第4話

 勉強も終わったので、優人が寝ようとベッドに入りかけたところでドアが開いた。


 パジャマ姿の雪奈が部屋に入らず、手でおいでおいでしている。


「雪奈さん。オレ、もう寝るところなんだけど。」

「お兄ちゃん、あたしの部屋に来て。」


 雪奈の部屋は優人の隣で、部屋の構造は対になっている。優人は、一度も雪奈の部屋に入ったことが無かった。部屋へ入ることを止められているわけではないが、単に訪問する用事がなかっただけだ。

 父と母の寝室は、廊下を挟んで二人の部屋の反対側にある。セミダブルのベッドが二つと、大きな三面鏡が付いた机が置ける広さがあった。

 父が単身赴任中の今、母は一階の和室で寝ている。母が言うには、寝室は広すぎて怖いらしい。空いているベッドも、夜中は誰かが寝にきそうと嫌がっていた。

 雪奈の怖がりは、母からの遺伝のようだ。


 ドアを開けて、雪奈が先に部屋へ入り、優人が後に続いた。

「これが雪奈の部屋か。」


 カーテンは、薄いピンク色で花柄の模様があしらってある。

 小さなガラステーブルには、鏡とちょっとした化粧セットが揃えてあった。

 大きな姿見が壁際に置いてある。

 白い本棚には、漫画がたくさん並べてあった。

 あとは、勉強するための机と椅子があり、シングルベッドの下の隙間に収納ケースが置かれていた。

 クッションが大小六個ぐらい散らばっている。


「お兄ちゃん、あたしの部屋に入るの初めてだった?」

「うん。部屋が分かれてから初めてだし、女の子の部屋自体が初めてだ。」

「そうなんだ。」

「想像通り、女の子の部屋っていい匂いがする。」

 優人が、大きく深呼吸を繰り返す。


「何してるの?」

「これは、女の子の部屋の匂いを堪能しているのだ。」

「あたしの匂いを嗅げばいいでしょ。」

 雪奈がそう言って、優人の目の前に立った。雪奈より背が低い優人が、顔を上向きにして目を瞑り、雪奈の頬の辺りで鼻をすんすんする。


「おお、ほんとだ。同じ匂いがする。」

「コンディショナーの香りかな?」

 雪奈も、俯きながら指で摘まんだ髪を鼻に近付けてすんすんしている。


「でも、雪奈のほうがいい匂い。あ。」

 目を瞑っていたせいで、いつの間にか優人の鼻と唇が、下を向いていた雪奈の頬にくっついていた。


「ご、ごめん。わざとじゃないから、信じて雪奈さん。」

 優人が両手を合わせて、拝むように雪奈に向かって頭を下げた。


「お兄ちゃん、あたしにキスしちゃったね。ふふ。」

「いやあ、言葉にしないでえ。」

 優人が、今度は顔に両手を持ってきている。恥ずかしいのか、顔が赤い。


「妹にキスするなんて犯罪だよ、お兄ちゃん。」

「事故。事故ですから犯罪じゃないです!」


「そっか、そっか。妹に欲情しちゃったのか。ふふ。」

「し、してないから。偶然だから。ホント信じて。」


「でも、キスされたのは事実だからなぁ。とりあえず、明日友達に話そうかな。ねえ、お兄ちゃん。」

「もう止めて。何でも言うことを聞きますから。」


「ほお、何でもって言ったね、お兄ちゃん。」

「約束します、雪奈さん。」


「またなにか考えておくから、そのときはちゃんと言うことを聞いてね。」

「うんうん。じゃ、許してくれる?」


「許すも何も、全然平気だから大丈夫だよ。」

「良かったあ。母さんとかに言われたらどうしようかと思った。」


「言わないよ。それより、こっちきてお兄ちゃん。」

 勉強机の上に、雪奈の中学の卒業アルバムが置いてあった。


「えっと。これを見るってこと?」

「お兄ちゃん、この間あたしのことを知りたがっていたでしょ。」

 そう言えば、スカートのことでいろいろ聞いたときに、雪奈の情報を残しておくとか言った気がする。


「じゃあ、雪奈のことをもっと教えてもらおう。」

「これを見ながら教えて上げる。ベッドで見ようよ、お兄ちゃん。」

 雪奈が掛布団を半分めくって、残りの部分に足を入れながら肘を立てて横になる。


 お兄ちゃんはここ、と右手てベッドをポンポンと軽く叩いている。

 優人は、ベッドに並んで座ると思っていたから、雪奈の行動に少々驚いた。

 しかし、反対する理由もないので、雪奈の指示通りベッドに寝そべる。


「お兄ちゃんは、中三のあたしを知らないよね。」

「うん。オレは卒業してたからな。」

 雪奈が、卒業アルバムの一ページ目から丁寧に捲っていく。

 シングルベッドが狭いため、二人の肩は密着していた。


「あ。あたしね。中学のとき告白されたよ。」

