六幕 うぐいす怪答しますね! 3
たなびかせたスカートを履き、フラメンコを踊るポーズをした女の、ピンク色のシュルエットが扉に描かれていた。シュルエットは床からハイヒールで接して、実物の女ほどの丈まで伸びている。彼女のつんとした鼻先を護は懐中電灯で照らし見てから、隣にいる高佐へ目配せした。
高佐が警棒を構え持ち、ドアノブを素早く回し、扉を押し開けた。護はいち早く懐中電灯で前方を照らし、ハンマーを高らかに振り上げ、開かれた扉をくぐる。
扉を越えた先に、護が目に飛び込んできたものは女子トイレであった。
護はこれまで一度も女子トイレの中を実際には見たことがない。男のトイレに並ぶ小便器がない。四角い部屋で、目の前の壁には扉閉まる縦長の六つの小さな個室が、横には洗面化粧台が横並ぶ。ワンコイン投入すれば、そのワンコインを返却して、無料で生理用品を配給するとの説明が備わった機械が壁に備わっている。上品な内装で、ジャスミンの香りがする。これは女子トイレで間違いない、と疑いない。
「誰かいるのか?」
緊張した面の高佐が個室トイレへ懐中電灯で照らし、声をあげる。
護は耳を澄ますが、無音だ。高佐と目が合い、首を傾げ合った。高佐に背後の警戒を頼み、右から並ぶ個室の扉を素早く開けていき、綺麗な洋式トイレと出会っていく――四番目の扉を開け、声がでた。
「アルマか?」
四番目の個室で、人が洋式トイレにもたれ掛かって座り、動かずにいた。長い栗色の髪によって斜め横に向ける顔を覆い、また肩から下をひよこ柄の布を掛けて覆い隠していて、身体の特徴が掴めない。髪の色からアルマだろう、と護は考え、不安が走る。
「アルマさんか?」
高佐が後ろから、困惑した声をあげる。護は高佐から押し退けられ、越される。高佐は洋式トイレで動かないでいる者を呼びかけ、顔を前へ向けさせる。それで、髪の覆いが取れ、目を瞑っているアルマが露わになる。彼女の額の左に痛々しい紫色の痣があった。
高佐が大声で彼女の名を呼び、両肩を掴み揺らすと、アルマが突然と目を覚まし、悲鳴をあげ、高佐の頬に音あがる平手を食らわす。アルマは目を尖らせ、外国語で何かを吼え、高佐の顔を引っ掻こう、掴みかかろうとも見える手の形で両腕を伸ばす。高佐は慌てて、彼女の両手首を掴み、「落ち着きなさい」と宥め聞かす。彼らのもみくちゃな様子に、護は横目で戸惑いつつ、周囲へ注意を払う。
「殺す」
アルマは吼えた後、途端に泣きだす。対抗をするのをやめ、首が項垂れる。高佐から続く宥める言葉に、繰り返しに小さく頷く。
「何があったの?」
「あの、犯罪者に、背後から襲われた。わたし、あいつに酷いことされた」
あいつ。あいつとは、ケントだ――。
怖くなるほど速く、脳が護に答えを与えてくれた。彼女に何があったのかの映像も再現してくる。護に、怒りを吐息としてださせる。
「わたしを触るな。近寄るなっ」
アルマが高佐へ怒鳴る。高佐は慌てて、彼女から手を放し、少し距離を置く。
「そ、その」いって、表情を曇らせる高佐は言葉を詰まらせ、視線をアルマから逸らす。「――ケント君から、酷いことって」
「わたしがここから誰かから見られているのような視線を感じて、調べに行ったら、あいつがわたしを懐中電灯で殴ってきて……」
アルマは閉口して、辺りを伺うように首を動かす。そして自身の身体のほうを見下ろし、ワンピースの上から胸元や、尻を触る。足元に落ちてあるひよこ柄の布のほうを見つめ、口を開けた。
「ここは、トイレ?」
そう尋ねた彼女は、護から見て、先ほどよりも随分と落ち着いていた。彼女の問いに、高佐が応える。
「あいつはどこ?」
アルマが聞き、高佐が首を傾げる。アルマは額にある痣に手を当てて、やや俯く。
