第1話

 ピピピ、ピピピ、とスマホのアラームが鳴っている。

 ベッドに寝ていた優人ゆうとは起き上がりアラームを止めた。


「おっぱい揉んでみる?お兄ちゃん。」


「も、揉まないからな!」


 突然、変なことを言われて優人は大声を出した。

 声のした方へ顔を向けると、隣りで妹の雪奈ゆきなが気持ち良さそうに寝ていた。

 どうやら寝言のようだ。


 何て人聞きの悪い寝言を言う妹なんだ。

 大体、兄にとって妹の胸なんぞ無用の長物だ。


 相部屋だった二人だが、優人の中学入学を機に部屋が分かれた。

 人一倍怖がりな雪奈は、それから毎晩のように優人のベッドに潜り込んで来る。

 高校生になってもその癖は直らなかった。


「雪奈起きろ。朝だぞ。」


 雪奈の肩を揺さぶる。

 雪奈は体が大きいため男性用のパジャマを着ていた。

 女性用だと袖や丈が短くなって窮屈になるからだ。


「ふわぁ・・。何?お兄ちゃん。」

「朝だから起きろ。」

「もう少し寝る。」

「昨日、先生から準備を頼まれたって言ってただろ。早く行かないと駄目だぞ。」

「お兄ちゃんがやっておいて。」

「出来ないから、ほら、早く。」


 雪奈は目を閉じたまま起きようとしない。

 放っておいてもいいが、薄情者とか冷血人間とか、後で必ず愚痴を言ってくる。面倒臭い妹だ。


 優人が穏やかな表情で寝ている雪奈の顔に近付く。

 おもむろに、雪奈の鼻の穴に小指を入れる。

 何の反応もない。

 やはりこれしかないのか。

 優人は、雪奈の脇に手を差し込み指でくすぐった。


「あはは。やだっ、やめてっ。」


 雪奈が優人の手から逃れるために身を捩った。

 くすぐっていた優人の左腕が、雪奈に掴まれる。

 雪奈の目がしっかり見開いていた。

 ようやく目が覚めたようだ。

 雪奈が優人の腕を離した。


「お兄ちゃん、朝起こすときは頬っぺたにキスでしょ。」

「普通はそんなことしないぞ。」

「キスして起こすのが当たり前なんだよ。お兄ちゃん、知らないの?」

「えっ、うそ。いつから当たり前になったの?」

「今だよ、お兄ちゃん。」

「くっ、この嘘つき。早く起き上がって準備しろ。」

「じゃ、起き上がらせて。」


 優人の顔を見つめながら、ベッドに寝たままの雪奈が両手を差し出した。


「はあ、手間のかかる妹ですこと。」

 優人は、仕方なく雪奈の両腕を掴んだ。


「兄は妹に優しくしないとね。」

 雪奈の腕を引っ張り、体を起こそうとする。


 お、重い。


 優人が胸の内で呟いた。

 優人の身長は165センチだが、雪奈の身長は173センチもある。

 他人からは、雪奈の兄ではなく弟として扱われたことが何回もあった。

 しかし、雪奈は優人の身長のことは全く気にしていない。


「今、ひどいこと言おうとしたでしょ。」

「い、言わない。雪奈がちょっぴり重いなんて言わないぞ。」

「口から出てるから、お兄ちゃん。」

「あはは。」


 雪奈を引き起こし、優人は笑って誤魔化した。


「あたしが重いのは、お兄ちゃんとの思い出が体にいっぱい詰め込まれてるせいだよ。」

「オレとの思い出は、雪奈の体重になっちゃうのか。」


 雪奈が両手を突き上げて、大きく伸びをする。

 色気のないパジャマに包まれた豊かな胸がせり上がった。


「あと、お兄ちゃん。変なことして起こすの止めてね。」

「雪奈が起きないからだ。」

「普通、妹の鼻に指なんか入れないよ。」

