五幕 ぺちゃいせん 怪道 5
親指の爪の間の皮膚にちくっとした痛みが走り、護は親指の爪を齧っていたことに気がついた。深爪になり、血が薄っすら滲み出ている。もう目覚めることはないのではとの不安に駆られての、好きでない癖がでてしまう。
不条理にも暴挙を受けた男は、目を閉じたままだ。どんなに高佐から揺すられ、声を掛けられても、変化を見せない。逞しさのない、中肉中背の身体。若そうではある。あんな暴行を加えられたのだ。下手したら内臓破裂を起こし、昏睡状態に陥っていそうだ。
護は非難する睨みをケントへやる。ケントは先ほどと同じで、高佐へ申し訳なさそうに、へこへこ頭を下げている。
「俺がああしなかったら、調査を続けられなかったですよ。俺はみんなのために、汚れ役を引き受けたんです。そう、調査を続行させるために、事件を解明させたいからの一心でした」
と、これもまた先ほどと同じに、ケントは高佐へ懸命に語る。もう、聞くのがうんざりする。裁判所で裁判長へ情状酌量を訴えかける被告さながらだ。前科から培われた経験を活かしているのだと、護に痛感させる。
倒れる男の傍で、高佐は座りこんだ。己の額に手を当てて、ちょっと唸ってから、頷いて訴えを認めた。
「分かったよ。そうだったのだね」
なにが分かったのか――。
護はさっぱり分からない。「やっぱり、高佐だ」とは、やっぱり分かる。このまま認めてはいけないと分かり、異議を申し立てようとしかけた時、紫雨が声をあげた。
「救急車を呼びましょう。呼ばなくちゃ」
その通りだ、と護は頷く。高佐は首を横に振った。
「救急車を呼んでは駄目だ。それに、俺からして救急車を呼ぶ必要はない。彼は間違いなくただ気絶しているだけだ」
「そうは思いませんけど」
「いいや。気絶しているだけだよっ」
紫雨の声小さな意見に、高佐は声大きく否定する。
「あのね。いいかい。救急車を呼ぶってことは、もうこれ以上調査はできないっていうことだよ。ここで調査が中断されたら、この先またここで調査できる機会がいつ訪れるかは分からない。きっと、その機会はないだろう。――みんなはここを調査したくないのかい?」
やっぱり、高佐だとしか、護は思えず、閉口させられる。紫雨は「調査がしたい」と述べる。アルマは何もいってこようとしない。――自分を含めて納得させられた雰囲気を、護は肌で感じた。
「俺が全責任を取る。みんなは不安になることないよ。俺が彼のことも何とかするから」
晴れやかに、高佐が自己犠牲を頼もしく宣言した。ふてぶてしくも、ケントは高佐に責任を頼み、その礼をやる。高佐はそんなケントに何もいわずに、朗らかに続ける。
「俺には分かるんだ。彼はね、すぐに目を覚ます。そうしたら、俺が彼にちゃんと説明をする。そうすれば必ず彼は俺たちを理解し、同情してくれて、調査することを内密にしてくれるよ。――俺を信じてほしい」
この五人の中で、ひとをいい包めることが一番上手いのは、護からして、高佐である。その他の者はすることもできなさそうだ。
紫雨、アルマが高佐に同意する。遅れてで、護は躊躇いつつ、同意した。
「俺はここで、この彼が起きるのを待っていることにする。みんなは調査を進めて構わない」
「分かりました。俺はちょっとひと足先に、この広場の奥にある通りへひとりで行ってきます」
「ひとり行動は駄目だ」
護が即答すれば、こうして高佐から即答。なので、即答よりも速いテンポで、舌を打ってやる。
あの、とアルマが声をあげた。続けて、紫雨が同じ声をあげた。
「わたしが護さんの傍にいるので、護さんはひとり行動じゃないです」
紫雨がアルマよりも先に発言する。アルマは紫雨へ瞬いた。高佐がアルマへ「何かいいたいことがあるのか」と聞いたが、アルマは何でもないと首を横に振った。
「別れて調査するなら、これを渡しておこう」
高佐はリュックサックからトランシーバーを二台取り出した。一台を護に渡し、もう一台をケントに渡した。
「今日一緒にくるはずだった俺の同僚二人と、調査をしながら連絡を取り合うために、トランシーバーを用意しておいたのだよ。使わないかと思ったけど、使うことになったな」
高佐はいって、小声で笑う。
「へぇ」と、護は述べ、トランシーバーを眺める。「品質の高いトランシーバーですね」
「うん。品質の高いものを選んで買ったからね。――何かあったら連絡するのではなく、こまめに連絡をいれてくるように」
「了解です」ケントがすぐに応え、アルマに声をかけ笑む。アルマから明るい声で応じられれば、「あの二人は、二人で調査をするようだからさ。俺たち二人も、二人で調査しようよ」
