第3話

 鍵を開けて玄関の扉が開く音がした。


「ただいま。」

 制服姿の雪奈がリビングに入ってきた。


「おかえり。」

 学校から先に帰った優人は、ソファに座ってスマホを眺めている。

 テーブルに、飲みかけのペットボトルが置いてあった。


「お兄ちゃん、喉が渇いたからそれ貰っていい?」

「いいよ。」

 雪奈が、ペットボトルに入っているオレンジジュースをゴクゴクと飲んだ。


「ふう、生き返った。」

「雪奈さん、お兄ちゃんまだ飲みたいから全部飲まないでね。」

 ペットボトルをテーブルに戻し、雪奈が向き直った。


「大丈夫。それよりさ、お兄ちゃん。」

「何?」

「こういうのって、間接キスなんだよ。」

「改めてそう言われても、そうかとしか言えないな。」

「普通の男の子なら、結構意識してたりするんだけど。」

「オレだって、普通の男の子だぞ。」

 優人は、心外だという表情でソファに座り直した。スマホはもう見ずに脇に置いてあった。


「お兄ちゃんは、あたしとの間接キスは気にならないの?」

「ならない。というか、小学生の頃からそれ以上のことをしているからな。」

「どんなこと?」

「雪奈が噛んでたガムを、食べてと口の中に入れてきたりしたぞ。」

「あぁ、そう言えばそういうことしてたね。」

「しかも、味の無くなったガムだ。」

「そ、そうだっけ。」

「他にもな、ご飯の時に、噛み切れない筋肉をくちゃくちゃしたあと、あげると言って無理矢理食べさせられたな。」

「うっ。そ、そんなこともあったね。」

 雪奈は、自分がまずいと思ったもの、食べきれなかったものを、眼前の兄に食べさせていたことを思い出した。ただ、今では逆に、自分が美味しいと思ったものだけを積極的に分け与えている。


「オレはまるで、雪奈の掃き溜めのような存在だったな。」

「ははは。」

 雪奈が、何とも言えない表情で苦笑いをした。腰の辺りで手を合わせて、ちょっとした謝罪をしているようだった。


「だからな、雪奈との間接キスはまったく気にならんぞ。」

「それじゃあ、どこまで気にならないかチャレンジしてみない?」

「いいけど、何するんだ?」

「今までのお詫びも兼ねてね、とってもいいことだよ。」

 口元に笑みを浮かべたまま、雪奈の眼が妖しく輝いていた。

 雪奈が、テーブルのペットボトルを手に取って、側にあった蓋で栓をした。ペットボトルを持ったまま、優人に向き直る。


「じゃあ、お兄ちゃん。座ったまま顔を上に向けて、口を大きく開けたままにして。」

「こうかな?」

 雪奈が何をするのか想像できず、優人は指示された通りの姿勢になった。


「うん。いい子いい子。」

 優人の目の前に立った雪奈が、優人の額を優しく撫でた。

 左手にペットボトルを握ったまま、優人の右側に雪奈の左膝がソファに乗せられた。膝まであった制服のスカートがせり上がり、雪奈の白い太腿が僅かに見える。優人の開いた両足の間に、雪奈の右足があった。


「まだそのままだからね。」

「ふぁひゃふひへ。」

 早くしてと、口を開けたまま優人が答えた。


「はいはい。その代わり絶対動かないでね。」

「ふぁひゃっは。」

 雪奈がペットボトルの栓を開け、中のジュースを少しだけ口に含んだ。再び栓を閉めて、ペットボトルを優人の側に立て掛ける。左手で、自分の左髪を耳の後ろにかき上げた。体を僅かに屈めて、優人の体にぐっと近付く。左手を優人の後頭部に添えて、右手で優人の顎を優しく包み込みながら上向かせた。


 これはまさか、と優人の体に緊張が走った。


 雪奈の顔がそっと降りてくる。二人の顔の間には、二本の指が入るかどうかの隙間しかなかった。雪奈から漂う甘い香りが、優人の緊張を解した。


 雪奈が動きを止め、目を細める。血色の良い艶やかな唇をほんの僅かに開けた。雪奈の口の中で温められた液体が、糸を引くように優人の開いた口にこぼれ落ちていく。


 雪奈は、口に含んだジュースを、優人の口に全て流し込んだあと顔を上げた。一仕事終えたような満足気な表情で、優人を見つめている。優人は、口の中に落ちてきた液体を全て飲み干した。


「お兄ちゃん、どうだった?」

「キスされるかと焦ったぞ。」

「うふふ。キスをするときはちゃんと言うから安心して。」

「言われても、お兄ちゃんはキスなんてしないからな。」

「はいはい。で、感想は?」

「ドキドキした。」

「やっぱり、お兄ちゃんでもドキドキするんだ。」

「当たり前だ。こんなことされれば誰だってそうなるぞ。」

「ふふ。そっか。やってみた甲斐があったかな。」

「てっきり、またガムでも放り込まれると思っていたからな。」

「それじゃ、驚いてドキドキしたの?」

「そうかな?よく分からないけど。」

「嬉しいとか、そういうのは無かったのかな?」

「うーん。あったような無かったような。」

「随分、曖昧だね。じゃあね、もっとすごいのをやってあげる。」

「ほう、これ以上にすごいのがあるのか?」

「うん。お兄ちゃん、絶対あたしにときめくから。」

 そう言って、さっきの姿勢のまま優人から離れなかった雪奈が、優人の顔に手を添える。


「お兄ちゃん、口をさっきみたいに開けて。」

「ふぉうひゃ。」

「じっとしていてね。」

 雪奈が、再び優人の顔を上向かせ近付いていく。二人の顔の距離が、鼻が触れ合うぐらいに縮まった。


 雪奈はペットボトルを口にしていなかった。優人がちらりと視線を向けると、口を窄めその中で舌を動かせている。


 雪奈の瞼が閉じられ、窄められた唇の隙間から、透明な唾液が溢れ出てきた。美しく輝く雫のような唾液が、糸を引きながら優人の開いた口の中に垂れていった。透き通った糸が、一瞬だけ二人の口を繋げる。


