女からの連絡も未だない様子。余程のじゃじゃ馬なのか、彼女らの血族でもある「いち華」に手を焼いているのかもしれない。……仕方ない、もう少し居座わるしかなかろう。結子は「すみません」と、ゆるゆると手を挙げ、四杯目の珈琲を頼むのであった。
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