ケントはここにはいないだろう、と護は予想する。念のために、開けていない個室の扉を開けて、中を確認していった。変哲のないただの洋式トイレで、誰もいなかった。
「とりあえず、ここから出よう」
高佐が促してきて、護は頷く。トイレから出ようとした時、後ろでアルマが短い悲鳴をあげた。何事かと振り返れば、アルマは洗面化粧台にある鏡のほうへ大きく開いた目をやっていた。
「どうしたの?」と、高佐が心配そうにアルマへ聞く。
「何でもないです」
アルマは素早く高佐のほうへ向き、はっきり答えた。額にある痣を摩り撫で、トイレから出るのを促す。
護たちがトイレから出れば、紫雨と角井がどちらも怯えた顔をして傍に駆け寄ってきた。二人は声を合わすようにして「何があったのか」と質問してきてから、察した風にアルマのほうへ暗い眼差しをやる。
「わたし、店を調べていたら、あのケントから襲われた」
アルマは躊躇いなく大きく答え、俯く。晒す白い腕を摩りだして小刻みに震えだす。
「寒い。ここ寒いわ」
「寒いの? 寒いなら」
と、角井が着ている上着を寒がるアルマにやろうとする。しかしアルマから嫌がられ拒否される。
「わたし、カーディガンを持ってきている。わたしのナップザック、どこだろう?」
「あのケントが持ち逃げしたな」
護は閃いて、声にでた。他の者たちから戸惑いの目を一斉に向けられた。「持ち逃げなんて信じられません」と、彼らの顔に書いてあるのが、護には読めてしまう。彼らへ、「愚かよ」の言葉が頭に浮かぶ。こんなことも分からないのか、と呆れを通り越しての同情から教えてやることにする。
「全く、末恐ろしい。人間とは一度犯罪に手を染めると、罪悪感が薄れる、罪を犯すことの感覚が麻痺してくると犯罪心理学の本で読んだことがある。また軽犯罪を一度でも行うと、次はその行った軽犯罪よりも、もっと重い犯罪を行う確率が高いとも覚えている。
あいつは前科者。あいつは俺に窃盗をして、前科者になったと教えてきた。あいつは既に罪を犯すことに抵抗感がなかった。まず、角井さんを躊躇いなく暴行したのが、その良い証拠。そして、アルマさんも暴行した。――紳士暴行、婦女暴行をしたときたら次は何をする? 襲った相手から金品を盗むのは、あいつにしたら辛いカレーを食べた後に水を飲むようなものだ」
「わたしのナップザックの中に、大金の入ったお財布がある。日本滞在するために、沢山フランを持ってきた」
アルマが声をあげ、目を尖らせる。
「ほら聞いたか。あいつが盗みをしないと疑うほうがどうかしている」護はいい捨ててから、ため息がでた。呆れのやつに背中を押され、「面倒なことになったな。俺たちはこのモールで二人のおかしなやつらを捕まえるだけではなくなった。ほんと面倒なことに、新たに捕まえなくてはならないやつが追加されたわけだ」
護の周囲の者たちは納得する顔になり、口々に護の意見に合わせてくる。
「必ずあの悪党を捕まえなければいけませんよ。今頃、あの悪党はこのモールから逃げ出そうとしているかも」
こう憤って述べたのは、角井だった。護は「その通りだ」としかいえない。高佐も憤って、トランシーバーに怒鳴り散らすようにしてケントへ応答を求めだす。これには、護は「無駄なことだ」としかいえなかった。
あの、と紫雨が声をあげた。
「もしかしたら、あの弓中さんはお財布だけ盗んで、ナップザック丸ごとは盗んでいないかも。アルマさんが襲われた場所に、ナップザックが残っているかも」
「トイレにはナップザックはなかったね」
高佐から護は見られ、頷く。
「あの店に、わたしのナップザックが残っているかも。襲われた場所は、トイレじゃなかったから。ナップザックがないと、困る」