「えっ、う、嘘。お兄ちゃん、そんなの知らない。」


「ラブレターも貰ったことある。」

「ラブレターまで貰ったの?」


「あ、これほら県大会の写真。」

「待って、待って雪奈。爆弾を設置して、どこかに行かないで。ちゃんと処理をしていって。」


「爆弾って、告白のこと?」

「そうそう。詳しく話して雪奈。」


「うーんとね、二人に告白された。」

「ふ、二人も?それでどうしたの、その人たちは?今も付き合ってるの?」


「両方断ったよ。」

「断ったんだ。」


「うん。あたしには、お兄ちゃんがいるから無理ですって言ったの。」

「えっ。あれ?お兄ちゃん?」


「あたし変なこと言ったかな?」


 普通、断る理由は好きな人がいます、だったような。

 優人は疑問に思った。

 彼らもそう思ったに違いない。


「二人とも納得しなかったんじゃないのか、と思ってさ。」

「納得したよ。二人とも分かったって言って、それっきりだよ。」

「ええっ、納得したんだ。二人ともそれでいいんだ。」

 雪奈が、どこがおかしいの、というような表情して優人の顔を見ていた。


「あ、いや、それじゃあ、ラブレターのこと教えて。」

「ラブレターはね。何枚か貰ったんだけど、全部、久美が捨てちゃった。」


「久美って、雪奈と同じ陸上部だった、あの子のことか?」

「うん。こんなの雪奈には必要ないって、みんな破ったの。」


 家に時々遊びに来てたな。

 優人はきつい目をした少女の顔を思い出した。


「雪奈のことが好きだったのかな?」

「どうだろ。部活では、あたしにいろいろと教えてくれてたから、妹みたいに思っていたのかも。」


「ああ、なるほどな。」

「久美、元気にしてるかなあ。」


「私立の陸上が強い学校に行ったんだっけ?」

「うん。あたしも誘われたけど、お兄ちゃんと一緒がいいって断っちゃった。」


「雪奈のおかげで、オレは今の高校生活が楽しいよ。」

「ありがと、お兄ちゃん。」

 雪奈が頭を優人の肩に預けてきた。肘を突いているので、優人も頭をゆっくり動かせて雪奈を撫でる。


「それにしても、雪奈がそんなに男子から人気があるとは知らなかった。」

「そうだよ。だから、気軽にキスしちゃ駄目なんだよ、お兄ちゃん。」


「雪奈さんっ。もう言わないでっていったでしょ!」

「ふふ。じゃ、アルバム見よっか。」

 アルバムの最初のほうは学校行事の写真ばかりだ。


「お、雪奈がいた。この頃は髪がまだ長くないな。」

「体育祭のころはまだ短いままだね。」

 走るとき長い髪が邪魔だからと、陸上部にいた間はこまめに切っていた。短いといっても、男のようなものではなく、女の子らしい短めの髪だった。

 雪奈が髪を伸ばし始めたのは、三年の夏の終わり頃になってからだった。今では、胸の辺りまで髪が伸びている。


「修学旅行だ。セーラー服姿の雪奈って、何か懐かしいな。」

「あたし、まだセーラー服持ってるよ。今度着てあげようか?」

「えっ。」

「えって、何。お兄ちゃん?」

「雪奈さんっ。こっちを睨まないでっ。」

「絶対、酷いこと言おうとしてたでしょ。」

 腰回りが太くなっているから着れないだろう、とは言えなかった。何とか誤魔化すためアルバムを捲る。


「あ、県大会の写真があるよ、雪奈。三位だったんだよね。すごいね。」

「このときは、調子がすごく良くて、あたしもびっくりしちゃった。」

「高校でも陸上部に入れば良かったのに。」

「うーん。あたしは走ることは好きだけど、勝ちたいと思ってやってなかったから、そんなに陸上部に未練ないよ。」

「そうなんだ。・・・ふわあ。」

 優人が欠伸を漏らした。どうしてか分からないが、眠気が急に襲ってきた。


「眠いの?」

「うん。」

「じゃ、もう寝よっか。」


 壁側にいる雪奈が、胸や足を優人の体に触れながら、手を伸ばして、アルバムをベッドに寄り掛からせるように床に立たせる。

 枕元に置いてあるリモコンで部屋の明かりを消した。

 優人のほうを見ると、もう寝息を立てている。

 優人が狭いシングルベッドから落ちないよう、雪奈は、優人の体を優しく引き寄せて抱き締めた。

 雪奈が、右手で優人の頬に触れる。

「やわらかい。」

 十分その感触を楽しんだあと、右手が優人の耳からうなじへとゆっくりと動く。

「お返しだからね。」

 雪奈の唇が優人の頬に押し付けられた。

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