第12話

 翌朝、熱が下がり顔色も戻った雪奈だったが、大事を取ってもう一日学校を休んだ。

 もう雪奈の心配はいらないので、優人は特に急ぎもせず帰宅した。

 リビングに入ると、母が出掛ける準備をしていた。


「おかえり。」

「ただいま。」


「優人。わたし、ちょっと出掛けるからあとをお願いね。」

「分かった。」


「晩御飯は、雪奈のためにお鍋にするわ。」

「うん。」


「それじゃ、行ってくるわね。」

「行ってらっしゃい。」

 母が出掛けて行った。

 今日も雪奈がいるから、昼間は家に居たようだ。


 優人は、二階に上がって、雪奈の部屋のドアをノックした。


「入っていいよ。」

 ドアを開け、部屋に入る。雪奈は寝ながら漫画を読んでいた。


「もうすっかり元気だな。」

「お兄ちゃんのおかげだね。」

「嬉しいことを言ってくれるな、我が妹よ。」

 優人がそう言って、頭を撫でようと雪奈に近付こうとしたら止められた。


「お兄ちゃん、あんまり近くにきちゃダメ。」

「えっ、どうして?」


「あたし、昨日いっぱい汗かいたし、お風呂にも入ってないから。」

「うん。入ってないな。」


「お兄ちゃん、分からないかな?」

「何が?」

 優人には、女の子の心理はまったく分からなかった。


「だからね。その。に、臭うかもしれないし。」

 なるほど、と優人は合点がいった。


「オレも、一日風呂に入らなかったことがあるけど、全然気にならんぞ。」

「もうっ!女と男は違うの。」

「そ、そんなにくさいのか?」

 優人は、やっぱり女の子の心理が分かっていなかった。


「ばかっ!お兄ちゃんのばかっ!」

 雪奈が、手に持っている漫画を投げそうなくらい怒っている。

 優人は、どんな臭いなのか非常に気になったので、雪奈に頼み込んだ。


「ちょ、ちょっとその臭いを嗅いでみたいんだけど、いいかな?」

「勝手にすれば。」

 雪奈は、漫画を放り出して、壁を背にベッドの上で体育座りをしていた。

 顔はぷいと横に向けている。

 雪奈の近くに行き、ベッドに手を乗せて鼻をくんくんしてみる。


「ん?いつも通りのいい匂いしかしないぞ。」

「もっと近くで匂いを嗅げばいいじゃない。」

 雪奈の目の前に顔を近付け、目を瞑りながら匂いを嗅ぐ。


「んん?いい匂いだけだぞ。」

 臭いにおいとやらを期待していた優人が落胆している。


「この辺を嗅いでみたら。」

 雪奈が自分の頬の辺りを指差す。

 どれどれ、と優人がさらに近付く。

 雪奈のきめ細やかな白い肌と血色の良い唇が、息を吹きかければ届く距離にあった。

 優人がちらっと雪奈を見るが、目はやはりこちらを見ていなかった。

 再び、目を閉じて匂いを嗅いだ。


「やっぱり、いい匂いしかしないぞ。どこがくさ、あっ。」

 優人の鼻と唇が、雪奈の頬に強く押し当てられた。


「ち、違う違う。オレは動いてないぞ。」

「またお兄ちゃんがキスした。」

 雪奈が微笑みながら優人を見ている。


「ええっ。してないしてない。やってないから。」

「でも、確かにキスしてたよ。」


「い、いや、そうかも知れないけど、オレはやってないから信じて。」

「裁判をしたら負けるよ、お兄ちゃん。」


「えっ、さ、裁判しちゃうの?」

「うん。お兄ちゃんが認めないとそうなるよ。」


「じゃ、オレは全面敗訴の紙を持って走らなくちゃいけないの?」

「そうなっちゃうね。お兄ちゃん、キスしたって認める?」


「うう。認めます。オレの負けです。」

「ふふふ。これで、二つも言うことを聞いて貰わないとね。」


「ゆ、雪奈さん。このままだと、オレが卒業するまでに百個ぐらい溜まる気がします。」

「それじゃ、そんなに溜まらないように、今すぐ使っちゃおう。」



 制服のままだった優人は、雪奈に、上着を脱いで部屋の中央に立って、と命令された。

 優人が上着だけ脱いで、言われるがまま立っていると、雪奈がそっと抱き付いてきた。

 雪奈の腕が、優人の首の後ろに回される。

 雪奈の方が上背があるため、どうしても優人に覆い被さるような形になった。