「じゃあ、高校生の男女が、一緒の布団で寝るのはいいのか?」

「妹だからいいでしょ。」

「そ、そうなのか。」


 うーん。鼻に指は駄目で、一緒に寝るのはいいのか。

 その辺の判断基準がよく分からん。

 優人はいつも思い悩む。


「あたしが先にトイレに行くね。」


 雪奈が部屋を出ていったので、優人は学校の制服に着替えた。



 優人がダイニングテーブルで朝食をとっていたら、制服姿の雪奈が二階から降りてきた。


「あ、お母さーん。あたし、牛乳だけにするー。」

 そう言いながら、雪奈が洗面所で忙しなく動き回っている。

「えっ、食べなくて大丈夫なの?」

 母が大きな声で、洗面所に向かって話しかけた。

「今日はもう行かなくちゃいけないし。」

 雪奈が髪を弄りながらリビングに入ってきた。

「ちょっと待って、お弁当をまだ包んでないわ。」

 今度は、母が忙しなく動き回る番だった。


 雪奈が、テーブルに置いてあった牛乳の入った自分のグラスを手に取り、優人のすぐ側に近寄ってきた。

「何?」

 優人が尋ねると、雪奈が身を屈めて小さな顔を寄せてくる。


 長い睫毛。

 綺麗な二重のつぶらな瞳。

 筋の通った鼻。

 艶やかな唇。


 我が妹ながら可愛いなと思うが、優人は口に出さない。

 言えば必ず図に乗って、可愛い妹のためだと思って、とか言いながら、頼みごとを強要してくるに決まっているからだ。


「今日は一緒に登校できないから寂しいでしょ?」


 雪奈が優人の耳元で囁いた。

 胸の辺りまで長さのある雪奈の髪が揺れ動いて、シャンプーらしき甘い香りが優人の鼻腔をくすぐる。


「さ、寂しくないぞ。」

「もっと正直になったらいいのに。」


 そう言うと、雪奈はグラスの牛乳を一気に喉に流し込んだ。

「それだけじゃ、お昼まで持たなそうだな。」

「大丈夫。じゃあ、行ってくるね。」

 雪奈が空になったグラスをテーブルに置き、キッチンにいる母に声をかけ玄関に向かった。

「待って、雪奈。はい、お弁当。」

「お母さんありがとう。行ってきまーす。」

「はい、気を付けてね。」

 雪奈が玄関のドアを開けて出て行った。



 優人が今の学校を選んだのは、自分の学力に合って家から近いところというのが理由だった。進学校なので、真面目な生徒が多いということもあった。

 優人が二年生になると、雪奈が同じ高校に入学してきた。

 雪奈にこの高校を選んだ理由を聞いたら

「お兄ちゃんがいるから。」と答えが返ってきた。

「えっそんな理由で。」と優人が再び質問すると

「妹だからいいでしょ。」と言われた。

 妹ならそんな理由で進路を決めていいんだ、と変な感心をしてしまった。



 四月の下旬、頬に当たる風が大分暖かくなってきた。


「おい、雨宮。」

 駅の改札を出て、階段を降りている途中で呼び止められた。

 優人が振り返ると、一年生の時からつるんでいる秋川あきがわが近づいて来る。

 秋川の身長は180センチあり、その身長差から優人の頭をぽんぽんと叩いてきたり、首を腕で挟み込んで弟のように扱ってくることが何度もあった。


「珍しいな、今日は一人か?」

 優人は、始業式から毎日雪奈と一緒に登校していた。

「ああ、妹は手伝うことがあるとかで先に行った。」

「それでか。」

「何が?」

「妹がいないせいか、寂しそうだぜ、お兄ちゃん。」

「冷やかすなよ、秋川。」


 お前も同じことを言うのね。