ケントとアルマが肩を並べるのを横、護はマップを広げ見る。マップに描かれる、ドリーム広場の奥に進めば始まる二つの通りを目で辿る。メインエントランスから建物の中を見たとして、左の通りには「おふじ通り」、右には「ひのき通り」と名づけられている。
後ろから紫雨に肩を掴まれ、護は応じる。
「護さんは、ここからどこへ行くのですか?」
「おふじ通りは、レディースファッションを主に集めた通り。ひのき通りは、貴金属を主に集めた通りとのこと」と、護はマップから説明を読みあげて、苦笑い。「どちらも好きな通りではない」
「わたしはお洋服が好きだから、おふじ通りへ行きたいです」
なら、先におふじ通りへ調査に行くか、と護は決める。どっちからでも構わない。肝心なことは、どちらもこの目で調査することだ。
おふじ通りを目指し、護は歩きだす。と、紫雨から手を繋がれた。見やれば、嬉しそうに「何であるか」と訊かれる。何と答えてやればいいのか悩ませられ、ついてこられるのがちょっと煩わしい。悩むのが面倒に思え、黙々と歩く。
ドリーム広場から始まる二つの通り近くにある壁に、左におふじ、右にひのきとの通りを示す案内板が備わっていた。視覚からして、どちらの通りも同じ広さの幅、乗用車二台が横並びで往行するのに問題なさそうだ。
まっすぐ、護はおふじ通りへ進み、ふと奈々を想う。
(奈々は、どっちの道を歩いたのだろうか。どちらも、奈々の好きな通りではないな……)
不思議な胸障りが、護にはした。奈々を想うのを避けたいのに、こうもまた想う。――奈々がこの身の中なのか、傍どこかにいる感じ。奈々が、わざと想わしてきているような気がする。
護は目をちょっと瞑り、奈々を頭の奥へ追い払った。それで両サイドを見比べながら歩く。
通りに並ぶ店は、マップの説明通りに、レディースファッション関連の店ばかり。マップと違いはあり、マップに記されているのと違う店が置かれていたりする。この違いとは、1987年から今に至るまでの間で、店の入れ替わりがあったと意味するのなら、護には怖いことだ。
廃墟らしさの欠片もない店の建ち並び、入れ替わった店々――。
どうして、かなり昔に閉鎖したモールにこんなことが起こっているのか、と護は理解に苦しむ。これが、財閥が呪いを受けないための、奉りだとしたら、行き過ぎた行いに思う。
「護さん。そんな怖い顔をして、何を考えているのですか?」紫雨が護を覗き込んできて、訊いてきた。
「このモールについて色々と、だ」
「そうですか」
「具合は大丈夫か?」
紫雨から目を見張られ、護は顰める。
「何だよ。そのツラは」
「えっと」いって、紫雨は微笑む。「心配してくれるなんて思いもしなかったから、驚いてしまって」
「そう。思いもしてなかったのか」
失礼な発言に思え、護は顰めたまま前を向く。すぐ紫雨から謝ってこられ、許してはやるが、顰めは残る。
「具合が良くなったのは、護さんのおかげです。護さんの傍にいるの好き。気分が明るくなる」
護は立ち止まり、紫雨を見る。「何であるか」と、彼女から聞きたそうに見つめられ、返答を考えだそうと考えるも前に、笑いをちょっと零され、身体に倒れかかってくっつかれる。服の腰を両手で掴まれ、胸骨辺りに頬を押しあてられる。
「好き」
紫雨は告げ、潤んだ黒目を恥ずかし下へやる。吐息をこぼしてから、小さな声で続ける。
「『好き』――これはもう、決定事項。護さんは、わたしのこと好き?」
「嫌いではないとは分かる」
護は正直に答えた。紫雨から見上げられ、悲しい顔をされた。
「なんか冷たいですね」
「嘘で『好き』っていってもらえたら、嬉しいのか?」
「いいえ。……だけど、わたしとキスとかしたのだから、護さんはわたしのことが好きで決定ですよ」
護は首を傾げ、顰める。
「勝手にひとの感情を決定するな。別に好きじゃなくても、可愛い子とならキスとかできると思うけど」
紫雨は口に手を当てて、可笑しがるように笑った。
「うん。やっぱり好き。しかも、すごく」
護は紫雨から右頬に手を当てられ、見つめられる。なんとなく、何をされるのかを察し、遠ざけようかと悩む。
悩んでいる内に、彼女が背伸びをし、お互いの鼻の先をぶつけて唇にキスをしてきた。可愛らしく微笑んでから、抱きついてくる。
護は恥ずかしくて堪らず、顔が熱くなる。ひと目が気になった。高佐たちがもしかしたら後からついてきているかも、と考えさせられてだ。来た道を照らし確認しても、誰もいない。誰かの気配も、何も感じない。悪霊が出る廃墟との話を、唐突に思い出したが、その話で何かを感じることはなかった。
(客の来ることない閉鎖されたモールなのに、ひと目か……)
ひと目を気にしたことをちょっと馬鹿に思え、失笑した。
続
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