 優人の頬と雪奈の頬が触れている。

 雪奈の柔らかい髪が肌に触ってくすぐったい。

 雪奈はそのまま動かなかった。


「えっと、言うことを聞くってこれだけでいいのかな?」

「うん。いいよ。」


「そっか。」

「何かひどいことされると思った?」


「少しね、はは。」

「そんなことしないよ。」


「雪奈はやっぱりいい匂いがする。」

 優人の鼻の奥に、ほのかに香る雪奈の甘い匂いが届いている。


「くさい臭いが嗅ぎたかったの?」

「うん。」


「ばか。」

「ははは。」


「さっきね。あたしわざとだったの。」

「何が?」


「お兄ちゃんがキスしたこと。」

「どういうこと?」


「あたしが自分から、お兄ちゃんの唇に頬っぺたをくっつけたの。」

「ああ、そうだったのか。」


「だって、変なにおいがしたら恥ずかしいのに、お兄ちゃんは全然分かってなかったから。少し懲らしめようと思って。」

「そういうの全然分かってなかった。ごめんな雪奈。」


「もう許してあげる。」

「ありがとう。」


「ねえ、お兄ちゃん。」

「何?」


「左手をあたしの背中にまわして。右手を腰にまわして。」

 雪奈の言うとおりに、優人が左手を雪奈の背中にまわして、右手を腰に当てた。


「うん。そんな感じ。」

「なんか、抱き合ってるみたいだ。」


「嫌だった?」

「嫌じゃないよ。」


「そう、良かった。」

 二人の体が密着していて温かかった。


「雪奈の体、いい匂いがして温かいな。」

「お兄ちゃん、ぎゅっとしてみて。」

「うん。」

 優人が、雪奈の体を少しぎゅっと抱き締めた。


「あ。」

 雪奈の口から微かな声が漏れた。


「痛かった?」

「ううん。大丈夫。」


「そっか。」

「ふふ。」


「どうかした?」

「なんだかね、くすぐったいような変な感じなの。」


「くすぐったいのか。」

「うーん、ちょっと違うかな。気持ちいいかも。」


「そうなんだ。」

「お兄ちゃんはどんな感じ?」


「何か落ち着くというか、もっと甘えたい気分かな。」

「ねえ、お兄ちゃん。」


「ん?」

「二人でもう少し強く抱きしめ合ったらどうなるかな?」


「やってみる?」

「うん。」


「いい?雪奈。」

 そう言って、優人が雪奈を強く抱きしめた。

 雪奈も優人を思いっきり抱き締めてくる。


「うっ。」

 優人が思わず呻き声を漏らす。容赦なく締め上げられている。


「お兄ちゃんっ。」

 雪奈がさらに力を込めてくる。


「ゆ、雪奈。ちょっ。」

 抱き合うって、格闘技のような締め方だったのか。

 優人は、じわじわとくる苦しみを味わいながらそう思った。


「いっ、ゆ、雪奈さん。」

 雪奈が爪を立ててきた。


 い、痛い。痛い。

 とても痛いです。

 も、もう離して。

 そんな優人の心の声が通じたのか、いきなり雪奈が体を離した。


 ふう、助かった。

 優人は、ほっと一息ついた。

 雪奈のほうを見ると、足を膝の辺りでぎゅっと閉じている。

 顔は俯き加減で、耳まで赤くなっている。


「だ、大丈夫か雪奈。」

 そう言えば、病み上がりだったな、と優人は心配になった。


「う、うん。少し変な気分になっただけ。」

「えっ、吐きそうなのか?ちょっと横になったほうがいいぞ。」

 これで、熱がぶり返したらオレの責任だ。

 優人は、雪奈と抱き合ったことを後悔していた。


「そうじゃないの。」

「違うのか?」


「うん。」

「そうか良かった。」


「嬉しかっただけ。」

「うんうん。オレも嬉しかったよ。」

 体を離してくれて嬉しかった、とは言えなかった。

 だから、言葉を少し省略してしまった。


「そうなんだ。良かった、お兄ちゃんも同じで。」

 そう言うと、雪奈がまた優人に抱き付いてくる。

 今度は、腰にそっと腕を回してきただけなので、優人も安心した。

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