アルマはそういって、襲われた場所だという店へ行きたがる。モールのマップを広げ、辺りを懐中電灯で照ら眺めてから、マップへ視線を落とす。斜め左前を指さして、「あの真珠の店で襲われた」と教えてきた。
真珠の店――と、護は彼女の示す先を目で辿る。貴金属GOROUから左へ数えて三件隣に真珠だけが置かれている店があった。ここから近くにあるといえる。アルマが「すぐそこ」だからと、一緒にナップザックがあるかどうかを確認しに行ってほしいと皆に頼みだす。
高佐と紫雨はすぐに快諾した。角井は顔を渋め、閉口する。その様子を護は眺めて、自分はたぶん角井側――追いかけたい側にいる気がした。
ケントをここから逃亡させる前に早く追ったほうがいい、と護は思う。ケントの向かっている先は間違いなくメインエントランスだ。あの店のある方向はメインエントランスがある。通りがてらのついででにはなる。
ついでだ、と、護は考えを決め、承諾した。周囲と合わせて行動する時間が惜しく、ひとりでに彼女の示す店へと赴く。
申し訳ございません 本日休業中です
彼女の示す店の迎え口――両開きの透明な扉は、閉じていた。扉には、このように書かれた表札が下がっていた。
護は透ける扉から店内の様子を覗く。店内はおかしなほど廃墟らしくない、真珠のジュエリーが並ぶ。高佐たちから声を掛けられ、傍にやってこられる。
「なんか、おかしい」
アルマが声を絞り出していった。扉のほうを真っ直ぐ向いて、顔を強張らせている。
「おかしいって、何がだい?」と、高佐。
「わたしがこの店に入った時、扉閉まってなかった。……どう説明したらいいか分からない。だけど、なんか、おかしい」
アルマが黙り込み、額に右手を当ててから、店に顔を背けた。強張らせた顔に血色の悪さが現れる。その顔色を感じとったのだろう紫雨から心配され、背中を撫でられだす。
無理をするな、と護はアルマにいいかけた。だが無粋に思えて、やめた。無理をするなから、彼女は辛い目に遭ったことを考えるだろうから。辛い目に遭った場所だから、本当は見たくもないのかもしれない。
「俺が店内を確認してくる」
護はそう告げ、扉に手を掛けた。閉店と申す扉は抵抗することなく、開いた。店内へ入り、速い歩調でナップザックを探りながら廻る。見て行った限り、ナップザックらしきものはなかった。
「ケントは丸ごと持ち逃げしたようだ。たちが悪い」
店の前で待つ者たちのもとへ戻ってきて、護は教えてやった。
「あいつを早く捕まえにいきましょう。いいや、もう警察に通報だ。我慢ならない」
唾の飛沫を飛ばしながら訴えかけた角井は、顔を怒りで赤く染める。
「警察って……」
高佐が口ごもり、表情を曇らせる。警察に通報すれば、調査の終わりを意味する。だから高佐は嫌そうだ、と護は彼を見て思う。護も警察への通報に躊躇いがある。
とにかくケントを追わなければ、と護はメインエントランスのある方角へ駆けだす。角井が駆けてきて、肩を並べる。後ろから、「待って。わたしも一緒」と紫雨から声をかけ、追いかけてくる足音がする。彼女のために走る速度を下げ、振り向く気はないが、つい彼女のほうへ後ろ手をやってしまい、ちょっと悔しくなって舌打つ。彼女から後ろ手を掴まれ、彼女を引きながら速度が落ちて駆ける。角井に先を越され、かなり悔しくてまた舌打つ。
(ハンディなんかクソだ)
護が紫雨を急かした時だった。どこかから鉄琴の音が、これから放送が開始されるのを窺わせるリズムが奏でられてきた。
続
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。