 優人は今の自分の顔を鏡で確認したかった。


「いやいや、ほんと雨宮のとこは仲良過ぎだって。みんな言ってるし。」

 秋川が取り繕うように言う。

「そうかな。」

「そうだよ。丸山にも妹がいるんだけどよ。何て呼ばれてるか知ってるか?」

 丸山は、身長が優人と同じぐらいで体重が80キロもある男だ。

 優人は、あとひとり下谷を入れて、三人と仲が良かった。

「おい、とかか?」

「違う違う。豚だって。おい豚って呼ばれてるんだってよ。あははは。」

「ええっ、酷いな。人間扱いされてないんだ。」

「あはははは。だろ。でもさ、見た目通りだからしょうがないし。あははは。」

「いや、お前もひでえ。」

 秋川が優人の肩を叩いて笑っている。


「あなたたち邪魔よ。」


 後ろから冷たい声を浴びせられた。

 優人と秋川が振り向くと、霧沢きりさわが冷めた目でこちらを見ている。

 霧沢は同じクラスの女子生徒で学級委員長だ。


「歩道のもっと端を歩きなさい。」

 二人を足早に追い抜きざま言い放った。

「ホント、小姑だな。」

 秋川が霧沢に聞こえるように呟いた。

 しかし、霧沢の背中は何の反応も示さず、立ち止まることなく遠ざかって行った。


「秋川、委員長の悪口を言うなよ。」

「お前って、妙に委員長に甘いよな。気でもあんのか?」

「何か一人でいること多いしさ、可哀そうだろ。」




「委員長、さっきはごめんね。」


 優人が、教室の自席にカバンを置き、後ろを振り返って謝った。委員長の霧沢は、優人の後ろに座っている。


「別に気にしてないわ。」


 机の上に置いた文庫本に目を落としたまま、霧沢がはっきりした声で答えた。


 霧沢は、黒い艶のある髪をボブカットにしていて見た目は美人なのだが、話し方が問題で人から敬遠されていた。

 相手の感情を考えずに、一刀両断するように鋭い指摘や手厳しいことを言ってしまうためだ。

 ただ、優人には、霧沢の話し方はそれほど気にならなかった。毎日一言ぐらいは話してるので、慣れてしまったのかも知れない。

 優人と霧沢が話す切っ掛けを作ったのは彼女が先だった。



 高二になり新学期が始まって席替えを終えたある日、優人の背中が突かれ、後ろに座る霧沢が質問してきた。


「あなた犬は嫌い?」

「犬は嫌いじゃないけど、少し怖いかな。」


 いきなり変な質問だな、と思いつつも優人は素直に答えた。


「そう、分かったわ。もう前を向いて。」


 それからは、たまに話しかけてくるようになった。

 学力テストの答案用紙が返されたときは

「あなたどうだったの?」

 といいながら優人の答案用紙を覗き込んできた。

 ほとんどが、霧沢のほうが点数が高く

「あなたそんなことも分からないの。」とか詰られもした。

 優人のほうが高い点数のときはふくれっ面をしていて、それが何だかとても可愛かった。



 いつの間にか、優人は霧沢の顔をじっと見ていたようだ。


「何?」


 霧沢が優人の顔を見つめ返している。

 泰然とした表情だ。


「あ、いや。昨日の数学で渡された宿題のプリントに、答えが合っているか不安なところがあってさ。」

 優人がカバンからプリントを出して、慌てて取り繕う。


「どこなの?」

「ここなんだけど。」

「合っているわよ。」

「そ、そっかあ。良かった。」




 昼休み、優人ゆうと秋川あきがわ下谷しもたに丸山まるやまの四人は集まって弁当を食べていた。

