弐の9
年代物の酒瓶に見える。洋酒だと思うが、いち華には、いまいち判別がつかなかった。グラスに並々と酒を注ぎ、ウワバミのように次々と呑んでいく。
「景気良くいかないと、身体がついてこないのよ」と、魔女は意味不明なことを呟きながら、しきりに酒を
「……それで、ママは元気だったの?」
「元気そうよ。接触はなるべく避けて、いまは監視してるだけしてるわ」
「そ、そう。よかったわ」
元気そう、と云う話を耳にして、いち華はだいぶ肩の荷が降りた気がした。母が失踪したその日から毎日のように心配していたからだ。だが、うまく村の連中から逃げ切ったのだろう。少なくとも、まだ息災でいる。それだけでも安堵する喜ばしい報告だった。しかし、村の連中ですら手こずっていたのにも関わらず、魔女たちはよくしず江を見つけ出したものだ。
「どうする? しず江さんに電話ぐらいはかけておく?」と、エリスはスマホを差し出してみたが、いち華は首を横に振って「無事って分かっただけでもいいの」と、やや遠慮気味にその申し出を断った。
本当は、いまにでも電話をかけ、母の声を聴きたい気持ちはある。しず江の元へすぐ駆けつけ抱きしめたかった。ただ、毅然とした態度で接し続けなければならない。弱味を見せれば、魔女はたちまち足元を見てくるだろう。それにまだ、一応の問題が片付いたわけではなかった。あの厄介な「熊」をどうにかしない限り、村の連中は決して追跡を諦めないだろう。いや、諦めるわけがない。しず江と再会を果たすにせよ、全てが終わってからでも遅くはなかった。
「ねえ、魔女たちは、どこまでママのことを知ってるの?」
「どこまでって言われても困っちゃうわね」
グラスの縁を指で弄びながら、エリスな妖艶な瞳をいち華に向ける。
いかにも裏がありそうないやらしい面持ちだ。魔女は、いち華からの要求や提案を引き出したいような雰囲気もある。ただ、これ以上の関係や深入りは危険だ。あとで何を請求されるか分かったものではない。
とはいえ、母のしず江が見つかったとなれば、他の選択肢など残されていないのは事実。おそらく、魔女をこれを見越して初めから交渉のカードを用意していたのだろう。
「あのさ、ママを助けたりはできないのかな」
「助けるって、どうして? わたしは余計な真似はするつもりはないわよ。気の毒だけど、しず江さんがどうなろうと、知ったこっちゃないもの」
「あたし味方って、さっき言ったじゃない!」
反射的に身を乗り出して、つい感情を露わにしてしまった。
沈着冷静に対処するつもりが、裏目、裏目と出てしまう。魔女は眉ひとつ動かすことなく、冷ややかな視線でいち華をじっと見つめてから「それは依頼かしら? それとも、お願い?」と、穏やかに表情を崩し、にっこりと微笑んだ。
「依頼だったら、どうなるのよ……?」
エリスは目を瞑りながら、二、三度頷くと、指で円マークを作って嬉しそうにして見せる。つまり、金を支払って交渉し、魔女を雇い直せと云うことだ。当然、出せもしないような金額を吹っ掛けられるのがオチだ。どの道、どう転ぼうが魔女の取引に応じるしかなかった。
「……で、あたしは、お願いするしかないわけね」
と、いち華は溜め息混じりで項垂れていると、エリスは満面の笑みを浮かべて仔犬のような愛らしい表情を向けてくる。
全てが彼女の思惑通りだ。無性に、腹も立ってくる。だが、残るは自分の覚悟次第でもあった。人の下につくのは性に合わないが、背に腹はかえられぬ。
それに、一度受け入れてしまえば、あとは魔女たちが対処してくれるだろう。とりあえず、彼女らが信頼に値するかどうかは置いておいて、まずはそのお手並みを拝見といこうではないか。如何のしようによっては後から約束を反故にもできる。あとは、魔女に不利な材料を揃えておけばいいだけのこと。
いち華は仏頂面をしたまま魔女をきつく睨みつけた。
「じゃあ、西園寺さんでしたっけ? そちらの条件を聞こうじゃないの。どうせ、タダってわけにはいかないんでしょう?」
「地獄の沙汰も金次第ってね。だって、利害の一致ほどの信用できる取引はないもの」と、エリスは古い木箱からタバコらしきものを一本取り出し、慣れた手つきで火をつける。
もくもくと紫煙が上がり、甘い香りが周囲を漂う。不思議と不快な匂いではない。むしろ、心が安らぐ芳醇な匂いだ。魔女は気持ちよさそうに一服すると、昔を懐かしむようにいち華を正面から見据えるのだった。
──見れば、見るほど、姐さまぽいわ。楽しくなっちゃう。
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