第11話

 優人が学校から急いで帰宅すると、母がリビングで編み物をしていた。

 さすがに雪奈のことが心配で、今日は一日中家にいる様だ。

 外向性が高い母は、普段から日中はほとんど家にいない。習い事教室の先生をしたり、生徒になったり、会合に出席したりと何かと出かけることが多い。多芸で好奇心旺盛な人なのだ。


「ただいま。」

「おかえり。」


「雪奈の具合はどう?」

「お医者さんが言うには、ただの風邪だって。熱が下がれば、学校に行ってもいいそうよ。」


「そう。なら、一安心だ。雪奈は寝てるの?」

「帰ってからおかゆを少し食べさせて、貰ったお薬を飲ませたから、今はぐっすり寝てるわ。」


「分かった。」

「優人はお腹空いてない?スーパーで、雪奈のためにプリンとかゼリーを買ってきたけど、あなたも食べていいわよ。」


「うん。後で食べる。母さん、雪奈のそばで勉強してもいいかな?」

「構わないわよ。でも、風邪をうつされるといけないから、マスクをしておいたほうがいいわね。」


「そうする。」

 自室に戻った優人は、着替えて鞄にテスト勉強用の荷物を詰め込んだ。

 マスクを着けながら鞄を持って、雪奈の部屋にそっと入る。

 静かな部屋の中で、優人は床に座り、背をベッドに預けながら勉強を始めた。

 一時間ほど経っただろうか、ベッドから布の擦れる音がした。雪奈が寝返りをしたようだ。

 頭を触られた。顔を振り向けると、雪奈の目が開いて優人を見ていた。


「具合はどうだ?」

「お兄ちゃん、汗で気持ち悪いから着替えさせて。」

「分かった。母さんを呼んでくる。」

「お兄ちゃんが着替えさせて。」

「無理だから。待ってて。」


 リビングに降りると、母は電話で話し込んでいた。

 優人が、母の視界に入って、二階の方向を指差す。それで察したのか、母が電話を切る挨拶をし始めた。

 その間に優人は、浴室と洗面所から洗面器とタオルを三枚取ってきた。

 洗面器にお湯を入れ始めたところで、母が優人に話しかけてきた。


「どうしたの?」

「雪奈が汗をかいたから着替えたいって。」

「そう。」

「オレがこれ持っていくから、あとは母さんがやって。」

「分かったわ。」

 お湯が入った洗面器とタオルを持って、二人で雪奈の部屋に入る。優人だけリビングに戻った。

 お腹が空いたので、キッチンに行く。バナナと夏みかんが目に入った。コンロの上に土鍋が置いてある。中にはおかゆがあるのだろう。冷蔵庫の扉を開けて、果物ゼリーを一つだけ取り出す。バナナも一本だけもぎ取る。

 それらを食べ終わって、少し寛いでいると母が二階から降りてきた。何回か往復して、洗面器や雪奈の洗濯ものを洗面所に持って行っている。それが終わると、やれやれといった感じでリビングに入ってきた。


「優人に着替えさせろってうるさかったわ、あの子。」

「ああ、風邪のせいで甘えん坊になってるな。」

 優人が困った顔で苦笑いする。


「ほんと、お兄ちゃん子なんだから。」

「はは。」

 まだ、優人の苦笑いが続いている。


「そういえばこの間、わたし見たんだけど、あの子、小さい頃にあなたから貰った指輪をまだ持っているわよ。」

「指輪?」

 優人には何のことか分からない。


「お祭りのときに、優人が買ってあげた指輪。雪奈が、お兄ちゃんからもらった、ってすごく喜んでいたときのよ。」

「んー、覚えてないなあ。」

「わたしがね、雪奈の洗濯物を部屋に持っていったら、その指輪を左手の薬指にはめようとしていたの。というかね、わたしがノックしたから、焦って外そうとしていたんだけど、子供用の小さいものだから抜けなくなったのね。部屋に入って見たその焦り様が面白かったわ。」