 いつもの場所である秋川の席は、先に女子生徒に占領されていて、今日は仕方なく優人の席に机を寄せて集まっていた。


「だからよ、おっぱいは夏帆ちゃんが一番いいんだって。でかいし。」

 と、身長180センチの口が悪い秋川あきがわが言った。


「違いますな。おっぱいは、ただ大きければ良いというものではないのですよ。形が重要ですぞ形。」

 と、アイドルオタクで口調が丁寧な下谷しもたにが否定する。


「分かる分かる。そうすると、歩美ちゃんが一番だ。」

 と、体重が80キロあるが気は優しい丸山まるやまが頷いた。


 度々行われているタレントのおっぱい談義だ。

 優人の後ろで、一人弁当を食べている霧沢きりさわが溜息を吐いた気がした。


「雨宮。」

「おい、雨宮。」


 廊下側にいる男たちに呼ばれて、優人が教室の入口を見る。

 雪奈ゆきなが、失礼しまーすと言いながら優人のほうへ歩いてきた。

 上級生の教室でも、物怖じしない堂々とした性格っぷりだ。


「相変わらず、可愛いね、妹ちゃん。」

「今日はいい日ですね、妹さん。」

「こんにちは、妹さん。」


 優人を除く男どもは、なぜか雪奈を妹呼ばわりしている。


「先輩方、こんにちは。」

 雪奈が男どもに向かって、丁寧にお辞儀をした。


「どうしたんだ、雪奈?」

「お母さんがね、あたしのお弁当箱にお箸を入れ忘れちゃったの。」

「あー、今朝はバタバタしてたからな。しかし、困ったな。」

「だからね、お兄ちゃんのお箸を貸して欲しいの。」

「え、オレも今弁当を食べているんだが。」

「いいじゃない、お兄ちゃん。」

「そ、そうだな。」


 優人が、今使っている箸を雪奈に渡そうしていたら、後ろから声がかかった。


「わたし、予備の割りばしを持っているわ。」


 後ろで話を聞いていたらしい霧沢が、カバンから袋に入った割りばしを取り出した。


「委員長助かる。ありがとう。」

「構わないわ。滅多に使わないし。どうぞ、使って。」

 霧沢が割りばしを雪奈に差し出した。


「先輩、ありがとうございます。また後でね、お兄ちゃん。」


 雪奈が、優人の持っていた使いかけの箸を取って、教室を出て行った。


「あれ?わたしって、あの子に割りばしを差し出したわよね。」


 霧沢が割りばしを持ったまま、何か理解不能な事に出会った顔をしている。


「なんで、雨宮の箸?」

「割りばしが嫌とか。」

「何かあるのかな。」

 男たちも皆、不思議そうな表情だ。


「妹だからいいんじゃないかな。」

 優人が魔法の呪文を唱えた。


「おお、そうだな。」

「妹ですしね。」

「なるほど。」

 男どもは全員納得したようだった。


「妹なら、尚更そんなことしないわ。変な子ね。」


 霧沢だけが、納得がいかない様子で、手にしている割りばしを見つめながら眉をしかめていた。


「割りばしはオレが使うね、委員長。」

 あの呪文は男にしか効果がないらしい。





 放課後、優人が下駄箱で靴を履き換えて表に出ると、左奥の柱に寄り掛かりながら雪奈が立っていた。

 じっと人の流れを見ていた雪奈が、優人を見つけて近づいてくる。


「来るのが遅いよ、お兄ちゃん。」


 雪奈に左腕を掴まれて、二人並んで歩き出した。

 腕を組んで歩く二人を見て、皆一様に驚く。

 しかし、雪奈のほうが背が高いので、カップルではなく仲の良い姉弟と認識し、大抵の生徒はすぐに無関心になる。

 優人は、昔から雪奈にくっつかれているので、それが当たり前になっていた。