 優人から顔を離し、雪奈の柔らかな長い睫毛の瞼がそっと開いた。キラキラと輝く宝石のような瞳が見える。雪奈の頬が僅かに赤く染まっていた。


「どうかな?」

「ふ、不覚にもキュンとしてしまった。」

 真っ直ぐな雪奈の視線に耐えられず、優人は恥ずかしそうに横を向いた。


 その言葉を聞いた雪奈が、両腕を優人の首に回し自分の胸に引き寄せた。雪奈の柔らかな膨らみに、優人の顔がうずくまった。


「どうだ、参ったか。」

「うん。」



 二人の側でスマホから通知音が鳴った。


「そう言えば、雪奈に話があるんだった。」

 雪奈の柔らかな胸の中で、優人が思い出したように口を開いた。


「なになに、お兄ちゃん。何の話?」

 雪奈が嬉しそうな表情で、優人の隣に座り直した。


「えっと。雪奈が何に期待しているか分からないけど、遊園地に行かないか?」

「行く行く、絶対行く。お兄ちゃんと二人ならどこだって行くよ。自分からデートに誘ってくるなんて、お兄ちゃんもさっきので目覚めてくれたんだね。あたし、すごく嬉しい。」

 雪奈が、優人の左腕をぎゅっと胸に引き寄せた。優人の肩に頬をすりすりしている。


「あの、自分の世界に入り込んでいる雪奈に悪いんだけど、二人きりじゃないんだ。」

「ええええっ。二人きりじゃないの?」

 雪奈が、優人の腕を離し俯いた。肩の力が抜けて両腕がだらんと垂れている。気の毒になるくらいの酷い落ち込み様だ。優人には、雪奈がそこまで失意のどん底に陥る理由がよく分からない。


秋川あきがわがさ、親父さんから、乗り放題つきの遊園地のタダ券を貰ったんで、みんなで行こうって話なんだけど。」

「少しがっかりしたけど、あたしも行くね、お兄ちゃん。」

 意外と雪奈はすぐ復活した。いつもの明るさを取り戻したようだ。


「いや、もの凄く落ち込んでたみたいだけど、雪奈もOKで返事しておくな。」

「あ、お兄ちゃん。遊園地はいつ行くの?」

「中間テストが終わる次の日。確か、配線工事で休校になる金曜日だな。」

「それなら多分大丈夫。」

 優人がスマホを弄って、秋川たちと連絡を取り合う。


 雪奈が、ラインの内容が気になるのか、優人にくっついてスマホの画面を見ている。優人は、雪奈が見易いように画面を傾けて操作していた。


「券が余ってるから、妹の友達を紹介してくれっていわれてもなあ。」

「なんか、三人とも必死な感じだね。」

「こいつらのお願いなんて断ってやろう。大事な妹の友達を、汚されるわけにはいかないしな。」

「待って。せっかくお金を使わずに遊べるんだし、一応みんなに連絡してみるね。」

「雪奈がそう言うんなら、しょうがないな。」

 返事がくるまで時間がかかるようで、雪奈は着替えにいった。


 優人は三人に返事待ちと連絡した。すると、三人は、お互いの人望がどうのこうのと言い争いを始めた。どうやら、断れる前提で会話しているようだ。

 雪奈がスウェットに着替えてリビングに戻ってきた。


「みんなOKみたい。」

「マジで?なんでだろ。オレなら行かないけど。」

「えっとね。みんな、テストの打ち上げのことを考えていたから。」

「なるほど。ちょうどテストが終わった後だからな。」

「それからね。無料で遊べるのもいいけど、場所がいいんだって。」

「遊園地がいいってこと?」

「ちょっと酷いんだけどね。遊園地って広いから、男女別々に行動出来るし、相手と話さなければいいってみんなが。」

「ああ、それでOKが出たのか。まあ、いいんじゃないかな。」

「うーん、やっぱり先輩たちが可哀そう。あたしがみんなに、いい人ばかりだっていろいろフォローしておくね。」

「雪奈、お前ってやつは。本当に良く出来た妹だ。お兄ちゃんは嬉しいぞ。」

「せっかくみんなで行くんだしね。お互いに会話したほうがいいよ。」

「よし。じゃあ、あいつらには釘を刺しておこう。」

「なにするの?」

「身だしなみと言動の指導をしてやる。」

 玄関から扉を開ける音がした。母が帰ってきたようだ。雪奈が出迎えにいって、大きな袋を手に提げて戻ってきた。


「お兄ちゃん、晩御飯はハンバーグだって。良かったね。」

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