第8話

 学校からの帰り、雪奈は珍しく一人だった。三人の友達はそれぞれ用事があって別々に帰っていった。兄は、捕まえる前に学校からいなくなっていた。

 暇なので、久しぶりに本屋に行くことにした。問題集でも買おうと思ったからだ。

 あたしも一応勉強でもしないとな、と机に向かう兄の姿を思い出していた。



 公園を歩いている。

 見上げると、たくさんの枝を広げた桜が誇らしげに咲いていた。

 暖かな日差しに優しい風が桃色の花びらを舞わせていた。

「ねえ、桜はまだ嫌いですか?」

 優しい声がした。

 振り返ると、白いワンピースを着た人が微笑んでいた。

「今は・・・。」

 言葉に詰まった。

 嬉しくて。

 泣きそうで。

「今は?」

 庫裡っとした瞳が穏やかに見つめている。

「今は少し好きになりました。」

 あなたに出会えたから。

 また、あなたに逢えたから。

「ふふ、良かった。」

 柔らかい声。

 まるで赤子をあやすような。

 その人をずっと見ていたいのに、視界が滲んでいく。

 必死にせき止めていた感情が溢れていく。

 涙が止まらなかった。

 声が漏れ出るのが止まらなかった。

 もう立っていられなかった。

 膝が崩れて地面に倒れこむ。

 涙が雨粒のようにアスファルトを濡らしていく。

「ああああああああああああああああああああああああ」

 さよならも言わずに消えて。

 つらい思いをさせて。

 さみしい思いをさせて。

 ごめんなさい。

 白い手が、地面に手を付いたままのオレの頭をゆっくりと撫でている。

「もう、そんなに泣かれたら私が泣けないでしょう。」

「ご・・ごめん。」

 涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を上げながら答えた。

「ほら酷い顔。よく見せて下さい。」

 肩に掛けた小さなバッグから、ハンカチを取り出しオレの顔を拭う。

「これで良し。はい、立って立って。」

 腕を掴み支えながらオレを立たせた。

「ちゃんと言わせて下さい。長い間この日を待っていたんですから。」

 あの時と何も変わらない顔。

 とても綺麗でとても強い人。

 彼女の口が開く。

「わたしはあなたが好き。」

「あなたのことが好き。」

「目が好き。」

「声が好き。」

「耳が好き。」

「柔らかい手が好き。」

「あなたの全てが・・好きです。」

 彼女の潤んだ眼が真っ直ぐこちらを見つめていた。

「あなたは・・・あなたはどうですか。わたしのことをどう思っていますか。」

 手が足が震えていた。

 何事にも怖気付かなかった人が。

「ふう。」

 オレは嘆息を吐いた。

「言わなくてもわかるでしょ。」

「言葉にして。ちゃんと言って下さい。」

 身を乗り出して彼女が言う。

「いや恥ずかしいんですけど・・・」

「わたしは言いましたよ。今度はそっちの番です。ほれ。ほれほれ。」

 手の平を見せながら上下に振って催促している。

「もー・・・。」

 気恥ずかしくて彼女の顔が見れない。

「こっちを見て、はっきり言って下さい。」

 覚悟を決めて彼女の目を見つめる。

 心の中全てが見透かれそうな綺麗な目。

「オレはあなたが好きです。大好きです。この世で一番好きです。」

 顔が熱い。

 滅茶苦茶熱い。

 告白したのは生まれて初めてだ。

 あまりにこそばゆくて、目を瞑り顔を上に向ける。

 見られたくなかったから。

「ありがとう・・・。」

 オレの胸に暖かく柔らかいものが触れる。

 彼女が体をそっと押し付けてきた。

 彼女の目から涙が零れ落ちている。

「うえーん、うえーん」

 泣き声が可愛くて思わず微笑んだ。

 この人は泣いても綺麗で可愛くてとても愛おしい。

 腕を回し、細い体を優しく抱きしめる。

「オレの方こそ、好きになってくれてありがとう。」

 二人を祝福するかのように、たくさんの花びらが舞っていた。




 ううっ。

 泣ける。

 あたしもこんな恋をしてみたい。

 でも、あの鈍感な人がこんなことを言ってくれるだろうか。

 本屋の漫画コーナーで、雪奈は溜息を吐きつつ試し読みの薄い冊子を棚に戻した。

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