「オレ、これでも教室から真っ直ぐ出てきたんだけど。」

「ダッシュして来なくちゃダメだよ。」

「そんな理不尽な。というかオレ、雪奈と何の約束もしてないんだが。」

「約束したよ。もう忘れちゃったの?」

 呆れたような表情で雪奈が優人を見る。


「えっ、いつ?いつ約束しちゃったのオレ。」

「お昼休みにしたでしょ。」

「いや、全く覚えが無いんだけど。オレって健忘症なのかな。」

「また後でね、って言ったでしょ。」

「ええっ、それだけ?それが放課後に雪奈の用事に付き合うって意味なんだ。」

「要するに、察しろってことだよ、お兄ちゃん。」

「雪奈さん酷いっ。そんなんで分かるわけないじゃん。もう人類に言葉なんて必要ないじゃん。」

「言葉は必要でしょ。」

「だからね、言葉を使って用件は詳しく伝えて欲しいんだ。」

「兄妹に言葉は不要でしょ。」

「ええええっ。アイコンタクトなの?眼だけで、オレが夕食にハンバーグを食べたいとか分かるの?」

「お兄ちゃんの顔を見れば、考えていることぐらい大体分かるよ。」

「マジで?じゃあ、オレが今思っていること当ててみて。」

「めんどくさいから早く帰りたい、でしょ。」

「当たってる。超大当たりなんだけど。何、雪奈はオレのこと全部分かるの?オレの妹は超能力者だったのか。」

「そうだよ。秘密をバラされたくなかったら、あたしの用事に付き合ってね。」

「あ、はい。なるべく早く家に帰してね。」


 逮捕された容疑者のようにうな垂れたまま、優人は雪奈に腕を掴まれ目的地まで連れて行かれた。




 駅ビルにあるティーン向けの店が集中しているフロアが、今日の雪奈の目的地だったようだ。

 服が揃えてある棚を雪奈が移動する度に、優人の腕が引っ張られた。

 雪奈が優人の腕を引き、目に留まったものがあれば、腕を離して商品を手に取って眺めている。

 それを、あっちの店、こっちの店と三店舗ぐらいで繰り返していた。

 雪奈の身長が高いため、サイズが合って気に入る服がなかなかないようだった。

 服を選ぶときは、荷物があると邪魔なので、雪奈のカバンを優人がずっと持っている。

 優人は、雪奈がショッピングをしている間、手にしているポケット単語帳から目を離さなかった。


「雪奈。」

「こっちこっち。」

「こっちだよ、雪奈。」


 同じ高校の制服を着た女子生徒が、三人並んで通路に立っていた。雪奈に向かって軽く手を振っている。


「あ、みんなも来てたんだ。」

 そう言って、雪奈が店の中から三人のいる通路のほうへ向かう。

 勿論、雪奈は右手で優人の左腕を掴み、連れて行く事を忘れない。


 声を掛けてきた三人は、雪奈と同じクラスの生徒で、昼休みには一緒に弁当を食べる仲だ。


「ここに来るなら、一緒に来れば良かったのに。」

 と、咲良さくらが言う。咲良は四人の中で一番背が低く、まだ中学生のような容姿で男子からの人気が高かった。


「この人が雪奈の兄貴?雪奈のほうが背が高いんだ。」

 春香はるかが優人をジロジロ見ている。春香は短めの髪をしていて鼻が高く、宝塚歌劇団にいる男役のような感じだった。


「雪奈、ちょっといい?こっち、こっちきて。」

 秋名あきなが雪奈の左腕を掴んで、通路にある柱の陰に連れて行こうする。

 秋名というのは名字で、自分の下の名前にコンプレックスがあるため、友人たちには名前でなく名字で呼んで貰うようにしていた。秋名という響きが、名前のようでもあるからだ。