「はは。」

 その様子を想像して、優人が微笑んだ。


「優人は本当に覚えてないの?」

「うん。全然思い出せない。」


「あなたって、そういうのはすぐ忘れるわね。まあ、そのお陰で助かったこともあったけどね。」

「でも、よくそんな昔のものまだ持ってるな。オレならとっくに失くすか、捨てちゃってるけど。」


「女の子はね。そういう物は大切に持っているし、ずっと覚えているものよ。」

「ふーん。」


「そのうち、責任を取らなければいけないかもよ。」

「責任って?」


「そうだ。優人、新しい指輪を雪奈に買ってあげたら?」

「ええっ。普通、妹に指輪なんかあげないよ。」


「妹だからいいでしょ。」

 母さんも雪奈と同じことを言っている。やっぱり親子なんだなあ、と優人はしみじみ思った。


「いいのかな?」

「ね。そうしなさい。せっかくだから、アクセサリーショップじゃなくて、ジュエリーショップにあるものがいいわ。指輪のサイズはお母さんがそれとなく雪奈から調べておくから。」


「でも、それだと高いしさ、他のにしない?」

「お金はわたしが援助するから。誕生日かクリスマスにあげたら、喜ぶわよきっと。あの子、どんな顔をするかしら。お母さん、早く見てみたいわ。雪奈、嬉しすぎて失神するかもね。ほんと楽しみだわ、ふふふ。」

 何だか恐ろしい結果が待ち受けていそうだ。

 断る口実を何とか見つけなければ、と優人は頭の中で考えていた。


 二階に上がって雪奈の部屋のドアをノックする。


「入って。」


 雪奈の了承を得たので、優人が部屋に入った。

 優人が先ほどと同じ位置に座ろうとすると雪奈が一言発した。


「喉が渇いた。」


 テーブルに置いてある、チューブ付きのボトルを優人が手にした。

 雪奈は、ベッドに寝たまま口だけ開けている。

 優人が開いている口にチューブの先を入れてやる。

 雪奈がチューブを吸って、中の水をゴクゴク飲んだ。


「もういい。」


 雪奈がチューブから口を離したので、ボトルをテーブルに戻した。

 また雪奈が一言。


「おしっこ。」


「一人で行けないのか?」

「無理。」

 掛布団をめくり、雪奈の首下に腕を差し込み、上体を起こさせる。両足を僅かに持ち上げながらベッドの縁まで動かせた。


「ほら、立って。」


「おんぶ。」


 なんて面倒臭い妹なんだ、と思いつつも、優人がしゃがんで背中を向けた。

 雪奈が、その背中に覆い被さってきた。


「うっ。」


 優人の口から思わず呻き声が漏れた。

 重い。

 重いぞ。

 何キロあるんだ一体。

 オレは55キロだが、絶対それ以上はある。

 きつい。

 優人は心の中で悲鳴を上げた。


「ひどいこと言ったら、つねるから。」

「あはは。」


 笑って誤魔化し、何とか立ち上がる。

 少女が華奢とか可憐とかいうのは真っ赤な嘘だと、優人は思った。

 立ち上がれば、意外と腰は辛くなかった。

 優人はゆっくりとトイレを目指した。

 トイレは一階と二階の二か所にあって、普段は一階のみ使用している。掃除が面倒なので、二階は緊急時しか使わない。今は緊急時なので、当然二階のトイレを使うことにする。

 二階のトイレのドアを開けて、トイレットペーパーの有無と、温水便座の操作部が光っているか確認する。どちらも大丈夫だったので、雪奈を背中から降ろした。


「終わったら呼んでくれ。」

 そう言ってドアを閉める。トイレの音が聞こえないように、廊下の端に移動した途端声がした。


「終わった。」


 あからさまに嘘だと分かるので、優人は何の返事もせずに動かなかった。

 暫くして、再びトイレから声が聞こえた。


「本当に終わった。」


 トイレの前に行く。


「開けるぞ。」

「うん。」

 トイレの中で、雪奈が壁に持たれながら立っていた。

 ほら、と優人がしゃがんで背中を見せる。

 雪奈がまたおぶさった。

 部屋に戻って、雪奈をベッドに寝かせたら腕を掴まれた。


「背中がかゆい。」


 そう言いながらも、雪奈は仰向けのまま背中をこちらに見せない。

 仕方なく、右手を雪奈の体の下に差し込んで行く。


「くすぐったい。」

「我慢だ。ここか?」

「うん。」

 指を何とか動かせて背中を掻いてやる。


「もっと強く。」

「これぐらい?」

「うん。」

 雪奈がいいと言うまで、優人は背中を掻き続けた。

 掻き終わって、優人が一息ついていると雪奈が口に出す。


「おなかすいた。」


「何食べる?おかゆがあるけど、母さんが色々買ってくれてる。うどん、ゼリー、プリン、バナナとかあるぞ。」

「おかゆがいい。」

「じゃ、持ってくる。暗くなったから明かりを点けるな。」

 陽が落ちて、窓の外が暗くなっていた。カーテンを閉め、部屋の明かりを点けてから一階に降りた。

 キッチンに行って、コンロの上の土鍋から、レンゲでおかゆを御飯茶碗に移す。それを電子レンジで温める。その間に、お盆を出し、お湯を注いだ湯呑と、お湯で濡らしてきつく絞ったおしぼりを載せる。薬も忘れずに取ってくる。


「優人はいい主夫になれそうね。」

 優人の一連の行為を横から見ていた母が言った。


「そう?」

「そうよ。こんなに献身的に看てくれる人はいないわ。」


「雪奈にはいつも世話になってるから、そのお返しのつもりだけなんだけど。」

「そういう謙虚な態度も、雪奈があなたを手放そうとしない理由の一つね。」


「ふーん。」

 優人には、責任とか手放すとか、母の言葉が良く分からなかった。


「今度、わたしが風邪を引いたら、優人が看病してね。」

「いいけど。雪奈が、自分がやるって言いそう。」

「それ安易に想像できるわ。ふふ。」


 雪奈の部屋に戻り、お盆をテーブルに置いて、御飯茶碗を手に取った。ほんのり温かい。

 御飯茶碗を持ちながら、雪奈のすぐ側で床に膝立ちになった。

 まだ、熱いかも知れないので、小さなレンゲでおかゆを僅かに掬って、口に含んで確かめる。

 ん、少し熱い気がする。

 さっきよりは少し多めに掬って、三回ほど息を吹きかけて冷ます。

 雪奈が口を開けて待っていた。その中にゆっくりとレンゲを傾けて含ませる。


「どう?少し熱いか?」

「大丈夫。」


 口に入ったおかゆをもう食べたのか、また雪奈の口が開いている。

 今度は、多めだが雪奈の一口に合う量を掬って、二回息を吹きかけて食べさせる。

 満足そうに食べている。何回か繰り返すと茶碗が空になった。


「全部食べれたな。えらいえらい。」

 そう言うと、雪奈はニコニコしていた。

 優人が、その笑顔の口元をおしぼりで優しく拭いてやる。

 立ち上がって、お盆に置いてある薬を手に取る。

 雪奈に、粉薬一包と錠剤一錠を白湯で飲ませた。再び口元をおしぼりで拭く。


「じゃ、寝たほうがいいから、オレはもう行くな。」

 そう言って、優人がお盆を手に取った。


「一緒に寝て、お兄ちゃん。」

「それじゃ、雪奈が寝るまでここにいるよ。」

「うん。」

 お盆をテーブルに戻し、側にあった蛍光灯のリモコンを手に取り、雪奈の顔に近い位置で床に座った。

 部屋の明かりを消し、優人が雪奈の頬を優しく撫でる。


「ありがとう、お兄ちゃん。」

「どういたしまして。」

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