 秋名が引っ張る雪奈のあとを、三人がぞろぞろと付いて行く。


「ちょ、ちょっと雪奈。どうしてお兄さんを連れてくるのよ。」

「だって、お兄ちゃんは目を離すとすぐどこかへ行っちゃうから。」

「少しだけ内緒話したいんだって。だから、お兄さんを置いといて。」

「えっ、少しなら居てもいいでしょ。」

「いや、だからね雪奈。お兄さんには内緒の話がしたいのよ。」

「お兄ちゃんなら、単語帳に没頭してるし大丈夫だと思う。」

「くっ、この子はどう言えば・・・。」

 秋名のこめかみがピクピクしているが、雪奈はニコニコしている。


「まあ、まあ。どこにも行かないようみんなで注意してるから、少しだけ兄貴から離れて雪奈。」

 いつまでも二人が平行線を辿っていたので、春香が割って入ってきた。


「もう仕方ないな。じゃ、ちょっとだけね。」

 渋々、雪奈が同意して優人から手を離した。



 通路の端に優人を立たせておいて、その反対側の端に四人が身を寄せ合った。五メートルほどの距離があるが、みんなヒソヒソと話し合う。


「雪奈ってブラコンなの?」と、秋名あきな

「お、直球だ。」と、春香はるか

「いきなり核心を突いたね。」と、咲良さくら

「ブラコンじゃないけど。」と、雪奈が答えた。


「じゃあ、どうしてお兄さんとショッピングしてるの?」

「普通しないな。」

「そうだね。」

「服を見るとき荷物がないと楽だからかな。」


「荷物係ってことね。」

「手が空いてると見易いしな。」

「楽だしね。」

「まあ、そんな感じで、お兄ちゃんとはよく一緒に買い物に行くんだけどね。」


「ふーん。荷物係なら問題ないかな。」

「それぐらいならいいかもな。」

「問題ないね。」

 三人は納得したようで、雪奈を開放し、お別れを言って離れて行った。


 雪奈は、再び目に留まった店の前で足を止め、棚に揃えられた様々な服を見ていく。当然、その側には優人がいた。



「お兄ちゃん、ちゃんといる?」

 雪奈は、分厚いカーテンが閉じられた試着室の中で、ゴソゴソと手足を動かせていた。


「うん。」

 試着室の前で、単語帳を見つめている優人が生返事で答えた。

 着替えが終わった雪奈が、試着室のカーテンを開けた。

 目の前で背中を向けて立っている優人の肩を優しく掴み、こちらに振り向かせる。


「お兄ちゃん、どうかな?」

「いいんじゃね。」


 単語帳から目を離さずに答えた優人の頬を、雪奈が右の指でぎゅっと引っ張る。


「痛いっ。何するの雪奈さんっ!」

「ちゃんとあたしを見て。ちゃんと感想を言って。」

 優人がつねられた左の頬を擦りながら、腕を組んでこちらを睨んでいる雪奈をじっと見た。


 上は制服の上着を脱いでいて、下は黄色っぽいスカートを履いていた。

 膝上20センチ以上はある丈で、雪奈の白い太腿が大きく露わになっている。

 伸縮性の高い生地なのか、雪奈の腰から腿にピッタリと張り付いている感じだ。

 雪奈の長い脚が、さらに長く見えた。


「格好いいな、雪奈。」

「かっこいいの?」

「脚が長く見えて、どこかのモデルさんみたいだ。」

「ふーん、そうなんだ。」

 雪奈が顔を下向けて、履いている短いスカートを見つめている。

 あれ?雪奈が期待していた回答と違うのか?優人が思案顔になった。

 雪奈が背中を優人に向けた。

 後ろの壁にある大きな鏡で自分の姿を見ながら、かっこいいのかなと呟きながら、スカートの裾を引っ張ったりしていた。

 優人が、その後ろ姿を見つめる。スカートを履いていても、その生地のせいで、雪奈のお尻の形が丸分かりだ。

 雪奈のお尻は、形良くふっくらしていて柔らかそうだった。そして、その膨らみを覆うような線が、スカートに浮かび上がっている。


「雪奈っ。雪奈さんっ!」

「何?お兄ちゃん。」

「下着っ。下着の線が見えてるっ!」

 優人が、顔を背けた。単語帳持ったままの右手を上げて、雪奈の腰の辺りを指差している。


「やっぱり見えてた?これを履くときは、下着に注意しないといけないかな。」

 雪奈は、両手でスカートに浮き出た下着の線を確認し始めた。


「お、結構出てる。でも、これ履き心地いいし楽だしなあ。」

「もう着替えて、雪奈。」

 優人は完全に後ろを向いていた。その背中を雪奈がつんつんと突っつく。


「なに?」

「お兄ちゃん、もうちょっと見たくない?」

「いいから着替えなさいっ。」

「はあーい。」

 試着室のカーテンがゆっくりと閉じられた。




 夜遅くまで、優人が自室で数学の問題集を解いていると、カチャと小さな音がしてドアが開いた。


「まだ、起きてた。」

 ドアの隙間から、雪奈が顔を覗かせていた。


「もう。お兄ちゃん、早く寝なよ。」

 ドアを大きく開けて、パジャマ姿の雪奈が入ってきた。

 雪奈は、優人の部屋に入るときノックをしたことがない。いつも、いきなりドアを開ける。雪奈が小学生の時からそうだったので、優人は注意をしたことがない。母と父は、年頃の息子だと分かっているから、必ずノックをしてきた。


「ん、このページが終わったら寝る。」

 優人は、数学の問題集に向き合ったまま答える。


「あたしが部屋に来るときは、必ず勉強してるね。」

「ここには何もないからな。」

 優人の部屋には、TVもゲーム機もマンガも置いていない。スマホは夜八時以降触らないようにしている。

 ゲーム機はリビングに置いてあり、夕方はそれで遊んでいた。

 雪奈は、優人に何か趣味を持たせようと考えているが、中々見つからない。


「やっぱりお兄ちゃんのベッド、広くていいなあ。」

 優人のベッドはセミダブルで、雪奈のベッドはシングルだ。兄妹の間で、なぜそんな格差が生まれたのかは知らない。


 雪奈はベッドの上で、寝ながら出来るストレッチを始めている。

 何時だったか、リビングで左右の足を水平に開き、上半身を床にピタリとつけた雪奈に諭されたことがあった。

 体を柔軟にしておくことは、とても大切なんだよ。

 美容にいいし、自律神経にもいいし、血行も良くなるから体が健康になるよ。

 毎日続けないといけないけどね。

 ゲームをしていた優人は、折角の雪奈の言葉を上の空で聞いていた。


「なあ、雪奈。」

「なに?」

「あのスカートって、どこに履いて行くの?」

 優人が、机に向かったまま数式の問題を解きながら質問する。

 あの後、雪奈は下着の線が浮き出るミニスカートを買った。

 そんなに高くないしこういうのひとつも持ってないから、というのが理由だった。


「んー、やっぱりデートするときかな。」

「デ、デートっ。デートに行っちゃうの?」

「まだ行かないけどね。」

「そ、そうか。まだ行かないんだ。」

「安心した?お兄ちゃん。」

「い、いやオレはだな、父親として確認しているのだ。」

「お兄ちゃんは、いつからお父さんになったの?」

 父は、昨年から海外へ単身赴任している。母から聞いた話では、あと三年は帰って来ないらしい。だから、父が不在の今、この家庭はオレが守らなければならないと、優人は考えていた。


「オレは、いつだって雪奈のお父さんだぞ。」

「ふーん。」

「それよりもだ、雪奈は付き合ってる人とか、好きな奴はいるのか?」

「どうしてそんなこと聞くの?」

「お父さんだからだ。」

「ふーん。お兄ちゃん勉強は?」

「し、してる。今、難問を解いているぞ。」

 優人は問題集を開いたまま手が止まっている。


「で、どうなんだね。」

「付き合ってる人はいないなあ。」

「そうか。お父さん、安心したぞ。」

「好きな人はいるよ。」

「いっ、いるのっ?」

 優人が、椅子をすごい勢いで回転させて振り向いた。


「お兄ちゃん、勉強。」

「あ、そ、そうね。勉強ね。」

 椅子がまた回転して、優人の姿勢が元に戻る。


「雪奈の好きな人って、どんな人なのかな。お父さん知りたいなー。」

「お兄ちゃん、猫なで声出すの止めて。気色悪いから。」

「ごほん。いくつの人なんだね。」

「年令は言えないけど、若いよ。」

「まあ、何事も若いに越したことは無いな。」

「あとね、顔はいい方だね。」

「ふむ。顔はいいと。これも、悪いよりはいいな。」

「あたしには、とても優しいの。」

「ほう。優しいか。これは、一番重要なことだな。」

「ねえ、お兄ちゃん。何してるの?」

 いつの間にか、雪奈が机の脇に立っていた。

 優人は、問題集の印字されていない部分に、雪奈の好み・若い・顔がいい・優しいと記入していた。


「こ、これはだな、雪奈の貴重な情報を残しておこうと思って。」

「勉強しないんだったら寝なさい。」

 強制的に明かりを消され、優人の一日が終わった。

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